『ラシーヌ便り』no. 113
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最終更新日:2015/04/22
定番エッセイ, 合田 泰子のラシーヌ便り, ライブラリー, その他
no. 113
追想二題
ワインを学び始めた頃に、真にワインの素晴らしさを教わった二人の造り手が、昨年に亡くなられました。ユベール・ド・モンティーユさんと、ジュゼッペ・ラットさんです。振り返って、お2人の思い出を述べたいと思います。
ワインビジネスに携わって早や30年近くになります。この間にたくさんの造り手に出会いましたが、自分のワイン観が作られてきた過程を振り返ると、お二人に出会うことができた幸運に感謝の気持ちでいっぱいです。お二人のワインから大きな影響を受けたことを礎に、仕事を続けてきたと言っても過言ではありません。若い時に、個性的な偉大な造り手に会えば、当然ながらその影響を大きく受けます。そのような出会いが自分を励まし続け、結果として形成されてきたのが今のワイン観であり、私の歩みきた道のように思います。
ブルゴーニュの偉大な造り手ユベール・ド・モンティーユさんが、84歳で2014年11月1日に亡くなられました。私にとって、モンティーユを訪問させていただいていた1990年代初めごろのことは忘れることのできない、貴重な思い出です。当時、仕入れ担当として(有)八田商店に在籍していましたが、個人でブルゴーニュに通い始めた1990年には、ひたすらティステイングを続け、楽しい勉強に明け暮れていました。塚原とロバート・パーカーの『バーガンディ』(1992年出版)を翻訳始めた時期で、重要なワインをフランスやロンドンで探しては、試飲経験を重ねていました。その中で最もブルゴーニュの偉大さを学んだのが、モンティーユと60年代から80年代前半のコント・ラフォンです。初めてドメーヌ・ド・モンティーユを訪問したのは1992年の2月でした。とても寒かったことを思い出します。当時のモンティーユのワインは、除梗をほとんどせず、新樽が少ない地味なスタイルで、若いうちに味わうとタニンが粗く、その魅力を見出すことが困難でした。しかし10年以上を経ると、深さと複雑さを備えた、力強くもエレガントな、驚くような味わいに一変します。他の追随を許さない、崇高な味わいへと成長していました。ワインの勉強を始めたばかりのころに、このようなワインを知ってしまったのですから、以来私は派手なスタイルのブルゴーニュになびくことなく歩むことになりました。
’90年ごろは、のんびりした時代で、毎年個人用に造り手から直接、ポマール・レ・リュジアン、レ・ペズロル、レ・ゼプノ、ヴォルネ・シャンパンをケースで分けていただいていました。76年や78年を、90年代中ごろに蔵出しで味わったことは、何物にもかえがたい経験です。昨今のブルゴーニュ・ワインは、なぜかなかなか心が響かないのですが、ブルゴーニュでワインを作ることの責任を厳しく認識してほしいと思います。ブルゴーニュの外の地域には、高貴さに欠けるクリュの限界があることは否めませんが、可能性に恵まれたブルゴーニュにおいて、その偉大さを存分に発揮できないというていたらくは、なんとも許しがたい。この程度でいいという妥協の中で作られる膨大なワインよりもはるかに上まわる、素晴らしいワインがいま、世界中に生まれているではありませんか?
昨年5月に、ベッキー・ヴァッサーマンのワイン・ビジネス40周年のお祝いパーティーがブルゴーニュで開かれたとき、久しぶりにユベールさんにお目にかかり、ご挨拶をさせていただきました。20年以上も前に訪れていた私のことを覚えてくださっていて、とても嬉しく、胸がいっぱいになりました。冬に訪問すると、村のレストランで、いつも郷土料理「ポテ」(塩漬け豚肉のポトフ)をご馳走になったものです。オフィスでも時々「ポテ」を作りますが、ポテを食べるといつも、ヴォルネのレストランでモンティーユご夫妻にご馳走になったことを思いだします。
ジュゼッペ・ラット 誰にもないユニークそのもののドルチェット
― 温かさと優雅さ、底に秘められた強烈さ、イタリアそのものを感じる味わい ―
ピエモンテ地方の南、オヴァダのロッカ・グリマリディでドルチェット酒を造ってこられたジュゼッペ・ラットさん。2014年11月13日に亡くなられたことを、イタリアのhttp://www.sorgentedelvino.it/ で知りました。ラットさん、あなたのおかげで、どれほど私はイタリアワインを好きになれたでしょうか。
皆からジュゼッペを縮めた「ピーノ」と呼ばれましたが、奇矯な性格のゆえか、「マッド(気狂い)ラット」とも呼ばれてきました。
ピーノのワインとのなれ初めは、六本木の「ラ・ゴーラ」でした。たしか、1996年です。澤口シェフからビン内にわずかに残ったワインをご馳走になって魅せられ、新しい宇宙との出会いを確信しました。その思いはずっと心の底にとどまっていましたが、バルバレスコのレストラン「ラ・コンテイア」で1970年を味わって再び驚愕し、その場でピーノに電話。やっとのことで訪問が実現し、お取引が始まりました。前社ル・テロワール時代このかた私と塚原は、ピーノのワインと人となりから深くて大きな影響を受けました。 誰にもないユニークそのもののドルチェット、その温かさと優雅さ、底に秘められた強烈さに、イタリアそのものの波動を感じさせる味わいでした。
