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エッセイ:Vol.90三酔人架空ワイン問答(1)

暮れも迫ったころ

 たがいに旧知の間柄であるワイン関係者三名が集って歓談したと思召せ。組み合わせは、ワイン評論家(A)とワイン雑誌編集者(B)、それにワインインポーター(C)。いずれも業界歴が長く、内外のワイン情勢に通じているだけでなく、率直なもの言いをする剛の者、としておこう。ところは東京のさるレストラン。飾り気はないが、料理と素材、ワインの選択と管理が非の打ち所がない――とくれば、話が弾まないわけがない。話の交通整理役は、年の功でおのずとCの務めとなるはずだが、はたして。

C:
 珍しい顔合わせですが、知らぬどおしではないので、いつもの無礼講といきましょう。好きな料理とワインを各人が勝手にたのみ、ワインは手酌、勘定は割り勘というルールでよろしいですね。といっても時間がもったいなから、料理とワインは前もって店と相談済み。なので、不足があればなんなりと仰ってください。もう料理とワインが、出はじめていますけど。

A:(ワインに手をつけず、笑いながら)
 きれいごとを言っても、じつは談合済み。いつものパターンを押し付けようという魂胆がまる見えじゃ、ないですか。だから、インポーターは信用ならないのです。

B:(ワインを飲みながら)
 Aさん、いきなり結論を突きつけるのはいつものあなた流ですが、今日はお手柔らかに願います。まずは、ワインを飲みながら、ゆっくりいきましょうよ。

C:(すでに二杯目のグラスを持ちながら、Bさんを制しつつ)
 いや、Bさん。ご存知のとおりAさんは、テイスティングすればワインはわかるという主義だから、ワインを勧めても無駄です。本当は、少し飲んだだけで酔っぱらってしまうのかもしれないけれど。
 まあ、それにしても、その論法がいかにもAさんらしいですね。料理やワインの出し方と、インポーターが信用できるかどうかという問題とは、本来まったく関係がない。なのに両者を無理に結び付けて、「だから」で因果関係があるかのように断定するのが、Aさん流なのですよ。インポーターは信用できないというのは、たぶん本音なのでしょうけれど。それならば、ワイン批評家は信用できない、というテーゼもまた成り立つかもしれない。おっと、口が滑ったので、撤回しよう。

A:(グラスに口をつけながら)
 ハ、ハ、ハ、冷静に分析されてしまいましたね。おまけにワイン批評家無用論めいたことまで、わざとうっかり口にするとは。これだから、インテリはかなわないのですよ。

C:
 今度は、インテリと持ち上げながら、「これだから」で裏返そうという寸法ですね、まるで胴上げ落としのように。

A:
 冗談でごまかすのはおかしいですよ。だいいち、私はテイスティングしただけで、ワインがわかるなんて言ったことがない。正しいテイスティングの方法がある、と言っているのだから、そういう言い方は、少なくとも不正確です。
 それに、ワインをたくさん飲まない人は信用できないというのは、論理的におかしいじゃ、ないですか。それなら呑兵衛の言うことは信用できるのですか。

B:(Cが反論しそうになるのを抑えて)
 まった、まった。ワインを飲む量と、ワインを理解し批評する能力は、無関係ですね。そういう意味では公平に言って、Cさんもまた論理的ではないんじゃないですか。

C:
 やっぱり、編集者は行司役が打ってつけで、性に合っていますね。
 (と、Bを持ち上げておきながら、Aにむかって)たしかに、オスカー・ワイルドも言っているように、ワインを理解するためには、なにもワインを一本飲みほす必要はないのですね。アクトン卿が「書かざる歴史家」と呼ばれていたように、「飲まざるワイン批評家」がいてもいいことになる、たとえば『インターナショナル・ワイン・セラーズ』の、スティーヴン・タンザ―のように。もっとも、アクトン――といっても、20世紀の審美的作家ハロルド・アクトンではない――は、実はたくさんの優れた論考を発表していたのに、あまり単行本にまとめなかったようですが。
 (と、いいながらグラスを干し、もうすぐ空になりそうなビンを見ながら)でも、美味しいワインのビンはすぐに空になる傾向があるから、ワインの美味しさと飲むスピードとは、関係がある。とすれば結果的に、飲み方はワインに対する一種の批評になる、と言っていいんじゃないか。どういう飲み方をするかの方が、もっと問題だけどね。だから、飲み方を見れば、批評家の資質がわかるとまでは言いませがね。

