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エッセイ:Vol.87 ただ今、読書中

公開日: : 最終更新日:2014/12/26 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

はじめに

 「学ぶためには、教えてみよ」“To learn, teach!” という名言をもじって、「書くためには、読め」といえるだろうか。読書に読書以外の目的をおくのは、読書人にとっては野暮で感心しない。といって、本を「読むために、買え」では、ちと俗に堕して情けない。が、読むという口実抜きにして本を買い求めるのは、いかにも心苦しい。じつのところ、理由抜きに、本好きは本を買わずにいられないのに。つまり、読むのはおまけというわけ。だが現代の美徳に、「本当のことを口走ってはいけない」とある。そのあたりの機微を、わが身辺に即して語ってみるとしようか。本だらけの人生を。

Ⅰ.本とワインのあいだがら

書物は自己増殖する

 本は書くより読むほうが楽だし、読むよりも買う方がもっと楽だ。というわけで、いつか読むつもりの本が集積しやすいことは、読書人というより本好きな人間ならば、誰でも知っている。というより、困っている。どうやら書物は自己増殖するとみえて、同種・同著者・同一テーマの書籍がいつのまにか増えていく癖がある。

 それにしてもスペースの制約があるから、購入には一定の限度があるはずなのに、本好きは楽天的な人種であるらしく、なかなか購入癖がおさまらない。まあ、余計な本は売ってしまうか始末してしまえばいいと決まっているが、買い求めた本にはいつしか愛情が移ってしまい、なかなか手放す気にならない。

 本は家族の一員ではないとしても、どこか同居人めいたところがある。そういえば安倍公房に、勝手に押しかけた人物に家を乗っ取られるという逆転劇の名作があったが、本もまた増殖したあげく家族を追い出しかねないから、自戒しよう。とどのつまり、自分が追い出されかねないのだから。

ワインはセラーを求める

 本をワインと置きかえると、ワインは造るよりも飲むほうが楽だが、飲むよりも買う方が楽かといえば、必ずしもそうではない。自分が飲みたいワインがあるとしてだが、いくらインターネット・ショップが盛んとしても、それを探し求めるのは簡単にはいかないし、懐具合とも要相談。ましてコンディションのよいワインを求めるとなると、至難とはいえないまでもたやすくはないが、いまはその問題に触れない。

 としても、ワインにはコンディションを良好に保つのに適した保管場所が望ましい。としたら、あらたにセラーの容量という制約がでてくるが、どこかの専門倉庫に預けるのでもないかぎり、ワインには本よりもややこしい保管スペースの問題がつきまとう。その点、本は直射日光に当てなければ物質的な劣化現象がおきにくいから、所有者は気楽である。

書物との苦楽

 そこで、もういちど本の話にもどる。いうまでもなく楽(らく)と楽しさは別であって、本を書く/つくる・読む・買うにはそれぞれの楽しさがあるから、どちらが楽しいとはいいきれない。というよりも、本にかかわることがらには、すべて楽しさがつきまとう、と本好きは勝手に夢想したがる。(注)

 が、かといって、本に(スペース以外の)苦しさが伴わないかといえば、そんなことはない。現に今、本ではないが原稿をつくっている最中の私は、どのように書くかを楽しく思案しながら、どのような読者サーヴィスをしようかと思い悩んでもいる――能天気で好き放題に書いていると、はた目にはみえるとしても。

 話題をかえよう。どうやら私は、ワインに直接かかわりのない本を読んだり、集めたりするのが趣味らしい。ここで、なぜワインブックをあまり読まないかということについては、刺戟的なワインブックが国の内外にあまり見当たらないから、と称することにしている。もちろん例外は常にあって、いつも書くようにマット・クレイマーやアンドリュー・ジェフォードの著作には、新しい視点と知的に快い刺戟がつまっている。

不快を論じるべきか

 その反対に、世の中には不快な刺激を与えるワインや文章があるものだが、それについて読み書きするのは不快になるだけで後味がわるいから、あえて書くまい。しょせん快・不快は個人的な反応であって他人には無関係なこと、ワインも本もワイン著作物もおなじ。まあ、「不味い」ワインについて書くべきかどうかについては、海外のブロギストやライターたちのあいだで盛んに論議されていますがね。

 

