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Some Thoughts on Vinous Fever no.2

サイエンス・フィクション

科学屋とは:科学を専門的に深く学んだ人ではなく、科学という言葉を聞くと、急に白衣を着たような気になる人のこと。

私は、科学者ではない。

科学を専門的に学んだことも論文を書いたこともないし、ましてや研究費を申請することもなければ、査読を待つこともない。

そんな私の研究施設は、だいたい酒の席、もしくは自宅である。

研究責任者は私。
被験者も私。
予算は自腹。

倫理委員会なんてたいそうなものは、存在そのものが確認されていない。

それでも、日々あれこれ観察しながら生きていると、ときどき何か妙な規則性を伴った現象に気づく。

揚げ物を食べて、スパークリングワインを飲むと、油分がさっぱりする感覚がある。
スーパーマーケットで買った普通のワインを、このくらいのスピードで飲むと、1時間以内に後頭部に鈍い痛みが走るが、ナチュラルワインの場合はもっと飲まないと同じようにはならない。
揮発酸とブレットの香りがこの強度で出てきたら、約20分後には、ネズミ臭がやってくる。

一度なら偶然だと思い、気にも留めない。
二度なら、まぁまだ偶然だろう。
しかし、五回、十回と続くとさすがに、何か法則があるのではないかと疑うようになる。

そこで私は考えるのだ。

ひょっとすると、AとBの間には何らかの因果関係があるのではないか、と。

もちろん、素人がたてた仮説だ。

真理へ到達した気になって、アルキメデスへの敬意を胸に、エウレカ!!!と叫びながら論文を宙にばら撒いたりはしない。

そもそも人間という生き物は、毎朝同じ条件で起動するほど精密には造られていないのだから、被験者が自分自身である以上、根拠の弱さなど百も承知だ。

だから私が言っているのは、
「こういうことが何度もあった。もしかすると、こういう理由があるのではないか」
その程度の話である。

ところが、これを科学屋に話すと、かなり高い確率で例の言葉が出てくる。

「それは、科学的には証明されていません。」

なるほど。
それは私も知っている。

私はアペロタイムの雑談を、Nature誌に投稿したつもりはないのだが。

そして、少々気まずいのは、その一言が単なる事実確認では終わらないことだ。
直接口には出さなくとも、科学屋のその言葉には、だいたい隠された文脈がある。

「それは、科学的には証明されていません」
—-だから、あなたは間違っています。—-

おっと、私はいつ被告になったのだろうか。

 

こういう時、私はたいてい、
「では、私が間違っていることを証明した研究はあるのですか?」
と聞き返したくなるが、その言葉は喉の奥に押し込むことにしている。

例えば私が突然、
「土星の衛星であるタイタンでは、納豆菌を頂点とした高度な微生物社会が繁栄しており、そこには言語すら存在している」
と言い出したとして、その不存在を世界中の天文学者や生物学者が証明する義務はないわけだ。

つまり、仮説を事実として主張するなら、根拠を示す責任も付随してくるのは、当然である。

ただ、私はそもそも事実だと言っていないのである。

 

ここが、科学屋との会話で妙に捻れる。

世の中には、
正しいこと、
間違っていること、
この二つしか存在しないわけではない。

その間には、途方もなく広い領域がある。

科学とは、本来この巨大な「まだわからない」を少しずつ削っていく営みであるはずだ。
そして、まだわからないものについては、簡単に結論を出さない。

 

ビオディナミの例を考えてみよう。
プレパラシオンの作用については、長く、科学的にもよくわからない部分が多かった。
だから科学は、簡単には結論を出さなかった。

一方で科学屋は、
「証明されていない。だから意味はない」
とずいぶん早く話を終わらせてきた。

ところが近年、一部のプレパラシオンについて、土壌微生物や植物生理に作用する可能性を示す研究が少しずつ積み上がっている。

もちろん、それによってビオディナミという体系全体が、科学的に証明されたわけではない。
ただ、少なくとも「意味はない」と断言するには、少し早かったようだ。

 

このような事例は、ワインに限った話ではなく、あらゆる分野において、歴史の中で何度も繰り返されてきた。

それでもまだ、一部の科学屋にとっては、
「科学的に証明されていない」
という言葉が、妙に強く働く。

科学は、
「まだわかりません」
にとどまっている段階なのに、
科学屋は
「そんなものはありません」
と翻訳する。

原文にない文章を加えているのだから、翻訳としては大胆すぎる。

 

もちろん、私の経験則だって十分に怪しい。

自分の感覚が正しいと思っている人間ほど、外から測ってもらった方がいい。
私は自分の五感をそれなりに信用しているが、絶対視しているわけではない。
自分の脳が、それほど誠実な記録係ではないことくらいは知っている。

そして、ワインという飲み物に至っては、思い出補正という凄腕編集者まで常駐しているのだから、記憶は常に、それなりに盛られているものだ。

 

だからこそ、
「私にはこう感じられる」
と、
「これは事実である」
の間には、はっきりと線を引いておきたい。

 

人間が自分の勘違いを修正するために発明した仕組みとして、科学ほど優秀なものはなかなかない。

だから、科学的に証明されていないものを、正しいと断言してはいけない。
だが、「証明されていない」という理由だけで、それを間違いだと断言することもできない。

わからないものがわかるまでは、わからないままにしておく。
私は、科学にその慎重さを期待している。

科学がまだ何も語っていない空白に、自分の結論を書き込み、それを科学の言葉として読み上げる。

それこそが、私にとってのサイエンス・フィクションだ。

 

梁世柱:ソムリエ、ジャーナリスト、エデュケーター。ワインを飲み、教え、考え、ときどき余計なことまで書いています。

 
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