Pierre Frickパンフレット翻訳
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Grands Vins d’Alsace en Biodynamic
ピエール・フリック醸造所は、十二代にわたって当ワイン生産地域に根を下ろし、現在12ヘクタールのブドウ畑を栽培・管理しています(うち三分の一は借地)。6人がフルタイムで働き、さまざまな仕事に携わっています。栽培面では、土・ブドウ樹・周囲の環境の手入れと世話。ワインの醸造と、大樽での熟成。瓶詰めや梱包、マーケティング(試飲室での販売と地方発送)、会計業務、通信業務などです。なおまた、数多くのワイン愛好家をこの地で歓待することも、私たちの仕事です。秋の収穫時期には、ほかに約20名の摘み手が、私たちのチームに加わります。
モザイク状の土壌
第三紀の初期(6,000万年まえ)、地殻中に大きな褶曲が形成されてアルプス山脈が出現し、そのあおりでヴォージュの「黒い森」は海抜3,000m近くまで押し上げられました。2,500万年まえに、この山脈の中心部が隆起によって砕けたあと、ふたたび沈降したため、地表面に深い断層が生じ、今日のアルザス平原がかたちづくられました。この断層地帯に、当地のワインの全生産地域が広がっています。
というわけで、十指にあまる私たちのブドウ畑はどれもパッチワーク状をなし、この地方特有の石灰質土壌の畑が、15キロの範囲内に散在しています。ベルクヴァインガルテン、ビール、ロート・ミュルレ、シュタンゲンベルクといった個々の畑産のワインには、土壌に由来する特有の味があります。なかでも、シュタイナート、フォーブール、エヒベルクというグラン・クリュ畑は、私たちの畑でもっとも名高いもので、それぞれ特有の土壌と特有の微気候を有しています。私たちの畑が属する小地区は、コルマールとゲブヴィレルのあいだにありますが、ヴォージュ山脈の頂――いわゆる「ル・グラン・バロン」――が雨を遮るおかげで、当地はペルピニャンに次いでフランス第二の少雨地帯になっています。
生産性至上主義による慣行農業の過ち
近年の物質主義によってワイン造りは機械化され、化学肥料・除草剤・殺虫剤の類いが侵入しました。ワイン造りは1960 年代にはじまる《農業生産性至上主義》という時勢の波にたちまちにして呑みこまれ、農業の発展は、もっぱら時間の節約・金儲け・作業の軽減といった、短期的な見方でしか考えられなくなります。
しかし、時間の節約は、いかに高くついてしまったことでしょうか。いまや硝酸塩や殺虫剤は、私たちの飲み水すら汚染している始末。土壌とその中で暮らす微生物を救うためには、より時間をかけてより多く働かなければなりません。それを惜しむのは、とんでもない考え違いです。「自然をコントロールするには、自然が定めたルールに従うしかない」という格言こそ、じつは長期的な視野で農業を考える際の核心なのです。
田園地帯からは人口が流出し、北半球と南半球の格差は広がる一方。エネルギー消費量が増えるかたわら、土と水、空気と景色がひとしく損なわれます。現在の主流をなす《農業モデル》が、これらすべてに拍車をかけ、《生産性至上主義》が動植物相のバランスをひどく狂わした結果、農業はさらにいっそう殺虫剤に依存せざるをえなくなりました。
こうして生まれた、画一化された風味しか帯びない食の素材は、はたして美味や活力をそなえ、社会に役立つものでしょうか。
有機農業と葡萄栽培
1968年の五月革命は、ささやかな抵抗という余波しか生まなかったかのように見えました。が、狂牛病やダイオキシンなどの迷走をへた今日、ささやかな流れは一つの明確な潮流に転じつつあります。新世代のワイン・グローワー、とりわけ有機栽培やビオディナミを実践する人たちが、立ち上がりはじめました。彼らは、仕事の方法やその目的の本質そのものを、もう一度捉まえなおそうと懸命に努めています。耕作する丘の土を生き返らせ、熟成中のワインに、神秘的かつ芸術的な側面が備わるようにしたいのです。