批評家を論じるべきか

 さて、本来ならば、ここで批評の役割を論じるべきところ。著作物ならば批評家や書評家、ワインならばワイン評論家たるもの、ジャーナリズムからお座敷がかかるのを待たずに、優れた本やワインを自発的に発掘紹介して、何故どのように優れているかという所以を論じるのが役割のはず。なのに? 逆に、ネガティヴな評価を公開することに、批評家たちはなぜか消極的である。敵をつくりたくないからだろうか。しかし、現代ではなにごとであれ、敵を作らずにすむことは難しい。反応することが思考だと誤解しているむきがあるからだ。それゆえ、時流におもねらず、堂々とヴァン・ナチュレル否定論をぶちあげたミシェル・ベタンヌ(繊細な味覚と恐るべき記憶力の持ち主)は、ある意味で見上げたものだ。ドン・キホーテでなければよいがと、ついおせっかいを言いたくなるけれど。

 それならば、批評家から高く評価されたモノが本当によい/美味と感じられるかというと、そうでないケースが多すぎる……などと、ここは論評の適否を論じている場合ではないから、勝手に筆先が走るのは困りもの。批評家に恨みはないのに。

 

 さて、今回は、買い集めて身のまわりに集積散乱している本のことをこれから書くつもりなので、本にも私にも関心のない方は、どうぞここらへんで読み止めくださいな。

 

(注)仕事を選ぶ際に私は、編集者を志しかけたが、本は編集するより購入する方が楽で楽しいと悟り、その道を閉ざした。当時お断りした出版社には迷惑だったろうが、それ以上の迷惑を出版社にかけなかったのは幸甚だったかもしれない。のちに名編集者とうたわれた友人の鷲尾賢也ほど、私には編集という仕事への執念がなかった。

 

Ⅱ.机辺を埋める書物たち―

杉本秀太郎様、まいる

 まずは、近ごろ読みなおしている本から。フランス文学者・杉本秀太郎さんにはかねてから敬服しているので、そのエッセイと翻訳書の多くが手元に揃っている。わけても感性と知性に裏打ちされた心に染み入る数々のエッセイは、絶好の旅の伴侶でもある。そのエッセイ集から一冊を選ぶのはむずかしい。けれども、佐藤春夫の『退屈読本』にも比べられるべき多様な散文の妙と興趣にとむ『火用心』(ノア叢書。詳細年譜つき)は手放せない。

 氏の訳業もこれまた非の打ちどころがなく、訳文は苦業のあとをとどめない。著者が訳者にすり替わったのか、訳者が著者に成り代わったのかと、荘子の夢ふうの疑いすらおきかねない。氏が若年のみぎりに世に出したアランやアンリ・フォシヨンの翻訳には、後年に徹底した改削の手が加えられており、(趣味は悪いが)旧訳と新訳とを読み比べてみれば、翻訳の名人とうたわれる氏の訳業もまた、一朝一夕になったのではないことがわかる。

 というわけで、わが杉本ひいきは、氏の居宅(京都市有形文化財に指定されている、うっそうたる木立に包まれた趣ある町屋建築)の近所に、私が傾倒している和食店があるという縁からではないことが、おわかりいただけよう。

 なお、フォシヨンの『[改訳]形の生命』(平凡社ライブラリー。「手に捧げる」併録)は、形状と味わいの関係を探るのには参考となるべき思索の書。

 

手のはなし

 そこで、手のはなし。手のはたらきがワインにとって重要なこと、言うまでもないが、なかなか良書が見当たらない。『手のなかの脳』(鈴木良次、東大出版会)は、工学系の著者によるが、内容はタイトルほど魅力的ではなかった。文系では、博捜なウォルター・ソーレルによる『人間の手の物語』(筑摩書房)のパースペクティヴが面白くて、手の再考を迫られる。左右の手の異なる作用についてはズバリ的を射るものはないが、戦争で夭折したフランスの社会人類学者ロベール・ヘルツ『右手の優越』(ちくま学芸文庫)によれば、「貴族性の象徴」となる右手の優位は、肉体機能の左右差から生じるのではなく、宗教的な両極性による神聖観を映し出すとされる。右手でワイングラスを持つのがよいという説は、文化的な固定観念ないし先入観にすぎず、まったく根拠がないと知るべし。

 

