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ドイツワイン通信Vol.48

多元文化社会のドイツとワイン

期待ふくらむ今年の収穫

 9月も下旬に入り、ドイツでは収穫作業が本格化している。

 8月10日頃から降り出した雨で3ヵ月あまり続いた猛暑と乾燥はようやく終わり、9月22日まで晴れ間の多い理想的な天候が続いた。ドイツ各地でヴァイスブルグンダー、グラウブルグンダー、オクセロワ、ソーヴィニヨン・ブラン、ミュラー・トゥルガウなどの収穫がほぼ完了し、シュペートブルグンダーも大半が取り込まれ、ファルツではリースリングもグラン・クリュを除いておおむね収穫し終えたもようだ。

 今年は開花時期が6月14日前後と昨年より1~2週間遅かったので、収穫開始も遅くなると当初予想されたが、その後の猛暑と乾燥でブドウの成熟が早めに進行したようだ。その際畑によって状況は異なり、地中深くまで根を伸ばした古木は意外なほど強靱に乾燥に耐えたが、水はけの良い斜面の若木は渇水ストレスに見舞われ、ブドウの生長が止まり葉が枯れ始めるなどの症状が出てブドウ畑に散水した生産者も少なくなかった。

 今のところ収穫は順調で、果汁糖度の増加と酸度の減少と種の色に現れる生理的成熟状況はほぼ理想的だという。1959, 1993, 2003年といった猛暑の「偉大な」生産年の再来という声もある。一方、とりわけ急斜面のリースリングでは、果皮が厚く果粒が小さめに成長したことから、収穫量はやや少なめで香味の凝縮したワインとなる可能性がある。マセレーションを長めに行った場合は厚い果皮からフェノールが例年よりも多く溶出し、軽い苦みが出るのではないかという声もある。

 9月22~23日にかけてモーゼル、ラインガウなどでまとまった雨が降り、一部のブドウが傷みはじめたため、モーゼルでは予定を繰り上げて10月3日頃からリースリングの収穫が始まるそうだ。天気予報によれば今後約2週間ドイツは安定した高気圧に覆われて、午前中の霧の後に青空が広がる典型的な秋晴れが続く見込みだ。素晴らしい生産年となることを期待したい。

 

難民とドイツ

 さて、ドイツで今年大きな話題であり課題になっているのが、シリアなどからの難民の受け入れであることは周知の通りだ。彼らの多くは危険を冒して海を渡り、長い道のりを踏破してドイツを目指してきた。その数は8月までに約40万人を超え、年内に80万人を受け入れる予定であるという。

 ドイツを目指す理由はいくつもあると思うが、経済的に恵まれていて、多くの難民が連れている子供たちに教育を受けさせることが出来ることと、生活保護の待遇が比較的良いことが挙げられている。難民として認定されると住居が与えられ、食料や衣服などの費用として毎月359Euro(約49,000円)支給され、子供は学校に通うことが出来る。戦火の中で何年も耐えて苦しんできた人々にとって、それがどれほど魅力的に見えるかは容易に想像がつく。

 ドイツへの難民や移民の流入は今に始まった訳ではなく、1990年代前半は主としてクロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナなどのバルカン半島の紛争地域から年間約40万人を受け入れてきた。それ以前、1989年に東西ドイツが統一された後は旧東独からの移住者や東欧からの経済難民が流入し、70年代後半から80年代にはベトナム難民が、それ以前の1950年代から1970年代にかけてはイタリア、スペインやトルコから数十万人が難民としてではなく労働力としてドイツに迎えられ、高度経済成長を支えてきた。

 現在シリアを始めとする難民がドイツに大量に流入する背景には、一つにはドイツが難民あるいは移民受け入れの経験を長年積んでおり、制度的に整っていることもある。そして過去に受け入れられた元難民や移民がコミュニティを形成し、新たな難民の支援を行っている。もっとも、明らかに紛争状態にあって帰還困難な国以外からの難民申請者が難民に認定されるのは容易ではなく、9割以上は強制送還されてきた。また、ネオナチを始めとする極右勢力による外国人排斥運動も根強く、デモや落書き、投石や放火すら残念ながら繰り返し行われている。その一方でドイツ人の多くが難民の受け入れには協力的で、個人や団体によるボランティア活動も盛んだ。2011年の国勢調査によれば、ドイツ人の18.9%、つまり5人に一人は移民やその子孫である。

