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エッセイ:Vol.105 最後の「エッセイ」と、予告篇

公開日: : 最終更新日:2016/04/01 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

月末が近づくと、

 エッセイを速書きするのが当たり前のようになっている。が、締め切りが否応なく迫ってこないと、重い腰を上げないという悪癖はいまだに治らない。というわけで、今日が締切日なのだが、いまだに原稿ができあがってない。コンピュータがつむじを曲げ、完成した原稿が消えてしまったのだから仕方がない。かといって、無しに済ませるわけにいかないのが、困ったことである。

 そこで、記憶を頼りに復元を試みたいが、うまくいくかどうかは本人にもわからないので、さあ、お立ち会い!

 

 「エッセイ」よ、さらば

 わたしの似非エッセイのごときは、仕事と読書のあいまに書き流す、というより、垂れ流しているのに近く、読者——がいるとしての話だが——には迷惑をかけているから、そろそろこんな形式で書くのはやめた方がいいのではないかと反省している。けれども、他の書き方が思い浮かばないので続けているのだが、なにごとにも惰性は禁物。そこで、思い切って重いテーマで書こうと思念した。

 題して「ワイン原論」。そういえば、目の前には、「漫画においてはすべてが過剰である」というユニークな書き出しから始まる、四方田犬彦さんの『漫画原論』(1994、筑摩書房)がでんと控えているから、迂闊なことはできない。

 

 原論嫌い

  それに、元来わたしは原論が苦手であることを、今さらながら思い出した。経済学徒であったのに、必須科目である経済原論の単位がとれず、卒業間近まで悩まされたではないか。できの悪い生徒にとっては、矢内原勝先生の「経済学入門」は退屈で興味が湧かなかったし、福岡正夫先生の「経済原論」は数式が先行していて、ナマの経済現象からの抽象過程、つまりは思考作業が感じ取れなかった。

 その点、直接教えを受けたことはなかったが、LSEの森嶋通夫さんによる『無資源国の経済学——新しい経済学入門』(1984、岩波全書)は画期的であった。荒唐無稽な無差別曲線などを用いないで、株式取引所での売買から経済理論を帰納的に説明しているので、すんなりと分かる気にさせてくれた。それに、もともとわたしは、論理的な議論の名手で、頭脳明晰な森嶋さんの大ファンでもあって、福田恆存氏を論破してみせた腕前が、じつに痛快であった。しかし、まあ、そんなことはどうでもいい。

 

 原論? 原論!

 そんな原論嫌いのわたしに、ワイン原論などという壮大な論理の体系化ができるかどうか、疑問である。だいいち、趣味性と主観性がつよいワインの世界に、説得力のある中立的な論理が組み立てられるのだろうか。

 見わたせば、大所高所というよりは上から目線のワイン論がある一方で、借りものだらけの通説や思いつきだけのワイン談義が、やたら横行している観がある。もちろん、自前の論理と視点で貫かれた「狙撃手」マット・クレイマーのような見本もあるし、アンドリュー・ジェフォードのような論旨の整った書き手もいるが、それは例外に近いようだ。

 ことほどさように、誰もが偏見を述べているのならば、わたしにも偏見を述べる資格があるのではないか、とチェスタトンもどきの理屈でもって、居直ってもよいのかもしれない。とすれば、タイトルにもその姿勢を明示すべきだろう。そこで思いついたのが、『へそ曲りワイン原論』という題名 。

 

 『へそ曲りワイン原論』に向けて

 これは無論のこと、高校時代のわが愛読書であった、渡辺一夫さんの名著『へそ曲りフランス文学』(1961、カッパブックス。のちに改題して岩波現代文庫)をもじったものである。当時、駿台予備校で世界史を担当された名物講師、村山正雄先生から教わった本の一冊なのだが、舌鋒鋭くて批判精神旺盛、良心の塊でもあった村山さんは、せっかく『へそ曲り世界史』を書くと予告していたのに、病弱ゆえに他界され、約束は果たされなかった。と、いった与太話を書いていてはキリがないから、切り上げるとしよう。

 それに、なぜへそ曲りであるかについては、読者の方がすでにご存じだろうから、説明は無用だろう。そういえば、かつてクリュグを訪ねたとき、旧知のオリヴィエ・クリュグさんがわたしたちを見て、「あなたがたは、わたしよりずっとクリュグに詳しいから、説明は不要ですよね」と、にっこり笑って冗談をいったことを思い出したが、これまた余談である。ことほどさように余談と冗談が好きなわたしに、まずワイン原論などおぼつかないが、へそ曲りには自信があるから、たっぷり偏見を述べさせていただくことにしようか。

 

 議論の本位

 それにしても、「議論の本位を定むる事」(福沢諭吉『文明論之概略』)は必要だから、あらかじめ視点と発想を述べておこう。

 ワインにとって本質的に必要な存在は、生産者と飲み手だけであり、その他はみな間接的な関与者に過ぎない。ワインライターはワインの寄生虫だと、ワインライターのジャンシス・ロビンソンも書いていたではないか。

 とはいえ、優れたワインの産地がある程度限定される結果、消費地までの移動や輸出入を担う業者(インポーターを含む)も要るし、現代の資本主義市場では流通販売業と飲食業も欠かせず、ワイン情報提供者も無用ではない。けれども、これらの存在はあくまでも第二次関与者なのである。とすれば生産者以外の者は、生産者の立場を選べないから、大別すれば消費者の立場に立たざるをえない。

 たとえば、一知半解に止まらざるをえない、わたしたちワインの半可通が、もしも立場をわきまえず、生産者にワインづくりを指南できると思い込むとしたら、笑止の沙汰である。ワインづくりの現場である畑とセラーの中で、日々の些細な判断と修正行動の積み重ねが、一歩一歩ワインを形成してゆくのであるから、局外者はなるべく控え目にすべきこと、言うまでもない。

 

 可能性を発揮させる環境設定

 消費者側にできるのは、ワインと人間の双方にとって心地よい環境を整えること。ワインには持ち前のコンディションを保たせながら、その可能性を発揮させる場を与えることである。ここでわたしは、コンピュータ用語である「環境設定」という言葉を、あえて使うことにしている。流通保管の段階で、適切な温度設定が致命的に重要なことは言うまでもないが、全体的な飲用環境を整えてあげれば、ワインは本来の味わいを呈してくれるはずである。

 ここで大事なことは、ワインの可能性を引き出すということ。生きているワインは、いとも傷つきやすいだけでなく、寡黙で引っ込み思案だから、積極的に引き立ててあげなければならない。その際に大事なことは、ワインになにかを付け加えようとする、押し付けがましい発想ではない。ワインが持ち前の可能性を発揮するのを妨げているものごとを、遠ざけるという発想である。

 マーケティング用語でいえば、ワインの可能性を阻害している「阻害要因」を排して、「促進要因」を活かすということにつきる。なにが邪魔をしているかは、本論で述べよう。

 こういう発想でワインに向かえば、ワインは上機嫌で複雑な味わいを難なく発揮するから、消費者は余念なく楽しみに浸ることができる。重荷となる余計な知識や情報など不要になること、請け合いである。

 以上が、予告篇であり、あとは次号以降の本論に譲りたい。


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