『ラシーヌ便り』no. 215 「私とワイン III」
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定番エッセイ, 合田 泰子のラシーヌ便り, ライブラリー
「1年フランスに行ってくれば?給料の半分を送るから」と夫。1987年の春のことです。フランスに行きたいとずっと思っていましたが、子供は4歳と1歳。次男の玲英はまだ授乳していましたので、まさか実現するとは思いませんでした。「行くなら今しかない。難しかったら帰ってくればいい。ただ住んでくればいいよ、何かが見つかるかもしれない、見つからなくてもいい」と夫の言葉に励まされ子供2人とフランスに行くことになりました。「面白そう」と母もついてきてくれ、幼稚園の送り迎え、家事を担ってくれました。
滞在許可証をとるために、ボルドー大学の語学コースに在籍して学生ビザをとり、デギュスタシオンの授業を受けました。
初めての授業の時、醸造学研究所のリベロー・ガイヨン教授が「どちらの会社からの留学ですか?サントリーですか?メルシャンですか?」とおたずねくださいました。当時は、一般人がこの講座を受けることはほとんどなく、受講生はシャトーの子弟、ソムリエ、ワインショップのオウナーなどでした。
初日、偶然にも隣に座っておられた方が、ガイヨン教授の妹のカミエ夫人で、ご主人が小児科のドクターでした。彼女は、実家のあるプルミエール・コート・ド・ボルドーでの醸造に参加するために、受講しておられました。
また、彼女からアパート近くに住む看護師のマリー・シュロッセさんを紹介いただきました。一番心配だったのは、見知らぬ地での子供の健康でしたから、これで滞在中の不安は全くなくなり、どれほど心強かったかわかりません。実際、子供たちはひどい風邪をひいて高熱をだしたり、固定されていないオーブンレンジがひっくり返ってやけどをしたりと、Dr.カミエとマリーにはお世話になりっぱなしでした。
長男は東京にいた時、毎晩喘息の発作をおこしていて、転地療法をすすめられたほどでしたが、飛行機にのったとたん喘鳴がとまり、日本から持っていった、薬の量を測る注射器と吸入器はほとんど使わずにすみました。
母は、ビザがなかったので、言葉はまったくわかりませんでしたが、3か月に一度国境を越えて、ベルギーの知人を訪ねました。
ボルドー市内でアパートが簡単に見つかったわけではありません。ホテルに滞在し毎日アパートを探しました。「今日、明日見つからなかったら、旅行をして帰国しよう」と思っていた時、バスの中から「部屋を貸します」という広告を見つけました。不動産屋さんに、適した物件があるわけがなく、バス停前に学生向けの貸アパートの小さな広告がいくつもありました。幸い幼稚園と市場に近く、大学行のバスが通るガンベッタ広場近くにT2(キチネット、家具とバスタブが付いた)アパートを見つけることができました。治安もよく、ご近所の方ともすぐに仲良くなることができました。
カミエ夫人が授業の時、いつも送り迎えをしてくださったことも、精神面で大きな支えでした。
1987年は雨がちな年でしたので、セップ茸が豊作でした。フライ、グラタン、ソテー、パスタなど嬉しいご馳走でした。キリスト教の国ですから、キリストが十字架にかけられた金曜日は魚を食べます。海辺の街なので、金曜日の朝魚屋さんに行くと、活きのいい鰈やひらめ、鯛などが跳ねています。春には真っ白のアスパラガス、5月にはガロンヌ河で捕れる“アローズ”(骨の多い魚で、日本ではヒラにあたる)を剪定したブドウの枝で焼いたりと、季節の食材が豊かでした。
立派なかまえのチーズ屋さんがしょっちゅう閉まっていて、どうしてかしらと思っていたら、地下の熟成室でチーズの管理をしていたため、営業時間が短いということも驚きでした。農家製のチーズの世界を知り、チーズの仕事につこうかと思ったほどでした。
幼稚園での楽しい行事も忘れられません。「着なくなったお父さんブラウスを持ってきて」という連絡に、なにをするのかと思ったら、ボタンを背中側でとめて、水彩画を描くときのスモックでした。絵を描くときは、イーゼルに紙をはって、たてて描いていたのには感心しました。工作で作られるものも楽しく、幼いころから美術への関心を育てる環境を経験できたことも思い出です。
当時は、ワイン産地での消費は、ほぼその地域のワインがほとんどで、ワインショップは、シャンパーニュ以外はほぼすべてボルドー産でした。授業に登場するワインは、ほとんどが協同組合製、それでも、グラン・ピュイ・ラコストのシェフ・ド・カーヴが授業の時には、1976年を味わうことができ、「単においしい、まずいではなく味わいの格は、まぎれもなく存在する」と思いました。オペラ座横の小さなワインショップの地下に、古いヴィンテッジのオー・メドックが何種類もホコリをかぶっていました。お手頃な値段で、1960年代、70年代が見つけられました。
