Some Thoughts on Vinous Fever no.2
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梁 世柱の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
ノスタルジア・ポリス
アルコール濃度が15%に達するシャブリがある。
きりっとした酸。
冷涼さを感じさせる柑橘のアロマ。
線の細い果実味と、硬質なミネラルの輪郭。
そんなシャブリを思い浮かべていると、15%という数字に、少し戸惑いを覚える。
実際、Christy Canterbury MWは、2018年のシャブリについて、ネゴシアン市場に15%、さらには16%のものがあったと報告している。
私自身も、15%に達するシャブリに何度も出会っている。
私たちが覚えてきたシャブリの姿だけでは捉えきれない現実が、すでにあるのだ。
そのようなワインを目の前にして、
「シャブリらしくない」
そう言いかけたとき、私は一度、深呼吸をするよう心がけている。
その違和感は、ワインの何を言い当てているのだろう。
土地への不忠実か。
それとも、私が知っているシャブリ像との乖離か。
この「らしさ」は、ワインの世界でティピシテ、すなわち典型性と呼ばれる。
ある産地のワインを、その産地のものとして認識させる特徴だ。
ティピシテはテロワールと深く結びついているが、土地から自動的に立ち上がるものではない。
何をその土地らしいと認め、どこまでの違いを受け入れるか。
そこには、人の選択と合意がある。
そもそも、テロワール自体、人間を含んだ概念である。
細かな区画の土壌や気候だけでなく、そこで培われた栽培や醸造の知恵も、ワインのあり方を形づくっている。
だから、自然に任せたものと、人が調整したものを分け、前者だけを本物とするほど、話は単純ではないのだ。
人が選び、人が造る。
そのことに異論はない。
私が問いたいのは、その選択が、いつどのようにして「唯一の正解」になるのかということだ。
そして、その問いを考えるうえで、避けて通れないのが原産地呼称制度である。
原産地呼称は、葡萄の出生地を証明するだけのものではない。
その名を名乗るには、生産に関する規定を守り、求められる特徴を備える必要がある。
例えばフランスでは、生産者らによる防衛・管理組織であるODGが規定の策定などを担い、官能検査は管理機関の責任下で行われる。
検査で確かめられるのは、当該規定についてODGが定めた「期待される製品」に合致するかどうかだ。
「期待される製品」。
この言葉に、私は立ち止まる。
そこにあるのは、産地という事実に加えて、その産地のワインとして何を認めるか、という共有され、制度化された判断でもあるからだ。
もちろん、その期待には重みがある。
産地名が一定の内容を保証するからこそ、飲み手は名前を頼りに選べる。
造り手もまた、長い時間をかけて築いた共同の信用を守ることができる。
こうしてティピシテは、地域ごとの違いを支える財産となる。
だが、その財産を守ることと、その基準を絶対視することは別だ。
「この呼称にふさわしい」と「この土地に忠実である」。
よく似た二つの判断は、はたしていつも正確に重なるのだろうか。
もう一度、15%のシャブリについて考えてみたい。
気候変動のなかで、造り手が向き合う条件は変わっている。
その変化を見極めようとする間にも、葡萄は熟し、収穫の判断は迫ってくる。
何をもって成熟とするのか。
酸をどこまで残すのか。
そして、どこで折り合いをつけるのか。
過去の味を知っているだけでは、今年の答えは出ない。
その選択の末に、アルコール濃度が高くなることもあるだろう。
もちろん、15%という数字だけで土地への忠実さを証明することはできない。
原因も意図も、気候変動の一言では説明しきれない。
それでも、馴染みのあるシャブリ像と異なるというだけで、その判断を誤りとは呼べないはずだ。
目の前の葡萄をどう生かすか。
造り手は造り手なりの信念で、忠実であろうとしたのではないか。
一方で、収穫時期や栽培方法を調整し、長く親しまれてきた酸や軽快さを守ろうとする造り手もいる。
そのような造り手たちもまた、受け継いできたものに忠実であろうとしている。
今年の土地に応えること。
受け継いだ味を守ること。
どちらにも忠実さがある。
そして現場では、その二つを簡単に切り分けることはできない。
造り手は、その両方を引き受けながら、悩み、選び、ワインを造る。
だからこそ私は、ティピシテには、その葛藤を受け止める幅が必要だと考える。
もし、土地の表現を守るための基準が、土地の変化を受け入れられなくなったら、何が起きるだろうか。
造り手は、現在の土地よりも、過去に記憶された土地の姿に従うことを求められる。
土地は変わっているのに、土地らしさは変えてはならない。
テロワールを尊重するという言葉の裏で、私たちはそんな無理を求めてはいないか。
守りたかったはずの土地に、いつの間にか、記憶のなかの味を演じさせてはいないか。
むろん、典型から外れること自体に価値があるわけではない。
欠陥と個性は異なり、珍しさは優秀さを保証しない。
また、15%のシャブリの存在は、制度による排除を示すものではない。
むしろ、制度が許容している多様さを、私自身の「シャブリらしさ」が受け止めきれていない可能性さえある。
そう思うからこそ、私が問いたいのは、変化を受け止める余地なのだ。
私たちの典型像にも、制度が認める特徴の幅にも、目の前の現実から学び直す余地があるだろうか。
その余地を残すために、まず私は、自分のなかにある三つの判断を分けておきたい。
「典型的である」
「優れている」
「この味が好きだ」
この三つは、重なることがあっても、同じ意味ではない。
典型性を知ることは、ワインを理解する助けになる。
私自身、その知識によって気づけることが多くある。
しかし、知識を得るほど、未知の味を受け止められなくなるのだとしたら、それは途方もなく寂しいことだ。
グラスを傾けるたびに、覚えた正解との答え合わせをしてしまう。
シャブリを熱心に学んだはずが、いつの間にか、シャブリに「こうありなさい」と指導する立場になっている。
私の教科書に合わせて葡萄を実らせてくれとは、ずいぶん偉くなったものだ。
そのとき、目の前の一本が教えてくれたはずのことを、私はどれだけ取り逃がしているだろうか。
改めて問おう。
ワインの正解は、誰が決めるのか。
その呼称を名乗るための正解は、共同体が制度として定め、検査によって確かめる。
そこには必要な責任がある。
しかし、その認定だけで、ワインの価値も、その土地が表現し得る可能性も、すべて決められるわけではない。
私はティピシテを、更新可能な基準として尊重したい。
積み重ねられた経験に学び、その経験では説明しきれない一本に出会ったら、自分の理解のほうも問い直したい。
15%のシャブリを前に、「これは正しいシャブリか」と問うことはあるだろう。
そして、その問いだけで終わらずに、もう一つ問いを重ねたい。
「このシャブリによって、私の知るシャブリはどう変わるのか」
造り手が、変わっていく土地に向き合うのなら、飲み手である私も、変わる用意をしていたい。
それもまた、土地への忠実さなのだと思う。
梁世柱:ソムリエ、ジャーナリスト、エデュケーター。ワインを飲み、教え、考え、ときどき余計なことまで書いています。