ドイツ人の難民に対する寛容さの背景

 経験的に言えるのだが、ドイツ人は一般に外国人に対して寛容だ。肌や髪や目の色が違っていても、それを理由に差別されることは滅多にない(だからこそ、たまにそういう目にあっても堪えられるのだが)。なぜそうなのか。理由の一つはやはり第二次世界大戦の際、民族浄化政策をとりユダヤ人を迫害・殺戮したことへの反省である。もう一つは1968年の学生運動から発展した、環境保護・反原発運動などを担ってきた、リベラルで多様性を尊重する政治的価値観であろう。警官隊と闘った学生たちが1970年代に緑の党を結成し、1998年から2008年まで連立政権の一翼を担ったのは、ドイツの少なからぬ数の有権者たちのものの考え方を反映している。

 そしてもう一つの理由は恐らく、キリスト教的な倫理観に裏打ちされたヒューマニズムではないかと思う。ルカによる福音書の「よきサマリアびと」の喩え話や、マタイによる福音書の「小さき者の喩え」(「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」という王に対し、そのようなことをした覚えはない、という人々に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と王は言ったという話。25:35-40)といった隣人愛の教えはよく知られている。ドイツ人は昔よりも教会に行かなくなったとはいうものの、今でも幼稚園では毎年11月11日、自分のマントを半分に裂いて寒さに震える貧者に与えたという聖マルティンの祭日に行われる提灯行列とともに、隣人愛の教えを記憶の奥底深くに刻み込んでいる。また、ギムナジウムではユダヤ人がナチスから受けた体験について語られ、なぜそうなったのか、そこから何を学ぶことが出来るのかを討論し、人間としてあるべき姿を学ぶという。

歴史的な異文化接触の経験

 これらの理由が、ドイツ人の難民に対する姿勢を規定する主要な要素ではないかと思うのだが、さらに歴史を振り返ると、ドイツは常に異文化との接触を繰り返して来たことに気が付く。例えばローマ人は紀元前16年にモーゼル川沿いにアウグスタ・トレヴェロールム(現在のトリーア)を建設し、ブドウ栽培とワイン造りを伝えた。モーゼルの住民が今でも冗談で「俺たちはドイツのイタリア人だ」と言う所以である。その後5世紀にゲルマン民族大移動を契機としてローマ帝国が滅亡し、アイルランドから宣教師たちが訪れてキリスト教を布教し、11世紀にはブルゴーニュからシトー会の修道士たちがやってきてドイツ各地に分院を設立し、ピノ・ノワールを広めた。やがて商業が発達すると遠隔地商人が河川と街道を行き来し、職人の徒弟は各国を放浪しながら修行し、聖地を目指す巡礼者が往来した。修道院は彼らに休息の場を提供し、放浪する貧者たちは施しを得た。王や皇帝たちは領地を巡回して裁判を行い、各国の貴族たちは政略結婚で縁戚関係に結ばれ、婚礼の際には祝宴を催し民衆にワインを振る舞った。そしてまた都市の内部でもユダヤ人がキリスト教徒と共に暮らし、時に衝突しつつも異なる文化が共存していた。

 1871年にプロイセン主導で統一されるまで、ドイツは領邦国家の集まりであり、隣接する領邦は母語とは違う言語が支配する異文化圏であった。歴史的に異なる服装や価値感を持つ人々との接触の機会に慣れていることが、今日の難民や移民への大勢を占める寛容さと、一部の危機意識の前提となっているように思われる。

