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エッセイ:Vol.89 再説・目的と手段

目的のためには手段を選ばない、

 という短絡行動がやたら目につく困ったご時勢である。だが、いかなるばあいでも「目的は手段を正当化できない」ということは、自明の理である。つまりは、いかに目的が正しかろうと、間違った手段までも正しいと言いくるめることはできないのである。そのうえ、目的の設定が正しくないとしたら、手段が一人歩きするだけという怖ろしい事態になりかねない。わが偏愛するオルダス・ハックスレーに、『目的と手段』という論理明快な名エッセイがあるので、関心のある方はぜひご参照願いただきたい。

 さて、ここで、目的を「意図」ないし「動機」と置き換えてみると、この論理を用いる側の心理メカニズムがいっそうたやすく見てとれるかもしれない。たとえば、このほどの衆議院解散と選挙とやらの一連の動き。むろん党利党略はあらゆる政党活動の主要動機なのだろうが、選挙という代議制の根幹をなす仕組みが、特定の政党や政治家たちの思惑などに弄されては、かなわない。私見ながら、代表性という点で不備きわまる現行の選挙制度が、現状の固定化を図るための道具と化す不合理を、見過ごすわけにはいかない。

 そして、いざ選挙となれば、常にもまして空疎な言葉やお約束が飛びかうはず。かくしてドタバタ騒ぎや珍喜劇のあげく、政治が「低空飛行」――丸谷才一さんのエッセイ集の題でもある――を続けるどころか、その風向きがいっそうおかしさを増すとすれば、なんのことやら。そういえば、立論に巧みな名文家であった大内兵衛さんの著作に、『日本の曲り角』という時評集があった。もしかしたら、「右に曲るのでご注意ください」といった帯かサブタイトルがついていたかもしれないが、わたしの記憶はあやふやで保証のかぎりではない。

 そこでもし、政治の右回りが進むとすれば、これは骨のある保守主義とは違って油断がならない動きであるし、ましてやファシズムへの傾斜がみられるとすれば、いくら注意しても注意しすぎることはない。余談ながら、丸山眞男さんは第二次世界大戦から学ぶべきこととして、ファシズムは「第一歩で食いとめろ」ということだと『現代政治の思想と行動』で述べていたことを付け加えておこう。

 しかし、こんな政情、というより為体(ていたらく)にいちいち腹を立てたり、悲憤慷慨したりしていては、こちらの身がもたない。とはいえ、すぐにあきらめて悲観的な結論をくだすのは、なにごとも早計というもの。ものごとを長期的な視点と変化の可能性、つまりはダイナミズムでもって眺めれば、貧しい視界がぐんと広がり、発想が革まると思ってよいだろう。およそ万物は流転するものだし、一国の政局という局地的な現象にとらわれずに、政治世界を俯瞰してその構造と力学を察することができれば、なすべきことや方向性の判断はそう間違わないはず――という考えは、あまりに楽観的なのだろうか。

 ここで、つい先日物故された坂本義和さんの言葉を思いだす。かつて氏は講演会の席で、「私は長期的には楽観主義者です」と発言されたのを聞いたことがある。保守主義にも造詣が深かった現代の賢者の言や、善し。もし人間の叡智を信頼できないとすれば、ほかに頼るべきものがあるだろうか。

 ここは、もう一人の賢人アランの思索の跡でもたどりながら、人間と世界についてじっくり考えるにしくはない。独創的な思索者であったそのアランにしても、「考えるというのは行き過ぎることである。私は力の限り飛躍することによらずしては、何ひとつ見つけ出したためしがない」とのこと。

 アランは『人間論』のなかで、「あらゆる観念もまた、(4分儀のようにものごとを)ただしく把むための道具にすぎない」といっている。およそ観念や概念は、認識するための道具あるいは手段にすぎないと弁えるべきであって、出来あいの観念にとらわれ、圧倒されてはなるまい。

 なお、杉本秀太郎さんの『火用心』(編集工房ノア)にあるエッセイ「アランを読む人、付録 アランの言葉」は、氏一流の流麗な文章で書かれた、アランへのこの上ない手引き書である。

 はなしは変わるが、近ごろワインを論じるのに、天と地から、はては宗教教義まで持ちだす御仁がいるようである。このような大仕掛けの見立てや論の立て方は、鶏を裂くのに牛刀を用いるたぐいであって、人をあっと驚かせるためでないとすれば、煙に巻くための手なぐさみとしか思えない。

 論の当否は別として、天地(あるいは古来の四元素説など)を持ちだすイデオローグや生産者がワイン界にいることはたしかだが、宗教となるとはたして現代のワインといかなる直接的な関係があるのだろうか。しかも、もし自分が信じてもいない世界観やもろもろ宗教を、偏頗な議論の補強材として利用するとしたら、笑いごとではすまされない。

 ちなみにアランは『芸術論』の冒頭を、パスカルの言葉「想像力は誤謬のあるじ」と、「見えもしないものを見るように思いこむ」人があるというモンテーニュの至言で飾っている。

 かつてルネサンス期に、キリストの根本精神を忘れ去り、枝葉末節に流れた滑稽な神学論争が繰り返されていた折り、「それはキリストと、なんの関係があるのか?」という本質的な問いが発せられたという(渡辺一夫『へそ曲がりフランス文学』)。あらゆるものごとについて、「それはワインと、なんの関係があるのか?」と、あらためて問いなおしてみることが必要だろう。

探索の行きつくところは、ワインに即して飲み語り楽しむ、という素朴な原点であろう。理想地をめざした冒険の旅がたどり着いた地は、なんと出発の地であったという、まさにチェスタトン的な逆説がここにある(『正統思想』)。頭でっかちにはなりたくないものである。

 
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