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エッセイ:Vol.99-1 文の長短を論ず―勘について―

長い罪

 こないだのように、いたずらに長い文章は、考えものである。読み手(が、いたとしての話だが)にとっても、迷惑であるにちがいない。ならば、どうしたらいいか? 読み手は読まなければいいし、書き手は書かなければいい、といってしまえば簡単だ。が、これは問題の解決にはならない。二日酔いにならずにすませるのに、「酒を飲まなければいい」と、答えるようなものである――と書いてくると、すでに長文化しそうな気配がある。

 なーに、結論だけ書けばいいじゃないか、という声が聞こえてきそうだ。そのとおり、もし結論があるとすれば、ね。「お前の話には結論がないから長くなるのだ」という言外の指摘には、なるほどたしかに一理ある。問いに対する答えが文章の目的だとすれば、答えは最小限の長さで、もっとも説得力のある論理でもって、構成すればいいことになる。

 

答えよりも答え方

 だとすれば、文の長短はさておくとして、私にとっての問題は、問いそのものに意味があるかどうかを別にすれば、答え方の論理が間違っていないかどうか。だが、自問自答したあげく、自分なりの答えと称するものを、ともかく簡潔なかたちで書きつけることが、私にはどうやら苦手らしい。「らしい」などとわざと曖昧に書くのはなぜか? 答えを書くこと自体が、私の目的ではないからだ。そもそも書く前から答えがわかっていれば、たしかに答えを書きつければよい。けれども私にとって、答えそのものは、あまり興味がない。

 

答えがない問題

 問題のタイプによっては、答え――というより正解、あるいは複数の正解――がある。けれども、人生と同じように、正解がない問いに立ち向かうとき、簡潔に「答え」と称するものを書くことは、誰にとっても意味がないはず。そこで自分に問おう。私は、答えがない問題に、答えをひねくり出そうとしているのか。そのような問いには、そのとおりと答えたくなる。

 「大きすぎる問題には立ち向かわず、自分が答えられそうな、手軽もしくは容易な問題に取り組むべし」というのが、賢明あるいは実用的な世間知となのだろう。が、ときによるとこういう発想は、ことなかれ主義に堕するのかもしれず、はては、小さな問題を相手にすることは、自分を小さくすることになりかねない。難問が自分を鍛えるばあいがあるのだが、だからといって難問だけに取り組むのは考えもので、見かけの生産性が乏しくなることはともかく、難問を前にして思考が空回りしかねない。だから、その時々の適切な問題を選びとって、みずから解法を編みだすしかない。

 

問題の選びかた

 そこで「身の丈に合った問題」を考えるのは、良い答えを導き出す便法かもしれないが、そんなに器用なことがいつもできる人は、いそうもない。まあ、問題のサイズに合わせて、自分を伸縮自在にするような、思考の忍術を使える人は、器用貧乏におちいるのがせいぜいかもしれない。

 さて、いよいよもって長くなりそうだが、自問自答を途中で止めるわけにはいかない。ここまでを別の形で整理するとしよう。「考えるに値する問題がある」としたとき、答えが出せるかどうかは分からないにしても、答える努力をすることに意味があるのだろうか。

 優等生的な議論のしかたでは「イエス」だろうが、わたしにとっては、ちがう。どこがちがうのか。努力することと、答え方あるいは解の正当性とは、ほんらい関係がないから。まあ、無駄な努力だとすれば、当人にとっては意味があるのかもしれないが、その努力とやらにつきあわされるのは、たまったものではない。

 

結論よりも考えるプロセス

 それならば? 私にとって問いを立てるとき、最初から自分流の結論か結論の仮説が、いわばアプリオリにあることが少なくない。ならば、その答えなるものを素直に書けばいいのに、という同じ反問が返ってきそうだ。にもかかわらず、あいかわらず私にとって答えそのものには興味がない。どのような答え方をするかが、問題なのだ。

 そもそも、答えるという行為は、考えるということと同義。ああでもない、こうでもないと、あれこれ思案することを楽しむ癖がある私は、考えるプロセスを書くことが文章であると、つねづね思っている。このような文章観に問題があるとしても、長年のあいだ培ってきた文章観を変えるわけにはいかない。縮めて言えば、考えることが散文を書くことなのだ。――まだ、考え足りないとすれば、杉本秀太郎/大槻鉄男さんの『散文の日本語』(『日本語の世界14』中央公論社)でも読んで、わが散文観を鍛えなおすにしかず。だから、今日はここまで。

