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エッセイ:Vol.106 わたしのワイン原論 [0]

公開日: : 最終更新日:2016/05/31 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

ある質問へのお答え―「原論・序」の代わりに―

レ・ドゥエ・テッレ
フラヴィオ・バジリカータ様

 お礼とご質問について

 昨日は一家の皆さまから、いつものように温かいおもてなしを受けてとても感激しましたので、まずお礼を申し上げます。
  その際、フラヴィオさんから面白い質問を受けましたが、つい、おいしい食事とワインに気をとられすぎて、お尋ねに正面からお答えできなかったので、おそまきながらご返事を書いている次第です。 
 なぜわたしが、ワインについていろいろな事を考えつくのか、という質問でしたね。わたしがアイディアにあふれているとは思いませんが、ほかの人とはちがう変わったやり方や実験をしていることは確かです。そこで、「わたしの発想法」の概要についてふれたあと、事例をあげて説明したいと思います。


Ⅰ.
わたしの発想法

  わたしには、どうやら次のように考える癖があります。

①現在は過去の結果であるというより、過去の原因が現在の結果をもたらす、というように、
 ものごとにはつねに因果関係があると理解する癖です。
②つぎに、現状はつねに問題を含んでいる、という考え方です。
 問題点のないものごとや仕事はないという見方です。
③そして、問題は他人から与えられるのではなく、自分で問題を見つけ、
 実験によって解法の有効性を証明する
という思考法が好きなのですね。
④その解法についてわたしが提出するのは、絶対的に正しい解法などではなく、
 解法は一つの仮説にすぎません。仮説は補助線のようなものであるとすれば、
 いろいろな補助線が引けるはず。なので、もっとも説明力が高く、
 効果的で美しい補助線
を考えださなければならないのです。
⑤最終的に採用したのがアイディアであり、アイディアを生み出すことが発想
 英語の“idea generation”なのです。

  ここで、問題の発見、解としての仮説、実験による実証という一連の考え方を、おおげさにいえば科学的な思考法と呼んでもいいでしょう。そもそも科学とは証明不可能な原理(公理)と矛盾しない、合理的な仮説の体系であり、事実そのものに潜む理論ではないとするのが、現代の先端的な科学の考え方でもあるのです(参照:池田清彦『科学とオカルト』『構造主義科学論の冒険』、R.P.ファインマン『科学は不確かだ!』)。
 そんなことが、ワインの世界でできるのか、と思われるかもしれません。が、科学と日常生活、たとえばワインとワインビジネスも、同じ地平に立つことはできるはずです。寺田寅彦と中谷宇吉郎という、日本の偉大な科学者の書いた名エッセイを読めば思いあたる、といえば不遜すぎるでしょうか。でも、自分を卑下する必要はないのです。

日ごろの試み好奇心を養い、疑問をもち、実験する

 ちなみに、わたしが実際にしていることを書いてみます。あらゆることに関心を抱き、つねに「なぜか?」と考えるのです。次に、考えられるあらゆる理由を想定し、原因や犯人を探します。おもいあたる理由があれば、その場でできるだけ、次々に対策を講じます。これを、仮説を検証するための実験といってもいいでしょう。ともかく、諦めてはいけない。敵もさるもの、問題がそう簡単に解決できるとは、かぎらない。これは、科学的な発想といってもいいのではないでしょうか。
 効果的な解決策を考えつくためには、問題の領域(たとえばワイン)以外の、広い分野の知識をあつめ、科学の知見に日ごろつねに目を通しておくこと。それだけでなく、頭脳がいつも活動できるような準備態勢をととのえ、なにごとにも囚われない自由な発想をする訓練をするのです。囚われるとは、既成概念や予断と偏見が邪魔をすること。だとすれば、自由な発想をする人の文章、たとえば科学の分野なら、福岡伸一、養老孟司、池田清彦、立花隆、米本昌平、シュレーディンガー、ファインマンといった本質的な自由人から、学ぶべき点は少なくありません。


Ⅱ.発想の事例―ワインを例に―

①「このワインは、なぜおいしいと感じないのか?」
  たとえば、(自分のよく知っている)おいしいはずのワインが、なぜかおいしく感じられないときがよくあります。が、それには、かならず理由があるはずです。
 まず、「ワインのせいか、それとも自分のせいか?」と考えましょう。すると、次のステップに移れます。もしかしたら、もともとおいしくないワインだったのではないか、という疑問すら浮かび上がります。これは本質的な問題なので、よく考えなおす必要があります。が、それを別とすれば「ワインをおいしくさせない要因が、どこかに潜んでいないか?」 

 ワイン自体が損なわれていれば当然のこと、本来のおいしさを発揮できません。傷んだワインには特有の風味があるから、それとわかります。熱劣化やそれにともなうモレ、還元臭があれば、ヘンだと感じるはずです。
 コルク不良によるものかどうかは、経験豊かな飲み手ならば、見当がつきます。ビン口汚れも、きつくしっかり拭きなおせば直るので、すぐわかります。それでも美味しくならないとしたら、それ以外の理由はないのか。
 そこでまわりを見まわすと、グラス(の材質や汚れ)とテーブル(の材質と構造、たとえば金属台)が気になります。グラスを替えて清潔なものにしただけで、味が一変することがあります。テーブルの上や付近に、悪さをする電気製品や、モーターを使っているものはないか。携帯電話やコンピュータがテーブルに乗っていれば、それを外してみたらどうか。カメラは? 近ごろのカメラは、電子部品の集積といっても過言ではないのです。
 以上のような原因でないとすれば、もっと大きな環境に問題はないのか。建物の構造や間取り、内装・建築資材は? 合成建材がないかどうか…といったぐあいに、問題あるいは犯人の疑いは限りなくあるのです。