1997年ヴィンテッジから リ・スカルシ、レ・オリヴェ、グラッパ、ラ・バルベーラ、ムスカテを輸入してきました。本当に多くの熱烈なファンに愛されたワインでした。ピーノによれば、「リ・スカルシとレ・オリヴェは、畑は近い場所にあるけれど、全く違う二つのワインに表現されている。バローロとバルバレスコのように違う。レ・オリヴェはより男性的で、リ・スカルシはより女性的」。熟成を経て美しく成長したリ・スカルシはエレガントで、レ・オリヴェはミネラルの骨格があり、果実味が厚く、深い風味があります。 2004年に鉄砲水が土砂崩れを引き起こし、急峻な畑は流され、セラーの壁を突き破って泥水が入りこみ、セラーは崩壊して樽も汚れてしまいました。到底、老いたピーノが独力で回復できる状況ではありませんでした。以後はセラー環境が決して良いとはいえませんでしたが、それでもピーノは快く私たちの樽選びに応じてくれ、良い樽(2003年レ・オリヴェ)を「ラシーヌのために」と明記し、600本のキュヴェを詰めてくれました。
不調のためピーノは手術を繰り返し、病院に入院していると、人づてに聞いていました。2008年ごろのピーノには、崩れた畑を作り直し、また長年手入れがされずに潅木が覆っている畑の手入れをして、ブドウを植え、セラーを作り直して…という、雄大な構想があったのですが、しょせん、助力なしではどうすることもできなかったようです。また、当時のラシーヌの力では、途方もないピーノの夢を実現するお手伝ができなかったのが残念です。一年に一度お目にかかるのを楽しみに待ってくださっていたのに、最近はお尋ねすることもできず、たまたま展示会でお会いしたくらいとなり、わずかに手元に残ったワインを楽しむしかありませんでした。
ピーノが亡くなったとの報が翌11月14日に入り、その晩はピーノのワインを飲みたい気持ちに駆られました。もちろん行くべき店は、「フェリチタ」しかありません。永島さんが、岡谷シェフから引き継いで大切に手元にとどめておられた、ル・テロワール時代のワインを飲ませていただきました。ピーノのちょっとしゃがれた、やわらかで静かなささやきが聞こえるかのようで、涙がとまりませんでした。
昨年アスティのさるワイナリーを訪ねたときに、その家の父上がピーノと親しかったので、話が盛り上がりました。父上は生前「パリでクラリネット演奏をしたときの録音をCDにおとしてほしい」と頼まれていたのでした。その場で聴かせていただき、想い出話をうかがいました。その時から、録音が届いたら「フェリチタ」で演奏を聞きながら、ピーノを偲ぶ会をしたいと思っていました。このほどその録音が届きましたので、私たちの手元に残るわずかのラット・ワインとともに、知友の方々とささやかな思い出の会を「フェリチタ」バー(1F)で開きました。会には、長年ピーノのワインを慈しみ、味わってくださった方々に出席いただきました。本当に嬉しいことに澤口知之シェフが来てくださり、思い出をお話しくださいました。
澤口シェフは1980年代に13年にわたりイタリアで修行をされました。エノテカ・ピンキオーリの仕事を終えてピエモンテに移る前に、トリノに滞在され、ピエモンテ・ワインに慣れ親しむためにワインバーに通ったとか。そこのご主人がオヴァダ出身で、ピーノを紹介されたそうです。澤口さんのお話では、「そういえば、トリノのワインバーのおやじにすすめられて、初めてピーノを訪ねた時、畑で会ったんだけど、ブドウにマイルス・デイヴィス聞かせていたなー。毎日オックステールばかり出てきたけど、あれほどしっかりしたワインだから、うまかったよ。あの後イタリアは狂ったようにモダンな作りに走って行った。ジュゼッペみたいな時間のかかるワインは無くなっていった。俺は、レ・オリーヴェが一番好きだったな。畑の側に樹齢900年くらいのすっごいオリーヴの樹があったんだ。南の方にはいくらでも古いオリーヴの樹はあるけれど、おそらく北限のオリーヴの樹だろうね。それで、ジュゼッペは、自分のワインにオリーヴェって名前をつけたんだよ。」
それにしても、ピーノの演奏は、素晴らしく、皆驚きとともに聞き惚れました。著作権を手続きし、原盤のオープンリールから録音し直して、CDの自主制作をできればと考えています。
澤口シェフ、貴重なお話しをありがとうございました。この夜は6種類のワインと、デザート酒のムスカテを味わいました。トリオンセはオヴァダ最上の畑で、ピーノの隣人が造っていたのですが、後継者がいなくなってワイナリーを閉め、畑は人手に渡りました。たまたま、2001年のブドウをピーノが譲り受け、醸造したのでした。ルイージ・ヴェロネッリが、「これほどイタリアらしさを体現したワインがあるだろうか」と讃えたワインです。渋さのある個性をはなち、ミネラルと果実味が溶け合い、上品な味わいをゆっくりと楽しみました。1998年レ・オリーヴェは、「ピーノの魂」というべき、凄さを感じました。枯れているような、でも優しい甘さ。苦さでない、美しい苦さ、何て素敵なんだろう。亡き人を思いながら、訪ねて行った時のこと、食事を一緒に楽しんだ時のこと、ヴェローナのボッテガ・デル・ヴィーノにピーノの古いワインを見つけて、一緒に飲んだこと、2003年にYasukoのためにと、ラベルを作ってくださったことなど、思い出は尽きません。「泰子さん、人生はEmotionだ。後ろを向くな」と、ル・テロワールを去らなければならなかった時、強く励ましてくださいました。さようなら、いつも勇気付けてくださって、ありがとうございました。
今、ヴァン・ナチュールの大きな流れが世界中に広がり、効率化を排し、近代醸造とは対極にあるワインが各地で作られてきています。お二人のような作り手の再来を信じ、素晴らしいワインとの新たな出会いを待ち続けたいと思います。心より、ご冥福をお祈りします。
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