 おっと、「なぜ、ここまでなのか」、としつこく問いただす人がいる気配だ。答えは簡単。その本を入手したばかりで、まだ読みきっていないから。いや、それどころか、ほとんど読み始めてもいないにひとしい。「じゃあ、なぜ、そんな書物と著者の名をことさら挙げるのか? ひけらかしは、悪い趣味ではないか」 

 

勘の問題

 いい質問、いい指摘だ。なにごとも見当と勘でもって進むのがわが行き方なのだと、ここは開き直るしかない。「そんな見当や勘は、当てにならない。」なるほど、それなら反問しよう。そうじて勘や見当があてにならないのか、それとも、特定の人の勘や見当が信用できないのか。

 ここで、ひとまず勘とはなにかを、ちょっと考えてみる。勘は、「ある程度の根拠にもとづく、ひらめき一種」といってよかろう。単なるひらめきは、あてずっぽうとそう変わらない。しかし勘には、「勘が当たった」という語法のように、「結果的に見て、正しかった(または間違った)という推定の良し悪し」の含意があるとしたら、ともかく推定には根拠があるはず。だから、「ある程度の根拠にもとづく」という限定句をつけたのだ。それでは、その根拠とはなにか。勘とは、「次の成り行きを占うさいに、経験値をもとにして外挿法によって憶測する、無意識的な方法」とも、言いかえられる。ちなみに、経済学や「未来学」(いまや過去になった)でもちいられる外挿法とは、一定の成長曲線のようなものを想定して、現状(正確には、現状に関する構造仮説)を延長する手法である。ちょっとややこしい話になりかけたので、話を元に戻そう。

 

勘は必要

 あなたやわたしの勘は、ときに見当はずれに終わるかもしれないが、すべての勘を排することは間違っている。なぜなら、人は何ごとにも体当たりして時間を使っていては、身がもたないし、時間も足りないから、多かれ少なかれ見当をつけ、勘を養うしかない。ともかく生きるための時間が不足しがちだから、時間を節約する方法を各人が身につけざるをえない。時間を有効に使うためには、自分の生き方と行き方を、あらかじめ設定しておき、目的にふさわしい手段や方法を選びとる。とすれば、勘はそのひとつの有効な手段たりうる。だから、問題は、どのようにして、いい勘を養うかである。

 ところで、このことは、生き方ではないが、本についても当てはまる。本を読むことは、読むべき本を選ぶことにはじまるから、選びかたを当人にとって合理的にすればよい。たとえば、ワインの選び方のように。あらゆるワインを飲み、あらゆる本を読むことは、専門家ですら不可能だし、まして専門家でない普通の人は各種の情報を参考にしつつ、おおまかな見当をつけて選ぶしかない。そこで、勘の出番となる。これまで、種々の本やワインを体験していれば、「どれが自分にとって当たりか」という見当をつけることは、さほど難しくはあるまい。

 

勘という自覚的な方法

 ここでは、「自分にとって」が、キーワード。それは、自分の「好みの基準」を設けることにほかならない。本もワインも嗜好品であり、感覚的な喜びをともなうべきもの。だからこそ、選ぶ際の個人的な方法があってしかるべきであって、それを「コツ」というか「勘」というかは、好みの問題である。

 本は数ページだけでも立ち読みすれば、あらかた内容に見当がつくが、ワインはテイスティングしてみなければわからない。いや、テイスティングしてみたところで、ワインの良し悪しはわかりにくい、などと茶々をいれてはいけない。ともかく試す機会が少ないワインは、本よりも不利なことは当然。だから個別ワインにかんする情報の意味と重みが格段にあるのに、判断の参考になる正確な情報は意外に少なくて、思い込みや偏見、旧説や意図的な位置づけがまかり通っている。だけに、自分の勘でもって、おおまかに見当をつけるほかない。

 

勘と判断

 それならば、勘は外れないか、ですって。もろん、外れます。ワインだって、飲む際に選びそこなうことは、専門家や商売にしているプロでもしょっちゅうなのです。この外れと、ワインの判定間違いとは、むろん別のこと。ブショネや品質不良、あるいは並行輸入などのせいで、ワインが本来の実力を発揮していないケースが多々あるから、ワインの判定じたい楽ではない。ある(優れた)ワイナリーがその名声に値しないとか、ある年に造りそこなった、というたぐいの断定を目にすることすらある。が、じつはその書き手たちが、たまたま試飲した特定ボトルの品質不良を見抜けぬまま、しかも偏見が手伝って、ワインに性急な誤評価を下すことがあるのだ。プロの書き手ならば、テイスティング対象のワインがおかしいと思ったら、慎重に判断して再確認する努力なしに、決めつけや独断の発表を慎むべきだろう。が、これは長い余談である。