A:
 もっともらしい知識をまぶして、ずいぶんと人を煙に巻きながら、前言を修正しているようですが、もってまわった非難が続いているとしか思えませんね。それにしても、Cさんの論の立て方は要するに呑兵衛談義であって、美味しいワインはみんなが早く飲むというだけじゃ、ありませんか。そもそも私は、酔っぱらった認識が大嫌いなのです。

B:(ややこしそうな流れを変えようとして) 
 さあさあ、飲み方はさておくとしましょうや。ところでこの際、いま話の出かかった、ワイン批評家について、ちょいと議論をしませんか。Aさんは嫌だろうけど。Cさん、意見がありそうな顔つきですが。

C:(にっこり笑って)
 その前に、「ワイン批評家」という言葉じたいが適切かどうか、論じなければならないでしょう。ちなみに、ル・セルべ社のベッキー・ワッサーマンは、数々のブルゴーニュの銘酒をいち早く北米に輸出した目利きでもあるのですが、最近ある記事のなかで、ワイン・クリティックとかワインライターという言葉を用いずに、ただ「ワイン・コメンテイター」とだけ呼んでいます。たしかに、世界中で多くのワインライターやワイン・ジャーナリストは、ワインについてテクニカル・レポートや実感的な印象記を量産しているので、そう呼ぶほうが実態に即しているかもしれない。
 イギリスのワインライターで、シャンパーニュに精通しているマイケル・エドワーズは、ワインライター業に転じる前はレストラン「批評」を仕事にしていましたが、「ハンバーガーのテイスティングまでさせられて大変だった」と嘆いていましたっけ。イギリスの精鋭ワインライターたちも、仕事の多くの時間を、あまり興味のない「スーパ-マーケット・ワイン」などのテイスティング(とコメント作成)に割かなければならない、と嘆いていた記事を読んで、同情を禁じ得なかったのですが、それは余談です。
 Aさんは答えづらいかもしれませんので、Bさん。いったい、ワイン雑誌では、どう考えているのですか。

B:
 そうですね。私たちワイン雑誌の編集者は企画段階で執筆適任者を検討し、社員が書くか書けるのか、社外のライターさんにお願いするのか、を実務レヴェルで判断しているだけです。社員が書ける記事でも時間的に無理ならば、社外のライターさんにお願いする場合もあります。どのみち、ワイン批評家という自称多少の肩書を問題にすることはありません。

C:(皮肉気味に)
 Aさん。当事者としては、というより日本を代表するワインライターとしては、どうお考えですか。

A:
 おだてても駄目です。たしか、イギリスの「サークル・オヴ・ワインライターズ」という団体では、会員を選択して氏名を公表している。日本の「ソムリエ」とか「ワインアドバイザー」というような(社)日本ソムリエ協会が認定する資格もまた、認定プロセスは明確ですね。もっとも、私はどちらも持っていないけれど。だからといって、それらの資格がワインとワインライターに必要ではないとは、言いませんがね。
 まあ、「批評家」は国家や利益団体とは離れた一般名称ですから、だれでも勝手に名乗れます。社会からそう認められるかどうかは別ですが。私はへそまがりだから、他人からどう認められようが、なんと呼ばれようが、なにを言われようが、いっさい気にしません。