 それで、もしワインとそれを取りまく側に問題がないとしたら、次に疑わしいのは自分です。体調が悪くないか。前日に飲みすぎて、味覚が荒れてはいないか。なにかの原因で、集中できないのではないか。先入観が邪魔をしてはいないか、などなどです。
 結論は、すべては疑いうるが、すべてがすぐ改善できるわけではないということ。自分をふくめて、すべては疑いうるのですから、犯人を外にだけ求めてはいけません。それに、適切な解決策がすぐ手元にあるとも限らないので、時間をかけて解決策を講じるゆとりと執念が必要です。

②ワインにも、有効なマーケティング的発想法を
 わたしは、長く広告代理店のマーケティング部門に属して、商品開発やプロモーションの可能性を探るために、消費者と市場を分析しながら、商品の受容促進要因と阻害要因にわけた可能性の検討をしました。阻害要因をとり除き、促進要因を探るために、具体的なアイディアを出すという実践的マーケティング発想法は、単純に見えてじつは効果的で奥が深いのです。
 この方法はワインにも当てはまるので、そのような思考法を日々用いています。ワインとワインビジネスの可能性を促す要因と、妨げている要因はなにか、という発想と行動をしているのです。
 ワイン業界ではよく誤解されていますが、マーケティングとは、市場に迎合し、大衆ワインを量産するための、安易で愚劣な戦略の同義語ではありません。マーケティング的な発想法は扱い方しだいで、クオリティワインの敵ではなくて、その強力な武器にもなるのです。故レヴィット教授の著した、思慮深い議論をご覧になってみてください。

クオリティワインを求めて―実践的マーケティング発想法―
 わたしが合田と最初に創った「ル・テロワール」という会社の根本的な考え方は、素晴らしいクオリティワインを探し出して、そのクオリティを維持しながらコンディション良く、日本のマーケットに紹介する、というものです。その理念と方法(いわゆるビジネス・モデル)は、現在の「ラシーヌ」に引き継がれています。

ワインの味わい=「品質(クオリティ)×状態(コンディション)」
 この方程式が、ラシーヌの基本的な発想であり、見方です。コンディションが悪ければ、どんなに優れたワインでも、おいしく感じられなくなくなります。二つの要素が同時に両立しなければ、おいしいワインは実現しないのです。
 その意味で、現実にあるワインは「可能性としての存在」にすぎません。まず、可能性ゆたかなワインを探り出すこと。次にその可能性を阻害している要因をとり除き、ワインが有する本来の持ち味を引き出す「促進要因」を見つけて、できるだけ実現していくのです。これが、ラシーヌ型ワインビジネスの理念であり、ワインのあるべきマーケティングの姿なのです。

「ワインにとって、必要なことはなにか」という視点を
 ワインにとって本質的に必要なものは、最終的には生産者と飲み手だけです。その他はみな間接的な関与者にすぎません。たとえばワインライターはワインの寄生虫だと、ワインライターのジャンシス・ロビンソンも書いていたように。
 とはいえ、優れたワインの産地がある程度限定されるため、消費地までの移動や輸出入を担う業者とインポーターも要るし、現代の資本主義市場では流通販売業と飲食業も欠かせず、ワイン情報とその提供者も無用ではありません。 
 けれども、これらはあくまでもワインの第二次関与者なのです。とすれば、生産者以外の者は(生産者という少数者の立場を選ばないとしたら)、大局的には消費者の立場に立たざるをえません。
 自分たちのためにワインはあるのではなくて、ワインと消費者のために、わたしたち(ワインビジネス)は存在しているという発想なのです。ワインのためになにができるのか、と言いかえてもいいでしょう。

余談:ワインづくりを語らない

 一知半解に止まらざるをえない、わたしたちワインの半可通が、もし立場をわきまえずに生産者にワインづくりを指南できると思い込むとしたら、笑止の沙汰です。そのようなワインの批評家や愛好家はどこにもおり、たしかマット・クレイマーは、「今日のワイン批評家や愛好家は、えてしてワインの造り手であるかのように(技術的なことについて)語る」と批判しています。ワインづくりの現場である畑とセラーの中で、日々の些細な判断と修正行動の積み重ねが、一歩一歩ワインを形成してゆくのですから、それができず、わからない局外者は、なるべく控え目にすべきこと、言うまでもありません。これは、わたしがつねに自戒していることです。 

 さて、ざっと以上が、私の発想法と技法のあらましですが、その結果得た各種の具体的な結論や処置については、フラヴィオさんにその都度お知らせしてきました。また今後も、得られた知見をお知らせしながら、ともに素晴らしいワインを生み出すお手伝いをさせていただければ、これに勝る幸せはありません。この作業をつうじて、結果的に世界のクオリティワイン愛好家のために貢献できることを、ともに念じています。

 
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