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エッセイ:Vol.97 言葉のエネルギー

読み巧者、石井洋二郎

 歌舞伎に見巧者がいるように、読み巧者という言葉があるかどうか、わたしは知らない。が、そう呼びたくなるほど勘どころをこころえた、巧みな読み手がいることは、たしかである。

 たとえば、石井洋二郎さんがその例。いくたびも翻訳賞をうけ、フランスの原題思想にも明るい石井さんの『告白的読書論』(中公文庫)は、題名からして北原武夫の『告白的女性論』を思わせてニヤリとしかける。にしても本書は、おもに若き日のがむしゃらな読書体験から、なにを学んだかを述べた好著である。

  「人はなぜ本を読むのだろうか?」という問いかけにはじまって、「いつかわたしも、(埃と黴のにおいに包まれて、書物とともに静謐な時間を過ごす至福の)風景のなかに溶けこんでしまいたい――そんな願望を抱きながら、わたしは今日もまた本をひらくだろう」におわるのは、まるでわがことのようで身につまされる。著者と年齢にさほどおおきな隔たりがないためか、共感するところも少なくない。第五章「危険な書物に誘惑される」には、わたしの高校の同期生であった奥浩平の遺稿集『青春の墓標』も登場したりするので、親近感をもたざるをえない。

 

わかる、わからない

 『告白的読書論』のなかで読者がもっとも共感できるのは、第四章「わからない本と格闘する」ではなかろうか。じっさいの過酷な読書体験をみてみよう。若き石井さんは、デカルトやパスカルといった明晰な思想家たちと出あったあと、カントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』に遭遇。著者たちの伝えたいことがまったくわからず、うろたえた。それだけでなく、ラカンやフーコーらのフランス現代思想もまた、わかりにくかったよしで、これはあに他人事ならんやである。 

 けれども、ニーチェの『ツァラトゥストラ』には、文章に異様な迫力があり、言葉が身体に突き刺さってくる。言葉そのものが熱気を発して、読み手の身体と魂に直接はたらきかけ、行動へと駆り立てるアジテーションなのだと悟った。「わかる」よりもひたすら「感じる」文章があると気づいたわけ。その意味では、石井さんにとって『共産党宣言』もまた、行動へと駆り立てる生きた言葉であった。

 

わからない本当の原因

 読書はよく食物の消化吸収にたとえられるが、「わかる」ことにもまた身体性があり、精神や知性の作業だけではおわらないと、石井さんは指摘する。完璧な消化吸収など、ありえないとすれば、自分の能力の範囲内で硬軟とりどりの文章を咀嚼するしかないはず。そもそも、食物ではないものを口に入れてしまったために消化できないケースもあるとの由。

 しかし、わからない本当の原因は、語彙や概念、論理や構成のレヴェルのせいではなく、著者が「なぜ書いているのか」がわからず、問題意識が共有できていなかったからだ、という指摘は図星だが、なかなか理屈どおりに読書はすすまないものだ。たしかに、過去の著作家たちの嗜好が、現在の自分のそれとどのように共振しうるのか、を自問すべきだったとあるが、ここで「嗜好との共振」とさりげなく言ってのけるあたりが、石井さんの感性をものがたっている。

 要は、「わからない本」に本にふさわしい「わかり方」でわかろうとすること。『ツァラトゥストラ』やランボーの作品は、わからなさをそのまま受けとめ、そこにうごめいている言葉のエネルギーに身をゆだねればいい、と氏は大悟したのだ。

 

言葉のエネルギーは、精神に発する

 さて、ここでのキーワードは、言葉のエネルギーである。石井さんは、宮沢賢治の『春と修羅』の「序」の冒頭の一節「わたしという現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」という謎めいたフレーズの、なまなましい「言葉の力」にいきなり触れたような気がした、とも述べている。だが、ある種の言葉や文章には、有無をいわせずに迫りくるエネルギーや力が潜んでいて、人によって危険なまでの感電力がある。としたら、フグの毒のように、適度なシビレを愉しむのが、美食家流の読書スタイルなのだろうか。

 それでは、ある種の言葉や文章にエネルギーがある(と感じる)のは、なぜだろうか。言葉そのものなかに霊的な力や作用がある、とこの国の古人は信じていたらしく、言葉を発するだけで願いがかなう、という言霊信仰があったとされる。けれども、いかに言葉の達人である詩人たちの作品が人の心をうとうとも、幼児でもないかぎり、現代ではそのような素朴な言語観を抱く人がいるとは、とうてい思えない。