ブドウの有機栽培は、土・水・植物・空気・植物相・動物相が織りなす相互作用と、原理的に密接なつながりがあります。その目的は、ブドウ樹の「敵」を倒すことではなく、バランスを取り戻すこと。土壌中の生命活動を促し、植物の免疫力を高め、自然のサイクルを維持させるのです。ブドウの有機栽培を通じてグローワーは、あらゆる農業活動の意義と裾野の広がりを、生態系とのつながりのなかで理解しようと努めてきました。昔ながらの知恵が、近年になって得られた知識と同じように、こうした事柄を理解する助けになっています。
ブドウの有機栽培には、法律の規制があります。有機栽培するワイン生産者が守らねばならない諸条件は、フランス農業省の承認をうけています。こうした造り手たちは労苦をものともせず、化学肥料や殺虫剤などの化学合成品を用いない農作業をあえて選んでいるのです。規制条件が正しく実行されているかどうかは、定期的に検査されています。
ブドウ樹—大地と宇宙の複雑な関係
私たちの畑は1970年から有機栽培で、1981年にビオディナミへと移行しました。
土と向き合う
1970年から1980年まで、私たちは土にあまり手をかけず、もっぱら雑草を刈りとるだけでした。耕土反転以外の方法で土壌の通気はしていたのですが、時折樹勢が不足したり、バランスが崩れたりしていました。
1981年に私たちはふたたび土に立ち戻り、三月末から四月にかけて若干の土寄せをおこなうようになりました。二週間から四週間後に、可動式の鋤で寄せた土を元に戻し(樹の幹のあいだから土をどかせる)、そのあと、かぎ爪式の鋤であたりの土をもう一度ならします。寄せた土を元に戻すことで、ブドウ樹が接木されている箇所周辺の芽かきも容易になりました。六月から翌年三月・四月までのあいだは雑草の手入れをしないのですが、年によっては一、二度、草刈りすることもあります。
1999年以降、私たちは動力耕転機で土を耕すのをやめました。今使っているのはトラクターで引くだけのシンプルな道具で、それで一層土壌の構造が保たれるようになったのです。
ビオディナミの調合剤と堆肥
ビオディナミの調合剤を用いれば、大地・植物・動物がもつ環境への感受性、すなわち土壌・気候・太陽や月のリズムなどへの感受性が高められます。さまざまな農作業をこうした天体のリズムに合わせれば、さらに良好な結果が得られるのです。
No.500・N0.501および<マリア・トゥーン>の調合剤は、散布前に水中で希釈されるのですが、その際一定時間リズミカルにかきまぜて「エネルギーを強め」ます。水に、それぞれの調合剤が持つパワーを植え付けるのですが、こうした手順は同毒療法の薬の調合と似ています。
収穫が終わると、<マリア・トゥーン>の調合剤をぽとりぽとりと土に散布します。この調合剤には、牛糞だけでなく玄武岩・卵の殻・堆肥作成用の6種のビオディナミ調合剤が含まれており、土に活力を与えて有機物分解が促進されるようにします。このように「堆肥を刺激してやる」だけで、たくさんのブドウ樹が生命力に満ちあふれたものになるのです。
各々の区画につき、堆肥がまかれるのは四年か五年に一度、その量もヘクタールあたり10トンから15トンに過ぎません。
三月末に地面が暖まりはじめると、平均二回、<角に詰められた牛糞>と呼ばれる調合剤No.500を処方します。この調合剤を地面に散布すると、大地のもつパワーの流れが強められ、結果として植物と土壌が強固に結びつくのです。植物の根付きがよくなり、地表から上の部分が、栄養分や大地のパワーをより効率的に摂取できるようになります。
<角に詰められた石英>と呼ばれるNo.501の調合剤は、萌芽から開花までのあいだに一度か二度散布され、収穫の直前または直後にも再度散布されます。
この調合剤が植物に与える効能は、(葉緑素の活動を通じて)光との結びつきを強めることで、それは構造的なパワーと、天体のパワーへの感受性を刺激することによって実現します。この調合剤はとりわけ、ブドウの糖分上昇やアロマの発達を助けてくれるのです。
植物の衛生管理