脳のはたらき

 脳のはたらきについては目下模索中だが、最近の脳ブームとやらのおかげで、脳関係の書物はおびただしく、玉石混交の態をなしている。が、たとえば『唯脳論』の著者・養老孟司さんの議論はいつもオリジナルで的を突き、どれをとっても思考を刺戟すること間違いない。その養老さんが解説を書いているV.S.ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』(角川文庫。序文オリヴァー・サックス)は、はじめて科学的な幻肢の説明に成功した脳科学者の、冴えた頭のはたらきや鋭い発想が見て取れるので、めっぽう面白く読んで損はない。

 

精神と物質、あるいは唯物論について

 精神と物質の関係については模索中で、まだ入り口の周りをうろついているところ。だが、デカルトやスピノザの訳書や伝記・論作のたぐいは、家のそこらじゅうに散らばっている。けれど、わがひいき筋がドゥニ・ディドロであることは、読者ならばご存じのはず。

 『ディドロ著作集』(全4巻。法政大学出版)は、昨年37年ぶりにめでたく完結したし、ほぼ同時に発売された雑誌『思想』2013年12月号は「ディドロ300年」と銘うつ特集号ゆえ、揃えないわけがない。もちろん、大家ジャック・プルーストの著作と監修・解説書(大冊『フランス全書絵引き』平凡社刊)、中川久定さんの立派な諸作も書棚に並び、所在なげに怠惰な読み手を待っている。そうだ、近訳の『運命論者ジャックとその主人』(田口卓臣・王寺賢太共訳、白水社)も買わなくては。小場瀬卓三さんの旧訳はたっぷり楽しませてもらったけれど。

 

現代の精神と物質

 好みはさておき、本筋である現代の「精神と物質」に立ち返ろう。ここでは、かたや哲学、かたや科学的な精神と学問の体系的蓄積という両構えが前提となる。それだけでなく、既成概念にとらわれない思考実験、石川淳流にいえば精神の運動が求められること必定と心得ている。ちなみに「君、これ不思議と思いませんか」が口癖だったとされる寺田寅彦は、「科学者になるには自然を恋人としなければならない」と述べたとか。ワインを理解するには、なまじっかな思弁を弄さず、自然にむきあう科学者のような魂がいるのだろう。

 哲学といえば、机上や周辺にはいつもH.ベルクソンの『思考と動き』『精神のエネルギー』(ともに原章二訳。正確な訳との評判が高い。平凡社ライブラリー)が、これまた読み手を待っている。岡部聡夫の『物質と記憶』(駿河台出版社)が名訳だという説があって、たったいま手元にとどいたところである。

 他方で、量子力学の基礎を築いたとされるエルヴィン・シュレーディンガーの、『精神と物質』(工作舎)や『自然とギリシャ人・科学と人間性』も控えている。ちなみに、ジョン・チャスティの空想小説『ケンブリッジ・クインテット』(新潮社クレストブックス)のなかでシュレーディンガーは、ウィトゲンシュタイン、チューリング、JBSホールディン、CPスノウらとともに登場して、たがいに尖鋭な議論をかわしあっている。

 

スコットランドの重要性

 ところで近ごろ私は機嫌がいい。というのはスコットランド学派の重鎮二名のつながりが、強く認識されだしたから。二人とは、敬愛すべきD.ヒュームとA.スミス。そう指摘したのは、思想史家のニコラス・フィリップソン(『アダム・スミスとその時代』、白水社)。スミス『国富論』の交換という着想は、ヒュームの『人間本性論』から生まれたらしいのだ。スミスの卓抜なワイン論についてはすでにこの欄で触れたことがあるが、じつはヒュームもまたワインと浅からぬつながりがある。

 かねがね私が注目していたのが、ヒュームの「趣味の標準について」という論作(田中敏弘訳『ヒューム 道徳・政治・文学論集』pp192-208、名古屋大学出版会。原文は“David Hume, Selected Essays, Oxford World’s Classicsなど)。と思っていたら、やはり同じような見方をするワインライターがいて、しかもみごとにワインに引きつけてヒュームの趣味論を解釈してみせた。その人の名は、またしてもアンドリュー・ジェフォード。エディンバラに在住する友人の専門家から示唆を受け、件のヒュームの著作を開いて驚愕の発見をしたとか。キーワードは、「テイスト」。趣味と味わいという両義に引っかけて、現代のワイン・コンペティションの評価基準を、かの思索家ヒュームが250年前に密かに確立していた、とジェフォードは言ってのけた(「タバコ・ドックのヒューム」“Hume at Tobacco Dock”,Jefford on Monday, 2014.05.26)。