 本題に戻れば、勘による選び方の「ハズレ」は、無意味なのか。充分に考えたうえで、最後は勘で選んだとしたら、それがなぜ外れたかを自問して、おなじ間違いを繰り返さなければいい。経験から学ぶということは、そういうことでしかない。外れるべくして外れるような、無駄な経験を出来るだけ避けることも、「勘」に含まれるだろう。勘とは、暗黙のうちの(無意識な論理的)選択や思考を言いかえているだけかもしれない。おっと、ますます話がややこしくなってきた。

 

ヒト頼みは間違いのもと

 ところで、行ったことのないレストランや、飲んだことのないワインが、美味しそうかどうか迷うことは、日常的にある。では、インターネットや書物でのガイドは、どの程度まで参考になるか。わたしのばあい、広く人気のあるグルメ評論家やワイン評論家の情報は、あまり当てにならないことが多い。広い人気というような大衆性が、問題なのだろうか。狭い読者層を相手にする奇特な人がいたとしても、ここでは広狭は関係がない。

 もしかしたら、ワインや店が美味いのではなくて、発言者の文章が上手いだけかもしれないのだ。その例が、レストラン批評では名文家の某さんとか、ワインでは個性的な○○さんとか、高名な××さん(好みで適当な固有名詞を入れてください)かもしれない。ともかく、その人――特定人物――のいうことを信じて店や食べ物、ワインを選ぶと、概して失望するためしが多い。とくに、自分が信じてもいないことを上手に、あるいはもっともらしく、あるいは状況に応じて書いたり、リップ・サーヴィスしたりできる、多芸な人のいうことには、眉に唾をつけることですね(かえって、不器用な人の本気がいいと言いたいが、本気もまた当てにはならない)。

 

勘を養う

 それじゃあ、その記事や情報の反対を信じればいいのかといえば、そんなに簡単でない。オスカー・ワイルドが言った(とされる)言葉に、「女性は嘘が上手だから、その反対すらも、信じることができない」という警句がある。むろん女性だけの話ではないが、冗談はさておくとしても、好みや趣味の領域では、誰それのいうこととは正しいとするような、属人的な依存をしないこと。人は間違うものだし、つねに間違い続けるのが人間なのだ。とすれば、我田引水の結論になるが、やはり自分の勘を養うしかない。そして、勘が外れても自分を恨むだけだから、罪作りにはならない。

 またしても、本論――どうしたら勘を養えるか――を書く時間がなくなってしまったので、いつかまた考えてみよう。それにしても、また長くなってしまい、反省。そして、沈黙。

 

勘に関する本は、当てになるか

 沈黙しながら座右に積んである書籍を見渡すと、勘をタイトルの一部にしている本が目につく。まず手に取ったのが、『カンの構造―発想をうながすもの』(中山正和、中公新書、1968刊)。これは氏の名前の頭文字をつけたNM法の解説だが、手法としては文化人類学のフィールドワーカーだった川喜田二郎さんが考案した、KJ法の応用篇といってよい。が全編が今となっては古臭いエピソードの連続で、前提となる脳科学も時代遅れだし、方法も例もあまり参考にならない。それよりは、川喜田さんが著した幾冊かの本の方が文章力も手伝って、よほど刺激的である。

 そのものズバリの表題を持つ『勘の研究』(黒田亮、講談社学術文庫、1980刊)はどうか。原著は1933年の刊行で、著者は東洋哲学にもたいへん造詣が深い心理学者であったから、なまじっかな知識では読みこなせない。つまり、お手軽なノウハウ本とは正反対だから、私のような浅薄な知識しか持ち合わせないものは、うかつに手を出してはいけない。

 勘の範囲としては、直覚、第六感、虫の知らせ、無意識または下意識、練習の機械化・自動化、技神に入るの妙、霊感、悟り・禅・三昧、以心伝心、こつ・呼吸・手心などが、包摂されるとまではいわないが、関係があるとされている点では、合点がいく。けれども、学識豊かな著者は、直接原典にあたりながら、当時最新の心理学だけでなく、剣法や役者論語、世阿弥、荘子、禅などの検討におよぶから、性急に読了したい不心得な読者は読んでいて方向感覚を失う恐れがある。私もまたそのような怪しからぬ読み手の一人だから、本の勘どころをつかまえそこなって、右往左往するだけ。というわけで、私はまだ、勘がつかめない、という不要領ぶりをさらけだして、本稿はおしまい。


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