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Some Thoughts on Vinous Fever no.1

テロワール・マシン

ワインには、どうも自己紹介を簡潔に済ませる気がない。
まぁせめて国と地方名くらいは名乗ってほしいが、村名、畑名ならまだしも、区画名まで来ると、もう肝心の名前を忘れてしまう頃合いだ。
この調子でいけば、そのうち畝番号までラベルに記載するつもりなのだろう。
もちろん、土地の個性を深く観察すること自体は悪いことではない。
同じ葡萄を植えても、数十メートル離れれば味が変わる。
標高が違えば酸のテクスチャーが変わり、斜面の向きが違えば果実の色彩が変わる。
地勢、土壌、水、風、太陽、そして長い時間をかけて、その土地に重ねられてきた人間の審美眼。
ワインは、それらをまとめて液体の中へ押し込めることのできる、少し異常な飲み物だ。
だから、テロワールという考え方には意味がある。
むしろ、私はテロワール教の熱心な信者だ。
でも、私は疑っている。
テロワールのその先にあるものを。
いつから私たちは、土地に違いがあることと、その土地に名前が付いていることを、ほとんど同じ意味として扱うようになったのだろう。

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どこが最初か、という議論には興味が無いが、テロワールを制度として洗練させてきた中心に、フランスがあるのは間違いない。
ただし、ここは些か丁寧に考える必要がある。
フランスのA.O.C.は、もともと単純な優劣表として制度化されたものではない。
その根には、産地名の偽装や濫用から、原産地とそこに蓄積された生産文化を守るという目的があった。
歴史と土地と葡萄と人間の営みを結びつけ、その文化的象徴でもある名前を守る。
A.O.C.はそのための非常に優れた発明だった。
だが、フランスワインは、それ以上を求めた。
ブルゴーニュでは、中世の修道士や貴族たちが土地の差を読み、畑を区切り、名を与えてきた。その長い蓄積の先に、やがて制度としてのヴィラージュ、プルミエ・クリュ、グラン・クリュという階層が生まれた。
ボルドーでは別の論理によってシャトーが格付けされ、シャンパーニュにもかつて村の序列があった。
それぞれ成立の経緯は違う。
しかし、そこから世界のワイン産地へ広がっていった発想の一つは、とても単純だった。
場所を細かく分ければ、価値を細かく分けることができる。
そして、その先にはもう一つある。
価値を細かく分ければ、価格も細かく分けることができる。

ここから、話は少し面白くなる。
ブルゴーニュのグラン・クリュという言葉に力があるのは、法律にそう書いてあるからだけではない。
何世代にもわたる栽培と醸造。
暑い年も、寒い年も、乾いた年も、雨の年もあった。
病害も、戦争も、恐慌もあった。
世代が変わり、嗜好が変わり、技術が変わり、それでも土地は何度も比べられてきた。
商人がつけた値段。飲み手が積み重ねた記憶。
そして、それらすべてを通過してきた時間。
完全でも公平でもない。
それでも、その土地に対する評価が積み重なったあとに、現在の格がある。
つまり、本来そこには、途方もない量の「検証」がある。
ところが、この仕組みだけを外側から眺めると、もっと簡単な公式に見える。
土地を細分化する。
名前を付ける。
規則を作る。
ラベルに書く。
すると、テロワールの量産体制が整う。
そんなわけはない。

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だが現在、世界中のワイン産地が、猛烈な速度で土地を細分化している。
リオハでは「Viñedo Singular」が導入され、キアンティ・クラッシコでは11のUGAが設けられ、バローロでは181のMGAが認められた。
面倒なので、その新作タイトルが何を意味しているのかは解説しない。
ただ、興味深いのは、キアンティ・クラッシコの公式説明に、UGA導入の目的として土地との結びつきを強めることだけでなく、商品の差別化によって需要を刺激することまで、きちんと記されていることだ。
潔い。
テロワールとマーケティングは、もう隠れて交際する必要すらなくなったらしい。
ただし、私はこれを批判するつもりはない。
そもそもテロワールは、歴史的に一度も商業から完全に自由だったことなどないからだ。
より優れたワインを生む土地の価値が経済的価値へ転換されること自体には、何の問題もない。
むしろ、その経済的価値によって高速道路の建設から葡萄畑が守られ、次の世代へ土地が受け継がれるのなら、健全ですらある。

危ういのは、順番が逆になったときだ。
土地の差異が認識され、その差異が長い時間をかけて検証され、その結果として名前に格が宿る。
本来は、そうだった。
しかし商品化されたテロワールでは、まず名前がある。
そこへ価値を入れていく。
この違いは小さくない。