ブドウ樹の健康には、無数の要因が関係しています。土壌・仕立て・気象条件によるストレスなどなどが鎖のようにつながっており、どこか一カ所に働きかけるとその影響は他の場所にも及びます。有機農法の基本的なアプローチとは、予防に他なりません。極端な気象条件が原因で生じるものを除けば、ほとんどのトラブルが何らかの失敗から派生しているのです。例えば、土を適切に管理しなかった、あるいはその時期を誤った。ブドウの状態にあった剪定をしなかった。新梢の誘引が遅れた。雑草を伸び放題にしてしまった。…こうした失敗は、学びによって克服すべきものです。だからこそ、ちょうどよい樹勢で適切に仕立てられたブドウ樹は、貴重な財産とも言えるのです。
ボルドー液(石灰で中和した硫酸銅の水溶液)は、ベト病に効果があります。ただし、銅の元素を使用する際は十分な注意が必要で、なぜなら土壌の重金属汚染の引き金になるからです。使用量を減らすには、多量の銅を含む溶液を一度に大量散布するのではなく、少量の銅溶液を補助的な防除手段として用いるようにします。
この方法にしたことで、ヘクタールあたりの一年間の銅使用量が、過去五年間の平均で一キロ以下になりました。
ウドンコ病には、硫黄華もしくは硫黄水溶液が効きます。
Dust mothsが問題になったことはありません。また、長年かけて土壌とブドウ樹のバランスを改善してやると、ハマキガ(マルモンヒメハマキ・トガリホソハマキ・ボカシハマキ)の被害も気にならなくなりました。ビオディナミ調合剤、特に<角に詰められた石英>の使用が重要なのです。ただし、ピノ・ブラン、ピノ・グリ、ピノ・ノワール、リースリングといったブドウ品種については予防措置が必要なので、有機栽培の調合剤であるBT菌(バチルス・トゥーリンギエンシス)を用います。
収穫
収穫開始は9月15日から10月15日のあいだで、日付は年ごとに違います。私たちのブドウの熟度は、当地方の平均と比べて毎年高いのですが、それは収量を抑え、防カビ剤を使用しないからなのです。
収穫は、あいだに休みを挟みながら二ヶ月以上続くこともあります。最初に収穫されるのは、発泡酒用のブドウ。ミュスカとピノ・ブランが続きますが、それは生き生きとした新鮮さと(果実の)第一アロマを保つためです。次がキュヴェ・クラシック用のブドウ、引き続いてキュヴェ・プレシュージュ用のものが、最後にグラン・クリュです。ヴァンダンジュ・タルディーヴとセレクシオン・ド・グラン・ノーブル用のブドウは、貴腐(ボトリティス)が繁殖した果粒を粒選りで収穫します。
摘み手が近隣の住人なので、収穫を私たちが指定したタイミングで、すなわち雨を避けておこなうことができます。今や収穫機械がアルザスでも普及しつつあり、それを使えば収穫コストは半減しますが…(手収穫だとヘクタールあたり1,500ユーロのところが750ユーロ)。
収穫作業の社会的意義、また高品質を得るには選果が欠かせないことを鑑み、私たちは収穫機械を使っていません。さらにいえば、白ワイン醸造における機械収穫とは、醸造用薬物が中に隠された「トロイの木馬」なのです。
セラーの中で—いにしえより伝わる錬金術
ブドウ樹とワイン造りが織りなす文化の中には、文化的な側面だけでなく経済的な側面もあります。ワインが文化的なものであるには、理想と氏素性の正しさが不可決なのですが、それにはいわゆる文明の利器や不必要と思われる科学技術を遠ざけ、経済的側面がのさばらないようにせねばなりません。経済性だけでワインが考えられだすと、魂をないがしろにして妥協を重ね、単純化から合理化への道筋を辿っていくのです。
大自然の摂理を新たに学び取ることで、私たちは精神的な自由を取り戻し、研究室の支配から独立することができました。本物の品質を追求するワイン・グローワーが進むべき道は、(A0Cワインの三分の二が依存する)マス・マーケティングの手法を捨ててはじめて見えてくるのです。
さて、ここでブドウをワインにするための、主だった工程を見ておきましょう。
プレス
ブドウは破砕を経ず、房まるごとでプレスされます。空気圧で搾るので、ブドウはほとんど傷つかず、澱も少なめ、不快な風味が抽出されません。一回のプレスに最低でも5時間はかけますが、果皮の固まりを崩すのは3回か4回にとどめます。
マストの清澄