 

見える、見えない

 話がちょっと高級になったついでに、もう一つのテーマを出しておく。見えるものと見えないものについてだ。が、この言葉『見えるものと見えないもの』がそのままタイトルになっているのがメルロ­­=ポンティ(みすず書房)の作で、『見えないものを見る カンディンスキー論』がミシェル・アンリ(法政大学出版)によるが、両方ともいささか手強い。

 ご承知のように「大切なものは目に見えない」はサン=テグジュペリ『星の王子さま』にあるが、こちらはなかなか含蓄が深い。ワインの味わいも目に見えないし、ブドウの木の根もまた地中にあって不可視である(が、腐った根っこにこだわる人もいるとやら)。気候風土と地域の文化現象の総称であるテロワールに至っては、(一方向性にワインの味わいを規定するのではなく、造り手の解釈を媒介としてのみ、ワインのなかに姿を現すという意味で)可能性としてしか存在しない。だから、テロワールにはむしろ目に見える要素は少ない。

 「見えるもの」しか論じないのも困ったものだが、「見えないもの」を強引に解釈して味わいに結び付けるのもまた、問題だろう。補助線は上手にひかなければ、かえって問題を混乱させるだけで、証明の役にたたない。

 

ひとを見るひと

 見えない時間を可視化してみせるのが時計であるが、時間という観念はとうてい時計などでは捉えがたい。関係もまた見えないが、感じとることはできる。人間こそ、見かけと実像が異なるだけに、捉えがたいものの極致かもしれない。だからこそ文学の出番があり、乱世のフランスにラ・ロシュフコーらのモラリスト(人間観察家)が登場したのだろう。

 人生相談欄の回答を見て、美輪明宏の人間観は確かであると、つねづね感嘆していた。朝日新聞の美輪・連続インタヴュー記事「人生の贈りもの②2014.09.17 見えないものを見る目 養われた」を読み、合点がいった。美輪は幼いころからにぎやかな劇場や楽屋に入り浸るいっぽうで、住まいの裏手からうかがえる風呂屋の裸像や遊郭での痴態を見慣れていたから、着るものでごまかされなくなったとか。だから「人を見るときに見えるものを見ない。見えないものを見る。」これまた至言であって、ことは人間観だけにとどまらない。

 

言葉

 最後は、言葉の問題。鷲田清一さんによれば、現代フランス美学の泰斗で哲学者のミケル・デュフレンヌは、言葉にはテキスト(意味)とテキスチュア(肌理)の二重性がある、と指摘したという。日本の政治には「話をはぐらかしながら、すらすらと『平和』を語る人がいる」とする鷲田は、「滑る言葉は、意味は伝えるけれど、肌理がそぎ落とされる」と語る(朝日新聞「人に届く言葉」議論;塔短歌界が公開シンポ、2014.09.02)。ごつごつした肌触りの言葉に、かえって真実味があるという逆説だ。というわけで、急遽デュフレンヌの訳本3冊―『眼と耳』(みすず書房)、『言語と哲学』(せりか書房)、『人間の復権をもとめて』(法政大学出版)を入手し、ときに睨んでいるが、どうも歯が立ちそうにない。

 

脳をやすめる

 そんな時に頭をやすめる爽快で愉快な短文集がある。薄田泣菫の『完本 茶話』(「ちゃわ」と読む。谷沢永一・浦西和彦編、冨山房百科文庫、全3冊)。大正期のなかごろ大阪毎日の紙上に載せたコラムを中心に、書誌学の鬼が漏れなく集めたもの。杉本秀太郎にも『茶話』寸評があったと記憶する。茶話とは泣菫によれば「その名の通り、お茶を飲みながら世間話をするような気持ちで」書いたものとか。北米保守党の生臭いティー・パーティとは無縁の、ひとひねりして洒落たゴシップ集だから、丸谷才一さんが大いに称揚するのも道理。茶よりも酒についての記述が圧倒的に多く、ビフテキとビステキという二様の表記があるのに思いをめぐらすのも一興。破顔一笑すれば、凝った頭がほぐれること疑いなし。


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