エッセイ:Vol.104 同時代に生を享けること
公開日:
:
最終更新日:2016/03/02
定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
ウンベルト・エーコ、逝く-―同時代について Ⅰ
“contemporary”(コンテンポラリー)という言葉には、①「同時代の」「当時の」②「現代の」③「同時に起こる」という意味がある(研究社『リーダーズ英和辞典』)。もとの意味は、《時や時代を共にする》という共時感覚をさすのだろう。
ウンベルト・エーコが多面的な活動を盛んに続けていた時代を共にし、その最新の著作や映画化された作品を享受できた私たちは、内心そのことを誇りに思うと同時に、もはや過去形でしかその人に触れるしかないことを、残念に思う。
時代を共にするとは、時代の同じ空気を呼吸しあうということであり、イタリアと日本という住処こそ異にしても、時代の状況や感情をエーコと共有することができたという事実に変わりはない。
優れた同時代人の活動ぶりをつうじて私たち凡人は、モノの見方や感じ方、あるいはその表現法から刺激を受け、学ぶことができるという特権を得てきた、と――えてして遅くなってから――気がつく。
知の戦略家であるエーコは、謎をしかけ謎をとくという高級な遊びを実演してみせた。あらゆることの両面を瞬時にしてつかめたエーコは、難しいことを軽々とあつかってみせた才人にして演技者でもあった。ことの本質を鋭く見抜いたが、しかつめらしい顔をして難問の解を上から説きあかすのは、この人の流儀ではない、とみた。
戦争と知識人の責務
けれども、根がまじめだからだろう、ジャーナリストでもあったエーコは、時代の行く末を見つめて警告を発するのを怠らなかった。
そのひとつが、“Cinque scritti morali”(モラルの書・五篇、の意)と題された薄手の評論集だが、内容は濃い。邦訳タイトルは『永遠のファシズム』(岩波書店、1998)。訳者はエーコと親交の深かった和田忠彦さんで、イタロ・カルヴィーノなどの名訳でもって知られるイタリア文学者である。
巻頭に置かれたのが『戦争を考える』で、執筆は湾岸戦争さなかの1991年。冒頭からして、
「ここでは『戦争』(Guerra)について考える。」
と、エーコは真正面から、大文字で書かれた戦争の有する問題を、知識人の役割を再定義しながら述べていく。
「知識人の役割は曖昧さを掘り下げ、それに明確な光を当てることにある(…が)、第一の義務は同道の仲間を批判することである」と、おなじ知識人への厳しい批判心を忘れない。それにしても、「ときには解決策はないと示すことによって、問題を解決しなければならないこともある」と記して、安易な対案を求められがちな知識人の苦衷を述べる。
空なる戦争
「『考える』とはものいうコオロギである」と洒落た表現をするエーコは、「戦争の美しさ」を『世界の唯一の健康法』(軽薄な未来派詩人マリネッティの言葉)とする思考法には与しない。この一章は、戦争を平和と呼びかえる安倍政権の周囲にたむろする、軽薄な言論人への批判として読むことができる。
さて、一転してエーコが戦争そのものを論じなおすのは、「戦争を可能とする諸条件を省察することによって、戦争を不可能だと結論づけるため」。
歴史的に見れば、過去数百年の戦争は、「敵を打ちのめしてその敗北から利益を引き出し、こちらの意図を、敵の意図を実現不可能にするような方法で、戦術的・戦略的に実現するためにおこなわれてきた。」
が、「世界戦争」という概念が生まれたのは、ようやく20世紀のことであるとして、エーコは、「原子力、テレビ、航空輸送の発明」と「多様な形態をもつ多国籍資本主義の誕生」が、戦争の不可能性をしめす条件が証明したとする。
以上のような、政治学的にも鋭い論法によって、エーコが挙げた具体的で説得力のある例証は、ここでは省く。戦争の不可能性を明言することを知識人の責務であるとするエーコの結論は、戦争は犯罪よりもたちの悪いものであり、「戦争、それは浪費である」といさぎよく断定する。戦争は、金銭だけでなく、あらゆる資源、すなわち生命と物質、時間と空間の浪費なのだ。
ファシズムへの警告
第二章に当たる『永遠のファシズム』でエーコはいっそう議論を進め、ファシズムの可能性と危険性を論じる。ナチス親衛隊とファシストとパルチザンが銃撃戦を繰り返すなかで少年時代を送り、銃弾の避け方を習ったエーコは、おおむね次のように語る。
―歴史的にみると、ムッソリーニに導かれたイタリアのファシズムは、たしかに独裁体制であったが完全に全体主義的ではない。あくまで〈ファジー〉な全体主義であって、一枚岩のイデオロギーではなく、むしろ多様な政治・哲学思想のコラージュであり、矛盾の集合体であった。第二次世界大戦以前にヨーロッパを支配した、ファシズムを含むさまざまな全体主義は、現在とは歴史的な諸条件がことなる状況下では、同じ形態がよみがえることは困難であると安心して断言できる。