上澄みを分離するために果汁を一晩静置しますが、亜硫酸、酵素、ベントナイトなどは一切添加しません。翌朝に果汁を分離する際には、果汁の98%は澄んでおり、濁っているのは残りの2%(マストの澱)だけです。清澄済みの果汁は、発酵用の大樽へとポンプで移されます。
アルコール強化
倫理にもとづいてワイン造りをおこなうなら、収量を抑え、ワインが自然に凝縮されるようにせねばなりません。ところが、市場の要望や経済原理に従った場合、補糖や水分除去による風味凝縮のほうが良い選択肢になるのです。大仰なテクノロジーを利用して、逆浸透膜装置や(果汁を1バールの圧力下に置き19度で沸騰させる)真空蒸留器は果汁から水分を除去します。
1980年には、私たちのワインのほとんどのラベルに、NC(Non Chaptalized:補糖ゼロ)の文字が書かれるようになりました。1988年以降、私たちは一切補糖をおこなっていません。
酵母とアルコール発酵
何世紀ものあいだ、天然酵母で果汁は発酵していましたが、生まれてくるのは宝石のような素晴らしいワインか、つまらない二級品かのいずれかでした。しかしながら、こうした低品質の原因は酵母にあったのではなく、未熟なブドウや不十分な衛生管理、できたてのワインの性質の理解不足などにあったのです。ところがこの20年、造り手たちがみな安定を求めていった結果、研究室で選抜・培養された酵母の使用があたりまえになってしまいました。泡立ちを抑えた酵母(—発酵槽からワインが溢れないようにするための)、派手な香りを生む酵母、アルコールへの変換効率がよい酵母などなど、培養酵母には様々な種類がありますが、それらに飽き足らず、遺伝子組み換え酵母の研究が現在進められているのです。
ブドウ樹とは、天と地とをつなぐ架け橋。表土や底土はもちろんのこと、ブドウの皮につく果粉や酵母もその土地固有の味わいを生みます。私たちにとって、ビオディナミによるワイン造りや、土壌固有の味わいの追求は、天然酵母と切り離せないものなのです。
発酵の中断
12月になっても発酵が終わらないブドウがなかにはあります。だからといって、加熱したり、「発酵を終わらせるための」培養酵母を添加したりはせず、ただ大樽を満量にしておきます。春になるとふたたびアルコール発酵がはじまり、場合によってはマロラクティック発酵も同時に起こります。ワインの澱引きをしないでおくと酵母の自己分解が生じ、アルコール発酵再開に必要な条件が整うのです。6ヶ月間待ちさえすれば、人々が醸造用薬物を使って無理矢理得ようとするものが、ひとりでに手に入るのでした。
澱引き
発酵中のワインは沸き立っていますから、大樽を満量にせずワインが溢れないようにします。辛口ワインの場合、たいてい2週間から3週間でアルコール発酵は終了。発酵中に発生した炭酸ガスはしばらくワインを守ってくれますが、それも10日ほどで無くなり、酸化の危険が生じてきます。このときこそが、澱引きのタイミング。できたてでまだ濁っているワインを別の小樽に移し替え(樽口までワインを注いで満量に)、同時に空気にも触れさせます。ワインは小樽の中で瓶詰めまで静置され、澱を落としながら少しずつ澄んでいきますが、熟成の進み方によっては、この期間中ワインに通気せねばならないこともあります。そうした場合は、ワインにエネルギーを与える特性のボウルにワインを通してやるのです(下の写真参照)。
澱の撹拌と濾過
醸造学の先生がたは、高品質な白ワインの造り方に関してすっかり宗旨替えしてしまいました。以前は12月の段階でワインを濾過するように言っていたのですが、今では翌年の春まで澱の撹拌をおこなうよう勧めており、これはどこの地方の白ワインでも変わりません。
私たちの方法は、この両極端の中間です。5ヶ月から9ヶ月間、オークの大樽の中でワインと質の良い澱を一緒にしておきますが、撹拌は一切おこないません。アルザスらしい個性を得るために、そうするのです。
濾過は一度だけ、瓶詰めの二時間前にセルロースのパッド・フィルターを通します。果実の日および花の日の中で、(黄道との関係で)月が欠けていく時期に濾過はおこないます。
新樽か、ステンレスか、古いオークの大樽か?