マリーの夫のカールさんは、サンテミリオンのシャトー・スタールで働いていました。オーストリアの戦災孤児だったカールは、戦後の孤児救済支援により、シャトー・スタールのデ・リニュリ家で育ちました。シャトー・スタールに連れていただき、誕生年の1955年をご馳走になり、クリスマス、家族のバースデーによんでいただき、毎日がどれほど豊かだったことか、知り合いがいない地で、本当に幸せな滞在でした。
振り返ると一番好きだったのはシュナン・ブランで、仕入れに携わるようになって最初に尋ねたのもロワールでした。
授業はあまり理解できませんでしたが、シャトー訪問をしたり、ワイナリーの醸造家によるテイスティングの機会があったり、瞬く間に1年は過ぎました。
1987年ごろは、ボルドーは辛口白ワイン革命の最中でした。ドゥニ・デュブルデュー教授(Denis Dubourdieu)は「白ワインの魔術師」と称えられ、ボルドーの辛口白ワインの品質を劇的に向上させた立役者でした。
7月に授業が終わり、ランスに旅行、チャペル・フジタに行って帰国しました。
合田泰子
今月のワイン
VINI VITI VINCI / NICOLAS VAUTHIER
名前の由来は、有名なシーザーの言葉「Veni vidi vici 来た、見た、勝った」(出典・記録: スエトニウスの『ローマ皇帝伝』)
先日Vini Viti Vinciの2023をワインバーで飲んで、驚きのあまり、その夜は興奮の嵐。
Le pinar qui rend si obscure 2023:イランシーにあるCroix Buteixの区画に植わるピノ・ノワールとセザールのブレンド。PinarはPinot + Cesar の言葉遊びと同時にフランス語のスラングでワインを意味する。2023は収量減のため、セザール100%で1樽のみ。
スターウォーズでいうフォースの暗黒面は、フランス語で le cote obscur de la Force という。そのためダースベイダーを思い浮かべるキャラクターがエチケットに使われたようです。
登場して17年、リリース後から愛好家の大きな注目を浴び続けてきました。2022も驚きましたが、2023も内蔵をぐっとつかまれたような、魅力の塊です。あらためて、ニコラとの出会いと歩みを振り返ってみましょう。
2009年の秋。アリス・エ・オリヴィエ・ド・ムールを訪問した際、「この地域の赤ワインに興味があるなら、行ってみたら?」と新しい造り手の誕生の話を聞きました。オリヴィエから聞いた話は、とても興味深かったので、すぐにショップで1本買って、テイスティングしました。ナチュラルワインの特徴がくっきりとうかがえ、ヴォーヌ・ロマネのニュアンスを帯びた柔らかな香りとエキスがこもっていて、ピュアでとても素敵でした。
訪問を決め、ブルゴーニュからミラノに移る夜行列車に乗る前に、急遽訪れました。その日はドメーヌ・デ・クロワでの充実した2009年のテイスティングを終えて、夜もふけたころ、カーヴのあるアヴァロンにやっとのこと到着。この日は凍るような寒さで、陽がくれたアヴァロンの町には、雪が降り始めていました。
セラーは廃業したネゴシアンの建物を部分的に譲り受けたもの。小さくて簡素なセラーながら、ピノ・ノワールには木樽のオープン発酵槽を用い、 白ワインは小樽での発酵・醸造というぐあいに、上質なワイン造りの条件が整っています。
1970年、トロワ生まれのニコラ・ヴォーティエは、ボジョレにあるベルヴィルの醸造学校を卒業後、ワシントン州とシアトル近郊のワイナリーで働き、その後トロワにあるヴァン・ナチュールの聖地といわれる、“Aux Crieurs de Vin”という専門店・兼ワインバーで15年にわたりカヴィストとして働いてきました。その間、各地の自然派の造り手たちと親密なネットワークを作ってきました。そうして、長年の夢を実現すべく、ドメーヌ・サーブルとパカレで研修後、2009年に買ブドウでワイン造りを始めました。
ブドウの購入先は、シャブリ、アヴァロン、ヴェズレの有機栽培の造り手や、長年誠実な栽培をしてきた老人の栽培家などから。除草剤を使わず、小さな機械による深耕で栽培されたブドウを購入する一方で、またモンタネなど、ヨンヌ県の複数のビオロジック・ワインの造り手から、ブドウを分けてもらっています。
ユーモアを忍ばせたエチケットも愉快ですが、誠実で才能のある造り手で、とびきりの冗談精神にもあふれた腕と勘が冴える、天性の醸造家です。わくわくするような、楽しさあふれる味わいですが、一瞬驚くような芯の通った、丁寧なワイン造りのよさが表れています。軽やかなエキスは即座に心をつかみ、良年の単一区画ピノ・ノワールは熟成によりコート・ドールにも比肩する深さを見せます。




