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エッセイ:Vol.88 面白がる

公開日: : 最終更新日:2014/12/26 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

無関心は敵だ

 ――が、2012年に私が設定したラシーヌのスローガンである。敵などとはいささかどぎつい表現だが、その心は、なにごとにも興味をもって、頭と心の冒険をしよう、ということ。なぜか。与えられた問題や事柄について、調べて答えを出すことは慣れればさほど難しくないが、自分でなにごとかに関心をもち、それに本気でもって自分流に立ち向かえば、頭が動くだけでなく、思わぬ副産物が産まれることもあるからだ。そのためには、先入観や予断を追い払い、心を自由にして、ものごとに接し、見つめて、考えればよい。

 私の場合、それは面白がるという心のモメントだろうか。あるいは、メンタリティとか、アティテュードといってもよい。なにごとかについて向き合う心的な態度を、方向性(ベクトル)の「向き」に力点をおけば、アティテュードになるし、そのような志向性がある人の性格や人柄(ベクトルの「大きさ」に相当)に重点を置けば、メンタリティということになる。しかし、まあ、比喩にもちだされたベクトルになぞ、こだわりすぎることはない。そこで、面白がることを、遠回りに論じてみようか。

不思議がること

 寺田寅彦はなんでもない日常的なできごとのなかにさまざまな問題を発見し、それを科学的に解いてみせた。彼の問題発見の糸口は、おやと思って「不思議がる」メンタリティから生まれたらしい。寺田は、よく不思議ということばを発し、人にも語り、文章にも残している。弟子の中谷宇吉郎は、科学への姿勢として深い影響を受けた言葉として、寺田の「ねえ君、不思議だと思いませんか」をあげているとか。寺田自身の有名な言葉としてはたとえば、「科学はやはり不思議を殺すものではなく、不思議を生み出すものである」とか、「自然現象の不思議には、自分自身の眼で驚異しなければならぬ」が、あげられる。

 このように、寺田の発想の重要なキーワードは「不思議」であるといっても、過言ではない。その点を明快に言ってのけたのが、寺田を知ることの深かった和辻哲郎だ。「寺田さんは人々があたり前として看過している現象の中に数々の不思議を見出し、熱心にそれを探求している」とか、「寺田さんは最も日常的な事柄のうちに無限に多くの不思議を見出した」として、寺田その人の発想に迫る。いいかえれば、オープンマインドで不思議がるメンタリティといってもよい。それを例証するかのような別の言葉が、寺田にある。「心の窓はいつでもできるだけ広く開けておきたいものだ。」そのような志向を、心の柔軟性といってもいい。寺田のとらわれない柔軟な感性が、不思議という感覚を生み出したのだろう。

遊び心

 オープンマインドの特徴として、ものごとに惑溺せず、捉われない心境をあげるとしたら、この側面を《遊び心》と呼んでもいいだろう。ちなみに名著『ホモ・ルーデンス』(遊戯人)を著したホイジンガによれば、人間とはそもそも遊戯する存在であり、文化よりも古いとされる遊戯は、自然が人間に与えてくれたものであって、緊張・歓び・面白さを備えている。この《面白さ》の要素こそ、遊戯の本質であって、《真面目》の対立概念であり、なによりも《自由な行動》であるとされる。ここで、寺田寅彦とヨハン・ホイジンガがつながってくるのが、また面白い。

 博学なホイジンガは日本語にまで説きおよぶ。日本人の遊戯観を精査すれば日本文化の真髄まで考察を進められるとするホイジンガは、「日本人の生活理想の中では、異常なまでの厳粛さ、まじめさというものが、森羅万象はただ遊戯たるにすぎざるなり、という虚構の奥に隠されている」と見抜いた。が、ここで真面目さと遊びのドラマはホイジンガにまかせよう。

 遊びそのものではなく、遊び心を問題にしたいのだ。ここに、日本の芸能に詳しかった守屋毅さんの『日本人の遊びごころ』(PHP研究所)がある。が、恰好の書名にもかかわらず本書は、カルタや花札、盛り場、野球、家具などの起源や大衆化現象を深く追跡するのに終始する。また同書には、氏の同僚の栗田靖之さんが、家庭の中に飾り小物が氾濫している様を「思い出の博物館」とよび、それらがためこまれているのは「物にはみな魂がある」という伝統的な観念による、という面白い引用がある。けれども、残念ながら肝心な遊び心について守屋さんは語らなかった。ここでは、江戸・遊里の粋についての独創的な考察をした九鬼周造の『「いき」の構造』でも読んで、考えるしかないのだろうか。

違和感を生むこと  

 不思議さや遊び心よりも大事な感覚として、ベルトルト・ブレヒトは「違和感」を持ちだすはずである。ブレヒトの演劇理論の中心にあるのが、意識的に観客の心のなかに違和感を生じさせ、世界の矛盾や不合理を発見させるという方法である。しかし、むやみに違和感を作りだせばいいというのではない。観客を楽しませてリラックスさせておき、そこに冷水を浴びせてドラマティックな違和感を強めるというのが、ブレヒト流のやや嫌味な作劇術である。これは「気づかせる」ための教育的な指導法であるが、人によってはお節介とうけとめるだろう。自分で問題を発見して考える人にとっては、余計なお世話なのだから。でも、「気づき」のよい人ばかりがこの世に多いとはかぎらないから、考えることを促す教師役がいてもいいだろう。議論はともかく、違和感もまた、問題発見の糸口になることは疑いない。