小樽でワインを仕込む地域では、常にその樽の何割かを新調していきます。新樽は一番力強いワインに用いられ、古樽で仕込んだものとブレンドすることもあります。しかしながら、今やどんなワインにでも新樽を使うのが流行で、どの地方でもそれが当たり前、軽いワインにはオーク・チップすら使われる始末です。かくして人々の関心は、ワインそのものよりもオーク材の産地や木の風味に移ってしまいました。樽熟成の元々の意義はいつのまにかどこかへ消え、市場の「ニーズ」に応えることが優先されているのです。この流行がこれ以上続けば、たちまちのうちにオークの森が不足し始めることでしょう。
私たちがワインの熟成に使うのは、ステンレス・スチールのタンクでも小樽でもありません。私たちが使うのは古いオークの大樽であり、それはこの地方独自の個性がワインに現れるようにしたいからなのです。
容量は平均で3,000リットル、ほとんどが100年モノで、ワインにとって植物の外皮のような役割を果たしてくれます。大樽の中でワインは呼吸し(樽板を酸素が透過)、汗をかくのですが(余分なアルコールやエステルが蒸発)、木の味がつくことでワインの風味が変わってしまうことはないのです。
亜硫酸—亜硫酸無添加のワイン
亜硫酸が使われはじめたのは、中世よりもさらに昔のこと。亜硫酸はワインのバランスを整えてくれますが、もちろんそれは適量かつ他の安定剤が用いられなかったときに限られるのです。しかし、実に多くのセラーで、心配のあまり自分を安心させようと、必要ない量の亜硫酸を使われています。亜硫酸は万能薬ではありません。できるのは、熟成が早く進みすぎるのを防ぐこと、急激な温度変化でワインが手ひどく痛めつけられたとき、あるいは輸送中に、ワインをダメージから守ることなのです。
亜硫酸は、私たちが使用する唯一のブドウ以外の物質ですが、その量は一般の半分以下。澱引き時に添加し、瓶詰め前に再度含有量を調整します。1999年には、亜硫酸無添加でワイン造りをしました。発酵終了から9ヶ月間、ワインが酸化しないよう澱と一緒に熟成させ、そこから直接瓶詰めしたのです。澱引きをしなかったことで亜硫酸を添加しなくても済んだのですが、その代わりにアルコール発酵で生じた炭酸ガス(CO2)が少々、ワインの中に溶け込んだままになっています。1999年のリースリングは、アルコール13.9度できれいな酸がありますから、亜硫酸無添加でも10年以上は熟成することでしょう。新たな香りや味わいの組み合わせを発見しようと、2000年には「弱々しい」ワインを一つ、亜硫酸無添加で仕込みました。選ばれたのはシャスラなのですが、アルコール度数11度以上にはめったにならず、酸がほとんどないこの品種でも、実験は今のところ成功しています。こうした方法でのワイン造りを、これからも年に一つか二つかのペースで続けていくつもりです。
変身
ワインの表現力・精妙さ・輝かしさは、ブドウ樹がもつ力に由来しています。すなわち、その根が張る土壌の個性を伝え、気象条件のポテンシャルを最大限に引き出そうとする能力。ブドウ樹の世話(剪定、鋤入れ、芽かき、誘引、収穫など)をする際に直感に従えば従うほど、樹はその素質を二つの方向で開花させるのです。
—底土の中へとさらに深く根を伸ばすことで、根の周囲にある大量の微生物が地中深くの岩まで導かれ、やがてその岩は土壌に変わっていきます。
—小枝を空に向かって伸ばすことで、ブドウ樹は天体・気候・収穫年の特徴と密接に結びつき、自らを豊かにします。
かくしてブドウ樹は一種のるつぼと化し、土壌なる不変の要素と、各々の収穫年の気候という可変の要素が結びつくのです。
四つの要素が、ワインの上にその刻印を残します。土壌とブドウ品種の二つは何十年も変化しませんが、気象条件とワイン・グローワーの二つは毎年変化します。不変の要素と可変の要素がそれぞれ二つずつ合わさって、生きたバランスが造られるのです。そこでもう一度、ブドウ樹が果実に仕上げを施すのですが、そこには超越的な力が二つ働いています。まずブドウ樹は、岩石がもつ深淵で無機質な曖昧さを引き出した上で、ワインに備わるきらびやかで爆発的な香りへと造り変えます。ブドウ樹はまた、季節のはかない光を捉えて凝縮し、ワインの力強さや温もりとして形を与えるのです。
幅広いワインのラインナップ