C:
 私も、ご同様にアドバイザー資格なんかはもっていませんが、インポーターという仕事には、そういう資格はあってもなくても差し支えないようですね。
 ところで、問題は批評家でした。一般に批評家とは、知的で高級なアートにたずさわる人と見做されているらしい。それに対して、ジャーナリズムやライターはニュートラルな名称でより野性味が強い職業だから、ワインについてもワイン・ジャーナリズムやワインライターがいて当然であって、言葉に違和感がないのかもしれない。
 それでは、文学やひろく音楽、美術といった「アート」は、いわゆるハイブラウな高級芸術であるのに対して、日常生活にかかわるアート、たとえば料理や裁縫、ファッションという技芸や技術の分野はアルティザンの領域だから、アートとは区別さなければならないのか。
 少なくとも二十世紀を代表するエンターテインメントであった、映画やジャズ、推理小説、大衆文芸は、マイナー・アート扱いされるべきではない、というのが最近の常識になっている。だから、それぞれの分野に批評家、専門的なライターが活躍し、認められ、敬意を払われても、不思議ではないのです。
 言い方をかえれば、批評もまた視点の置き方しだいだから、高級だろうと大衆的だろうと、あらゆる分野に成立しうる。だけれど、それは(テロワールのように)あくまで可能性にとどまるのではないでしょうか。
 およそ批評には、対象・基準(クライテリア)・合致度(評定)があるだけでなく、評価の客観性があり、評価プロセスと評定結果がわかりやすい言葉と正確な文章で表現されなくてはならない。およそ文章には芸が必要なのです。
 だとすれば、ワイン(と料理)に批評を持ち込むのなら、それらを特殊扱いすべきではありません。とくにワインは、いわば「感覚性物質」であって、言葉にしにくいだけでなく、主観的な判断になりやすいけれども。しかも飲んだら消えてしまって証拠が残らないから、再現性がなくてたちが悪い。

B:(ややうんざりしながら)
 講義調の長口舌ですが、いったいなにが言いたいのですか?

C:(居直り気味に)
 ワイン批評が、どのようにして出来上がってきたのかを、振り返ろうとしているところです。とにかくワインは、あらゆる文化現象とおなじく、歴史的に特定の文化圏や社会階層のなかで育った生活文化のひとつだから、生活化された習慣的な基準でもって扱われてきた。だから、ワインの生まれ育った各地に、それぞれワインのレーゾン・デートルがあり、ワインの良し悪しの判断基準があったのです。
 それゆえ、各国各地のワインを18世紀このかた紹介し、論じてきたのが、かつてはもっぱらワインの大消費地であった、裕福で経験豊かなイギリス人だったのです。それを踏まえて、20世紀の後半になって登場したのが、イギリスでヒュー・ジョンソンを嚆矢とする、一群のワイン専門のライターやジャーナリストなのです。

B:(反論気味に)
 イギリスの専門ワインライターたちは、ガイドブックを編集し、国や地域別のワインブックを書いてきたのであって、ワイン批評家という意識はもともとなかったのじゃ、ありませんか。それに、ヒュー・ジョンソンは、ガイドブックの名編集者と位置づけるべきでしょう。

C:
 さすがに編集者の視点はちがう。たしかに、ワインの歴史が各国にあり、また近年ワインが生産されて急成長しつつある国もある。だから、世界中のワインを独りではカバーできないから、地域別のワイン専門家を組織化しなくてはならなくなった。
 その点、ヒュー・ジョンソンや、その仲間のジャンシス・ロビンソン、さらにはその伴奏者で後継者と目されるジューリア・ハーディングたちは、オクスフォードやケンブリッジ出身の優秀なライター兼編集者ですね。そもそも、頭脳明晰な若者がワイン界に参入してきたから、出版編集もワインビジネスもともに、質が上がったという事情があります。

B:
 おっと、Cさん。話が佳境に入ってきたし、ワイン編集者を持ち上げて下さるのはありがたいのですが、まだ選りすぐりのワインと料理も用意してありますので、すこしそちらのほうに専念しませんか。その話の続きはゆっくりとしましょう。

C:
 それはよいけど、私はイギリスの名編集者たちの系譜をたどっただけで、ワイン編集者一般や日本のワイン編集者やワインライターを褒めたわけではありませんからね。

B:
 それでは、一応そういうことにしておきましょうか。

 

というわけで、ワイン批評家とワインライター本来の仕事を、引き続き考えましょう。


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