さて、ファシズムの典型的な特徴を備えたものをエーコは、「原ファシズム(ウル-ファシスモ)」とも「永遠のファシズム(ファシスモ・エテルノ)」とも呼び、その特徴を列挙する。興味深い考察なので、引用しよう。
①伝統崇拝 ②モダニズムの拒絶―1789年精神=啓蒙主義精神の拒絶 ③非合理主義―〈行動のための行動〉崇拝と、知的世界に対する猜疑心 ④批判の受け入れ拒否 ⑤人種差別主義 ⑥個人もしくは社会の欲求不満 ⑦ナショナリズム―〈陰謀の妄想〉を根源に抱え込むメンタリティ ⑧「敵」の力を客観的に把握する能力の欠如 ⑨〈闘争のための生〉―平和主義の敵視 ⑩エリート主義(あらゆる反動主義の要素に共通) ⑪「死の崇拝」と結びついた〈英雄主義〉⑫マチズモ(女性蔑視などの性的差別)⑬「質的ポピュリズム」(量としてのみ認められる「民衆」)⑭「新言語(ニュースピーク)」の開発―オーウェル『1984年』の語法
ここにエーコが列挙したファシズム要素を見るにつけ、なにか肌寒い思いがする。戦争好きな安倍政権下の日本にあてはまる項目があまりに多いと感じるのは、なにも私だけではあるまい。
総じてエーコのファシズム観は、行き届いていて見通しがよいが、にもかかわらず恐るべきファシズム現象から、現代の私たちが学ぶべきことは少なくない。ファシズムは私たちの油断につけこむのが常だから、決してこれを見損なったり、馬鹿にしてはいけない。
丸山眞男さんが『現代政治の思想と行動』(未来社)のなかで引用したとおり、歴史的なファシズム現象から学ぶべきことは、「第一歩で食いとめろ」という敏速果断な行動信条ではなかっただろうか。
ファシズムとワイン
エーコが『戦争を考える』の章でいうとおり、「新しい戦争は、航空輸送やレジャー、旅行、メディアといった産業と、さらには建築市場から自動車までのあらゆる余剰産業全般を(しかも地球市場規模で)危機に陥れる」。
このことは、戦争ではないが無差別テロリズムに襲われた、近時パリにおける観光とレストラン需要の、無残な落ち込みを見れば直感できる。いうまでもなくワインは平和の産物であって、戦争はワインの敵。また、敵方軍人にセラーが荒らされ、ワイン畑が軍靴にまみれたことを、だれが忘れられるだろうか。
なお、現代では稀かもしれないが、高雅な英文を愛するワイン愛好家は、イギリスの文人イヴリン・ウォーの、『戦時と平時におけるワイン』(未訳・単行本)という長文エッセイをご覧願いたい。いま読みなおす余裕はないが、怪しげな記憶によれば、両大戦間におけるワインとワイン人のありさまを描いた、名文家ウォーの名に恥じない立派なワイン論である。
なお、ウォーは、自分の姓“Waugh”を、同じ発音の“War”(戦争)と引っかけられるのが大嫌いだった。戦争はイヴリン・ウォーの敵でもあったが、皮肉なことにウォーの代表作は戦争三部作であることを、付記しておこう。
同時代について Ⅱ
―さらば、テオバルド・カッペッラーノ―
テオバルドは私と同年生まれだから、まさしく同時代人であった。精神活動が盛んでユーモアにあふれるテオバルドとは、なぜか波長が合い、冗談を交しあう“joking friends”の仲であった。
予期せぬテオバルドの旅立ちは、ピエモンテ中どころか、イタリア全土の事件でもあった。当然ながら親友で同志でもあったジュゼッペ・リナルディは、色を失ったという。
たんに優れた造り手であるだけでなく、見識豊かな賢者でもあったテオバルドは、イタリアのビオディナミワイン造りの運動に献身していた。本人の弁によれば、とかく分裂しがちな運動の大同団結と高まりをめざし、自身のワイン造りの時間を大きく削ってまでも、大義のために費やしていた。だから、その分派活動や、それに同調するがごとき見識に欠けるワイン人を嗤い、私との会話の場では指弾して許すことがなかった。けれども、その名を挙げることをいまは控えよう。私利だけを追求する人は、どこにでもいるのだから。
テオバルドのワインとワイナリーは、あくまで個性的であった。が、頭脳的な戦略家で思索家でもあったテオバルドは、じつは畑の人であり、手練れの醸造家でもあった。ゆえにそのワインは、端々までテオバルドの考え方を映しだし、独特なテクスチュアと魅力にみちあふれ、優雅このうえなかった、テオバルドのように――と、過去形で述べるのがつらい。
テオバルド無きワイナリーは、天才と個性をそなえた賢き主をにわかに失ったにひとしく、その意味で余人をもってしては恢復不可能であった。その名をつけたワイナリーから届けられるワインからは、もはや懐かしいテオバルドの声が聞こえてこない。テオバルドのワインにそなわる個性と魅力を、混じり気なしに楽しむという愉悦に浴してきた者にとって、別の声が聞こえるワインは、別の世界に属するとしか、いいようがない。
さらば、カッペッラーノであるが、もちろんこれは、さらばテオバルドではない。天上にいるわが盟友テオバルドならば、苦笑しながら私を許してくれるにちがいない。
不幸にして1944年組は解散したが、テオバルドとの絆は心のなかで深まるばかりである。
- PREV Vol.103 皮膚、肌と表情
- NEXT Vol.105 最後の「エッセイ」と、予告篇