 だとしたら、エネルギーの感電作用の源は、どこにあるのだろうか。言葉そのものではなくて、そのような言葉づかいのなかにあるはずである。ここで論をすすめれば、言葉の用い方、という技術(テクノロジー)の次元の問題ではなくて、言葉を発する人に「精神のエネルギー」(ベルクソンの著作名でもある)がある、と仮定すべきではなかろうか。精神のエネルギーが言葉づかいや言葉のはしはしにあらわれ、発した言葉や文章が、聞き手や読み手の共鳴現象を導く、というレゾナンス説をわたしはとりたい。

 

ベルクソンのコレスポンダンス説

 ここで、先にも触れたアンリ・ベルクソンの『精神のエネルギー』を援用しよう。本書はもともと講演原稿だったため読みやすく、ベルクソン哲学の入門に最適とされるもの。お勧めしたい翻訳は、平凡社ライブラリー版で、原章二訳(2012)である。

 ベルクソンによる「精神」の定義は、第一章「意識と生命」と第二章「心と体」に含まれており、ほぼ共通している。いわく「精神は、まさに、自分の含んでいる以上のものを自分からひき出し、自分の受け取る以上のものを返し、持っている以上のものを与えることのできる力なのである」(第二章、p.56- 57)とされ、「体からあらゆる方向にあふれ出し、それ自らを新しく創造することによって行為する」。だとしたら、精神はダイナミックで創造的な運動体ということになり、これはうれしいことにほとんど石川淳の定義にひとしい。が、わたしにとっての本論はこれからである。

  「作家の求める調和は、自分の精神の運動と自分の用いる言葉の運動との間の、ある種のコレスポンダンスであり、それが完璧に照応するとき、文章によって運ばれる作家の思考の波は、わたしたちの思考の波に伝えられます」(同、p.75)とある。ここで、コレスポンダンスをレゾナンスに置き換えれば、まさしくわたしの考え方と同じではないか。

 続けてベルクソン先生は、こうのたまう。「そのとき、個々の言葉はもう問題になりません。言葉を横切って動く意味のほかには何もなくなり、二つが一つになって媒介なく直接に振動する二つの精神があるだけです。」(同)

 まさしく、「精神が発した文章が、聞き手や読み手の(精神との)共鳴現象を導く」という、わがレゾナンス説とほぼ軌を一にしているのです。Q.E.D.

 なお、ここから先、わたしの予定では、ワインのエネルギーについて触れるつもりであったが、すでに制限時間を超えているので、例によって稿をあらためて論じたく、お許しを乞いたい。

 

【補論】

 石井さんは、その後四十代で難解な『四運動の理論』の著者シャルル・フーリエに出あって感性を呼びさまされたあげく、『科学から空想へ――よみがえるフーリエ』(藤原書店)という著作を世に問い、旺盛な好奇心と頑強な胃袋の健在ぶりをしめした。

 なお、石井さんの著作のなかで『文学の思考――サント=ブーヴからブルデューまで』(東京大学出版会)は、ありきたりの文学史をとおりこした、現代的な読みを示唆する、明快かつ刺戟的な思索の書でもある。といっても、わたしは昔から、肖像(ポルトレ)の名手サント=ブーヴの、鋭利な読みと深い人間観に魅かれっぱなしだった。というわけで、いかに石井さんとあれども、サント=ブーヴが作品を作者の伝記的な事実に還元してしまう、というたぐいの非難には同調しがたい。たとえば『ラ・ロシュフコー論』のなかでわがサント=ブーヴは、ロシュフコーの箴言にたびたび顔を出す“presque toujours”(ほとんど常に)という副詞句について、「剣で最後のとどめを刺すまえに、わざとためらったフリをしてみせる」という、うがった解釈をするくらい、文章から作者の精神をえぐりだすことができた批評家だったのです。

 『新月曜閑談』にあるとされるサント=ブーヴの言葉、「この木にして、この実あり」だって、ワイン関係者としては、「あまりに陳腐な樹木と果実の比喩を、生産者と生産物の関係に置き換え」るなどと、切り捨てるわけにはいきません。むしろ、病的な心理分析やいきすぎた精神分析とは無縁な、健全な精神のありようを、サント=ブーヴは示している、と言いたくなってしまいます。根(ラシーヌ)のことまでは言っていませんがね。


 
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