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ただ、こうした新しい地理的区分のすべてが、制度として優劣を主張しているわけではない。
制度は単に、ここはあそこと違う、と言っているだけかもしれない。
ところが、市場に出ると少し事情が変わる。
ある名前に、ジャーナリストの評価、造り手の人気、売り手の熱気が集中すると、市場が覚える。
すると、平面だった地図に、いつの間にか高低差が生まれる。
制度は違いしか示していないのに、市場はそこへ優劣をアップロードし始める。
おそらく、テロワールが商品へ変わるのは、このあたりだ。
問題は、名前が付くことではない。
名前が価値を持つことでもない。
その名前が、まだ十分に検証されていない土地の価値まで、先回りして保証し始めることだ。

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考えてみれば、テロワールという言葉は、商品として非常に扱いやすい。
土地。
歴史。
自然。
伝統。
個性。
この複雑で難解なマトリックスに名前をつけた瞬間、ラベルに驚くほど綺麗に収まる。
しかも、それらには「ここでしか生まれない」という強烈な一言が付いてくる。
同じ葡萄品種なら他でも造れる。
同じ醸造設備や樽も導入できる。
同じ人はいなくても、同じノウハウは学べる。
土地だけは動かせない。
コピーできないという事実は、商品にとって実に強い。
だが、グラスからラベルへ向かっていた評価が、ラベルからグラスへ流れ始めると、テロワールは土地であると同時に、記号になる。

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記号は優しい。
何も考えなくて済む。
その名前を知っていれば、とりあえず何かを理解した気になれる。
しかし、名前が強くなればなるほど、グラスの中の液体は、その名前を証明するために飲まれ始める。
「さすが、この畑だ。」
「やはり、この村らしい。」
そう言いたくなる。
私も言う。
たぶん、これからも言う。
信者なので仕方がない。
だが、そこで一度だけ疑ってみてもいい。
本当にそうなのか。
名前を知らずに飲んでも、同じことを感じただろうか。
別の生産者でも、その特徴は現れるのか。
暑い年でも、寒い年でも残るのか。
その隣の畑とは、本当に違うのか。
簡単には答えられない。
それでも、なぜかまた同じ場所へ戻って、確認してしまう。
私は、そのしつこさをテロワールと呼びたい。

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そして、どうしても説明しきれないその何かに、少しだけ神性を感じる。
神秘主義の話をしているわけではない。
人間が完全には所有できない、という意味だ。
土壌を分析することはできる。
標高を測ることもできる。
日照時間も、降水量も、平均気温も数字になる。
それでも、その土地から生まれるワインを、最初から最後まで完全に説明することはできない。
それなのに、ときどき妙な共通項が残る。
何度確かめても消えない何かが、確かにある。
それを土地と呼ぶべきなのか。
人間と呼ぶべきなのか。
その両方なのか。
まだ、よくわからない。
たぶん、そのわからなさも含めて、私はテロワールに惹かれている。

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しかし、記号という優しいヴェールの中で甘やかされたテロワールは、その神性を失うだろう。
名前が答えになった瞬間、問いが消えるからだ。
この畑は偉大である。
なぜなら、グラン・クリュだから。
話は実に簡単になる。
簡単になったものは伝えやすく、伝えやすいものは売りやすい。
売りやすいものは広がる。
そして広がった記号は、いつしか土地そのものより強くなる。
そこで起きるのは、テロワールの消滅ではない。
むしろ逆だ。
テロワールの氾濫である。
すべての土地に固有性があり、すべての畑が特別で、すべての区画に語るべき物語がある。
もちろん、本当にそうなのかもしれない。
地球上にまったく同じ土地など存在しないのだから、物理的な意味ではすべての畑が唯一無二だ。
しかし、それとワインとして意味のある差異が存在することは、同じではない。
まして、その差異に優劣があることは、さらに別の話だ。

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では、テロワールが商品コードになった時代に、探究者は何を見ればいいのだろう。
私は、細かくなった地図を捨てればいいとは思わない。
懸命にブルゴーニュを覚えた時のように、必要なら181程度のMGAを覚えればいい。
制度には知識が詰まっている。
そこには過去の経験があり、地域の意思があり、時には非常に優れた観察がある。
ただ、それを問いの答えにしなければいいだけだ。
もっとも、答えを疑うことと、反対側へ走ることは違う。
名前のある土地を疑い、名前のない土地をありがたがるようなアナーキズムは無用である。
それでは、単に信仰の向きを反対にしただけだ。
無名だから純粋なわけではない。
新しいから自由なわけでもない。
有名だから腐っているわけでもない。
グラン・クリュから、とんでもないワインが生まれることはある。
当然だ。
逆に、制度の外側から、それまで持っていた尺度を少し壊してくる一本が現れることもある。

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ワインを探究する面白さは、地名を覚えることだけではない。
覚えた地名を、何度でも疑えることにもある。
ラベルに書かれた名前を一度グラスへ戻し、本当にそこに意味があるのかを確かめる。
その名前が、グラスの中でもまだ生き残るのか。
私は、そこを見たい。


梁世柱:ソムリエ、ジャーナリスト、エデュケーター。ワインを飲み、教え、考え、ときどき余計なことまで書いています。

 
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