<キュヴェ・クラシック>のワインは、各ブドウ品種に特徴的な個性・香り・風味を表現したワインです。品種毎に別々に醸造されますが、複数の畑のブドウがブレンドされることもあります。通常は辛口。キュヴェ・クラシックの表現力とバランスが発展していくのは収穫から3年のあいだ、そのあと2年から3年はピークが続きます。
<グラン・クリュ>のワインは、日当たりのよい特別な畑でとれたブドウだけを使用します。低収量と、表土ならびにグラン・クリュの底土の強烈な個性により、ワインには特有のミネラル風味が刻印されています。グラン・クリュのワインは、完全に開くまでに3年から5年、そのあと4年から6年はピークが続きます。
<キュヴェ・プレシュージュ>は、当ワイナリー独自の階層制度の中に位置づけられるワインです。なんらかの独自な特徴をもった製品群であり、それは土壌の性質と関連していることもあれば、遅摘みや選別がその特徴になっていることもあります。ゆえに、ある製品は辛口で力強いのに、別のものには残糖があるためリッチで柔らかいといった具合。キュヴェ・プレシュージュはその複雑性においてグラン・クリュと肩を並べ、似通った熟成のカーブを描きます。開くまでに3年から6年、そのあと4年から5年はピークが続きます。
ヴァンダンジュ・タルディーヴとセレクシオン・ド・グラン・ノーブル
こうしたワインに用いられる濃厚な原料は、ブドウの成熟が際立ってよく、晩秋の天候に恵まれた年に得られます。房数を減らして果汁の豊かさを増すためブドウは強剪定され、最高の日当たりの場所で11月まで果実が樹に残されます。
「聖マルタンの夏」(小春日和)の時期に、朝霧と暖かい午後がうまく重なると、気まぐれですが奇跡を起こすことのできる、ボトリティス・シネレア菌が現れます。これは貴腐現象の原因菌なのですが、果皮の上だけで繁殖し、例のすばらしい凝縮感をブドウにもたらしてくれます。もし貴腐がうまく付かなくても、辛抱強く冬を待てば努力が報われることもあり、というのも、一二週間冷たい北風にさらされるとブドウから水気が抜けて過熟状態になるからです。
果汁の量は日に日に減り、ついには収穫のときがやってきます。ヴァンダンジュ・タルディーヴ用の房を丁寧に摘み、セレクシオン・ド・グラン・ノーブル用なら、ボトリティス・シネレアによって水気が抜けた房から、粒選りで収穫をおこなうのです。後者の場合、収穫人が熟練の金細工職人よろしく腕をふるっても、ごくわずかな量のジュースしか得られません。
この濃厚なジュースを細心の注意を払ってワインに仕込むと、アルコール度数13〜14.5度で残糖のあるワインになります(補糖はおこないません)。ヴァンダンジュ・タルディーヴで一リットルあたり20〜30グラム、セレクシオン・ド・グラン・ノーブルなら50〜120グラムの残糖。
こうしたワインは本物の芸術作品ですから、敬虔な気持ちで一口ずつ味わって飲まねばなりません。それはワイン愛好家が自然の奇跡と一体になる瞬間で、ブドウを育てワインを仕込んだ造り手もそこに仲間として加わるのです。
ヴァンダンジュ・タルディーヴやセレクシオン・ド・グラン・ノーブルは、長熟で10年から20年の寿命があります。熟成が進むにつれ、香りの複雑性が増すとともに、新鮮な風味・ボディ・残糖分が味わいの中で完璧に調和していくのです。季節によりますが、8〜12℃の温度で飲むのがよいでしょう。
アルザス・ワインと残糖
この問題について、簡単に判断してはなりません。プロの人たちですら、時にはそうした罠に陥ることがあります。最高のヴィンテージやグラン・クリュのワインが味わいを深めたり真の姿を現したりする上で、残糖や高いアルコールはさまたげになる、そんなふうに言い立てるべきではないのです。
アルザス・ワインに含まれる残糖分は、賛成派と反対派のあいだで終わりのない論争を生んでいますが、そこに意味があるのは、ワインの構成要素やストラクチャーにまで踏み込んで論じられたときだけです。例えば、補糖なしで、総アルコール度数14.5度のブドウから造った残糖10〜12グラムのワイン。これはつまり、天然酵母の発酵がアルコール13.6度か13.8度で自然に止まったということですが、こういうワインのバランスについて語るのはよいでしょう。しかし、最初の総アルコール度数はたった11度、これを補糖で13.5度までかさ上げしたマストを使ったとしましょう。7〜8グラムの糖分を残すために、(遠心分離機、亜硫酸添加、濾過などで)無理矢理発酵を止めたワインについて、同じように論じることができるでしょうか。