疑い心―騙し、騙される間柄

 そこで疑いの問題に移ろう。『常識を疑え』という、例によって論争的な著作が福田恒存さんにあったが、逆に常識を踏まえた知識が良識への大道であることを説いたのが、『正統思想』の逆説家G.K.チェスタトンである。ここでコモン・センス(「常識」;トマス・ペインの著書名。別の訳である「共通感覚」には、中村雄二郎の著作がある)を論じるのは面白いがちょいと面倒くさいので、やめておこう。

 常識の役割や是非はさておくとして、疑問が発見の母であるとされることに異論はない。疑いを抜きにした固定観念が不毛なこと、いうまでもない。が、そのような事実の発見へと導く創造作用がある疑いと、万事に疑い深いこととは、別の頭の働きである。

 とかく疑い深い人やなにごとも信じない人がこの世にはいるものだが、他方に信じやすい人や、騙されやすい人たちも少なくない。が、日常生活のなかで詐欺師や政治家から騙されるのが好きな人がいるだろうか。にもかかわらず、騙されるという現象が多発しているのは、世にお人好しが多いという決めつけからでは説明できない。振り込ませ詐欺は、身内のひとに困難が突然襲いかかる話で同情心や責任感を催させたり、うまいもうけ話に欲心が動いたりして、疑いや健全な判断力が働くのを巧妙に阻ませるのだろう。疑う心を判断停止にもちこんで、信じさせる作用を活かすのは、もちろん犯罪だけでなく、マーケティングや販売促進の手法でもあること、いうまでもない。

 広告につり込まれることはともかくとして、詐欺などの犯罪行為の被害者になりたい人はいないだろう。が、他人事の犯罪やゴシップが興味を引きやすいのは、タブロイド紙や週刊誌の盛況がものがたっている。が、犯罪事件はあくまで事件であって、現実におきる事件はたとえ他人事であっても、ちょいと後口がわるい。その点、ゴシップと、小説や芝居、映画などのフィクションは、人が興じるだけでなく、内心の騙されたいという願望を満足させるという効果がある。その最たるものが、探偵小説である。

謎の惑わし

 ひとはなぜ探偵小説を読みたがるのであろうか。こよなく探偵小説を愛した丸谷才一は、謎を解きたいという欲求が人間にはあるからだけでなく、われわれには謎に惑わされたいという欲求があるから探偵小説を読む、としている。ここから説きすすんで丸谷は、酒・恋・詩・哲学が、探偵小説よりずっと夢中にさせ、惑わせてくれること、いうまでもないとしたうえで、「探偵小説独特の惑わし方とは何かといふもう一つの難問が出て来」て、「これは見るからに厄介さうだ」としている。

 丸谷さんが解けない厄介な問題を、私ごときが解けるわけがないから、この問題に深入りするのはやめよう。ただ、探偵作家が意識的に設定した謎と謎解きだけが、探偵小説の楽しみではない。たとえば、吉田健一さんが偏愛したアメリカ人作家エリオット・ポールの作品(その『ルーブルの怪事件』は、稀覯本となっている)では、探偵という人物の人となりや、パリの生活情景、あるいは人間関係や会話が、たんなる背景でなくて主役並みの重要性を帯びている。読み手は、情景や場面がかもしだす雰囲気を楽しめるという仕掛けなのだ。ワイン好きならば、これを、物語におけるテロワールといってもよいかもしれない。

 それにしても、謎が催す「惑わし」感覚が、読み手にとって何よりの悦びであることも、たしかだ。惑わされる感覚は、遊びを「競争・偶然・模擬・眩暈」に四分類したロジェ・カイヨワを援用すれば、模擬(演劇をふくむ)よりも、めまい(眩暈)に属する感覚かもしれない。ヒッチコック映画のタイトルにある「めまいVirtigo」である。そういえば、あの映画で鮮やかな緑の服に包まれたキム・ノヴァクには、めまいが起きるほど惹きつけられましたね。 

面白がる心の世界

 なんてとりとめのない連想をたどりながら、延々と続けていったらきりがないので、とってつけたような結論をつけよう。「面白がる」という心の働きは、「不思議がる」メンタリティ、「遊び心」、「違和感」、「疑い心」「謎の惑わし」や「めまい感覚」などの作用と無縁ではないが、単にそれらの総和でもない。

 心に余裕をもち、適切な距離感を保ちながら、曇らない眼でものごとを見つめ、それらと内心で響きあえるような感性を発動させることが、面白がることかもしれない。ここでのキーワードは、距離感。とすれば、対象との間に適度、あるいは不即不離の絶妙な距離を保つ精神とは、ユーモア感覚の定義そのものである。とすれば、“sense of humour”こそ、面白がる精神の底に潜む、基底概念なのかもしれない。

 
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