ドイツワインと多元文化

 ここでドイツワインの生産者に改めて目を向けると、移民と関係のある醸造所がすぐに思い浮かぶ。古いところでは1718年、フランス東部のサヴォイ公国からの移民が設立したのが、ファルツを代表する醸造所の一つDr. バッサーマン・ヨーダンである。ラインヘッセンでは16~18世紀にかけてフランスからカトリック教徒の弾圧を逃れてきたユグノーたちが設立した醸造所や、彼らの建築した美しい建物が残っている。ラインヘッセン南部にはトゥルッロと呼ばれる円錐形を伏せた小屋-南イタリアのプーリアにあるのと同じ-がいくつも見られるが、これは18世紀にロンバルディア地方からやってきた労働者たちが伝えたものだ。1956年には東ドイツの共産政府に農地を没収されて西ドイツに逃れた醸造家が、ザール川を見下ろす高台にシュロス・ザールシュタインを購入してワイン造りを始めた。1994年にバーデンに醸造所を設立したヤコブ・ドゥインはオランダ人で、1999年にファン・フォルクセン醸造所を購入したローマン・ニエヴォドニツァンスキーの父はポーランドの原子物理学者であったし、2000年にモーゼルに醸造所を設立したダニエル・フォレンヴァイダーはスイス人だ。探せばそうした国外にルーツを持つ醸造家はまだまだいるに違いない。

 またブドウ品種にしてもそうだ。ジルヴァーナーは17世紀にオーストリアから持ち込まれた品種だし、トロリンガーはその名からイタリア北部のティロル地方が原産と推定されており、ポルトゥギーザーもポルトガルから最初オーストリアに持ち込まれた品種らしい。ミュラー・トゥルガウを交配したのはスイスのトゥルガウ地方出身のヘルマン・ミュラーであり、シュペートブルグンダーも中世にブルゴーニュから持ち込まれた品種である。また、一時期リースリングの祖先がライン川原産のヴィティス・トイトニカだとする説があったが、近年の遺伝子分析によれば、まずライン川周辺の野生品種と恐らくローマ人が持ち込んだトラミーナーの自然交配種が生まれ、その後ホイニッシュが掛け合わさってリースリングになったとされている。大本となったライン川の自生品種をヴィティス・トイトニカと記載した文献は無いが、リースリングが複数の品種から生じた交配品種であることは確かである。

 この他にもドイツワインと異文化の接点を探すなら、まず収穫作業に外国人労働者は欠かせない。以前はポーランド人、近年はルーマニアなどの旧東欧圏から毎年やってくる彼らにに対する醸造家たちの信頼は厚い。販売面でも世界各国からのインポーターやジャーナリストたちが訪れるが、ドイツを代表するワインジャーナリストの一人、スチュアート・ピゴットは英国人である。また、ナチスが政権を取る以前の19世紀末から20世紀前半、ドイツワインの黄金期と言われる時代の有力なワイン商はほとんどがユダヤ人であったことが知られている。そして最後に、近年の若手醸造家の多くは国外で研修し、その経験を母国でのワイン造りに生かしていることも指摘しておきたい。

多様性と自己認識

 このようにドイツと難民・移民は歴史的にも深くかかわっており、ドイツ文化に欠かせない要素となっている。様々な文化的背景を持つ人々が集うことで、社会的・文化的・経済的な活性化が促されることは、ビオ農法でブドウ畑に様々な動植物を育むことによって、生態系を活性化させてバランスをとることに通じる面があるように思う。しかし、それぞれの出自の社会文化的規範と、ドイツの規範の間で摩擦も生じている(例えばイスラム教の女性の地位、服装、生活形式とドイツの価値感の相違)ことは認めなければならない。シリア難民に関しても様々な課題が既に出て来ているが、難民の受け入れを数十年前から続けてきたドイツは真正面からそれと向き合っている。

 一般に異文化との接触は、自己の帰属する文化の自覚を深め、アイデンティティーを強化するものである。ドイツが近年、辛口ワインによるテロワールの表現を追求しているのも、ドイツに輸入される国外産ワインとの競合が契機となっている。ドイツワインとは何か、自分の産地のワインのスタイルはどうあるべきなのかを、今日の生産者たちは考えながらワイン造りに取り組んでいる。

 シリア問題の解決と難民たちの帰郷までにはまだ時間がかかりそうだが、ドイツが示した人道的で寛容な態度を私はとても嬉しく、そして誇りに思う。かつてそこに寄寓していた一人の外国人として。

(以上)

北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」 (http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。
2010年トリーア大学中世史学科で論 文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会 員。

 
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