ローマ風の—ゴチック様式でも東洋風でも良いのですが—丸天井を持つ建物に、ワインを例えることができます。ワインのもつボディや力強さが支柱の一本なら、甘みもまた支柱の一本、しかし丸天井全体を支えているのは間違いなくワインの酸味なのです。残糖5グラムで酸味のまったくない平板なワインと、残糖100グラムで堂々たる酸味のセレクシオン・ド・グラン・ノーブルを比べれば、前者のほうがよほどのっぺりとした味わいでしょう。
三段階のワインの品質
グラス一杯のワインにも、(グラスに半分以上注がれなければ)五感を楽しませる美味しさは備わっていますが、それだけではワインをいつくしむ愛好家の欲求を満たせないでしょう。生き生きとしたハーモニーや溢れ出る魅力を求める声に、ワインは応えねばならないのです。酸度調整や補糖で化粧をすると、こうした本物の個性が損なわれてしまいます。さらに杯を重ねると、人々はワインのさらに奥深い次元へと目を向けるようになります。すなわち、有機農作物としてのワインの品質です。その属性があればこそ、有機体としての人間がワインを受け入れ、さらにはワインを滋養のもととすることができるのです。
あるワインが、この三段階の品質検査をすべてパスしたとしましょう。そうしたワインは、いくら飲んでも味覚は研ぎすまされたまま、ワインへの愛情は少しも衰えず、熱狂がいつまでも続くのです。そう、次の日になってさえも。
専業の独立系ドメーヌへのこだわり
アルザスのワイン生産者には三つの業態がありますが、その比率は変化しています。ネゴシアンと協同組合の販売量が増加しているのです。独立系ドメーヌがその顧客に販売するワインの割合は、アルザス・ワイン総販売量のわずか25%にすぎませんが、畑の面積でいえば独立系ドメーヌは全体の40%を耕作しています。つまり、多くの独立系ドメーヌが、ワインの一部をネゴシアンに売っているということです。
独立系ドメーヌの中には商売熱心なところもあり、別の造り手から購入したワインを自分のワインとともに販売しています。ワインを他所から買えば、特定市場の要請に柔軟に対応できますし、ワイン生産につきもののリスク(霜、ヒョウ、結実不良など)も避けられます。しかしながら、ボトルに書かれた生産者名とワイン愛好家の関係は、完全に商業的なものになってしまうでしょう。私たちのワイナリーは、専業の独立系ドメーヌだけで構成された小規模団体に属しています。私たちは自分で造ったワインしか売りませんし、自分で造ったワインはすべて顧客に販売しています。あまりできのよくないワインなら、ネゴシアンに売り払うほうが簡単なのですが、あえてそうはしないのです。だからこそ私たちは、カジュアルなワインの品質改善に毎年取り組まねばなりません。その努力の結果、すべてのワインの品質が向上しているのです。
飲み干すだけのワインから嗜好品へ
20世紀初頭には、人口の大半が肉体労働に従事していました。人々の食事は質素でしたが、その埋め合わせに一日1リットルもの(水っぽい)ワインが飲まれていました。しかし、肉体労働が減り栄養価の高い食事が普及するにつれ、カロリーのためにワインを飲むこともなくなっていきます。ワインは「暮らしのスパイス」になったのです。ワイン文化の数千年に及ぶ歴史が、食事という社交行事の質を高めています。食事の席は、ワイン生産者と愛好家の邂逅の場。国や地方も違えば、職業も文化的背景も違う両者が、いまひとつの邂逅、すなわち土壌のエキスであるワインと地方料理の組み合わせを祝うのです。
次から次へと大急ぎでワインを飲んだり、決まりきった香りや味の表現を使ったりして、ワインをさっさと分類・整理してしまう…そうしたことをしばらく忘れましょう。本物のワインはどんな地域・収穫年のものであれ、全貌を現すまでに時間がかかります。その姿を愛で、しばらく待ち、デキャンタし、そのあとでグラスに注いでください。有機栽培のワイン・グローワーは、自然のリズムに自らを委ね、一方でワイン愛好家は、時間をかけて飲むことで、ワインと一つになれるのです。
本物のワインの本質とは審美的なものであり、それは芸術の一分野を占めています。絵画や彫刻や音楽が、場の空気やハーモニーを表現するのと同じく、ワインの香りや味わいも、その出自やハーモニーを表現します。自然への愛と畏怖の念がそこには刻印され、私たちの味覚・嗅覚に訴えかけてくるのです。
シャンタルとジャン・ピエール・フリック