『ラシーヌ便り』no. 189 「さよならベッキー」
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最終更新日:2021/09/01
定番エッセイ, 合田 泰子のラシーヌ便り, ライブラリー ブルゴーニュ, ベッキー・ワッサーマン, ダヴィット・クロワ, フランス
8月20日未明にベッキー・ワッサーマンが亡くなられました。長年、慢性閉塞性肺疾患に苦しんでいたそうですが、84歳でした。
ラシーヌには、【シルヴァン・パタイユ】、【ダヴィッド・クロワ】、【ダヴィッド・モロー】を紹介していただいています。ブルゴーニュに40年以上前から住み、優れた生産者を発掘・育成しながら世界中に紹介しつづけるベッキーは、喩えようのない笑顔の持ち主で、とてもチャーミングな女性で、私の憧れの方でした。ベッキーの会社である“Le Serbet”(ル・セルベ)の卒業生たちが、その後ワイン界を代表する重要な人々となっていったので、世界中から弔辞が寄せられています。
初めてベッキーに会ったのは、1990年9月「コント・ラフォン家3代にわたるヴァーティカル・テイスティングを通した、ラフォン・スタイルの再確認と継承」の時です。駆け出しの身にはもったいないような場に、当時取引を始めたばかりのブローカー、ピーター・ヴェザンのお供で招いていただきました。ブルゴーニュのドメーヌ・ワインを世界に広めた女性、ベッキー・ワッサーマンの高名は知っていましたが、ブルゴーニュに通い始めたばかりの私には、遠い世界の方でした。すでにその頃、日本には株式会社ミツミ(破綻後、その扱いの多くがトーメン・ワイン部に移った)と富士発酵(現㈱フィネスの藤田氏)が、ベッキー・ワッサーマン・セレクションで扱われている多くのブルゴーニュワインを独自に輸入していました。
その後1998年にマルク・デ・グラッツィアと一緒にベッキーを訪問する機会がありましたが、当時私は日本未入荷の造り手を探さなければいけなかったため、長い間ご縁はありませんでした。実際にベッキーと仕事を始めたのは、ダヴィッド・クロワ(と、彼が2015年まで醸造長を務めたネゴシアン・カミーユ・ジルー)のブルゴーニュ登場以後からです。
2009年5月始め、取引をお願いするため、訪問の約束をいただいていました。ボーヌからディジョンに行く列車の中で、たまたまシチリア旅行に出かけるベッキーとラッセル夫妻に遭遇して「待っているわよー」と言っていただき、嬉しさから訪問の緊張が和らぎました。ロワールを周って一週間後、ディジョンからボーヌに行く列車の中で、またもシチリアからの帰りの二人にばったり。「これは偶然ではない、運命よね!」と、ベッキーはハグをしてくれました。
さいわい取引関係が始まってからは、何度もブイヤン村のご自宅で、ラッセルが作る温かなお料理と、とびっきりのワインをご馳走になり、ブルゴーニュの歴史、ワイン・マーケットの話、造り手の話、貴重なお話しをたくさん伺いました。ジャスパー・モリスさん始めアメリカのインポーター、醸造家たち、彼女らの家に集う多くのプロフェッショナル達と共に過ごす機会をいただきました。
日本に来ていただきたいと何度かお話ししましたが、ラッセルの体調がおもわしくなく、とうとう実現しませんでしたが、ダヴィッド・クロワが2015年に来日する際には、『ヴィノテーク』の広告用として、ベッキーにダヴィッド宛のメッセージをお願いしました。
「親しいダヴィッドへ
あなたと会った日のことは、忘れません。当時、クロ・デ・ゼプノーでワインメーカーをしていたバンジャマン・ルルーが、こう語りました。『自分と一緒に仕事をしてきた男が、若手の中ではずば抜けている。再建中のカミーユ・ジルーのワインメーカーに適任かどうか、ぜひ面接してみたら』。こうして生まれた私たちの初ヴィンテッジは、2001年。いまでも何本か持っているけれど、年を追って美しく熟成していきます。
それから多くの年月とヴィンテッジが過ぎてゆく。たとえば、2003年のような難しい年。経験をつんだワインメーカーですら、のっけから手の打ちようがなかった。2004年もまた、問題続き。嬉しくはなかっただろうけれど、あなたは平静を失うことはありませんでした。
いまの私にとってワインは、静かなワインか、騒がしいワインのどちらか。静かなワインからは、アペラシオンが聞こえてくる。騒がしいワインは、まるで音量の大きな音楽。歌手はいるのに、歌が聞こえてこない。あなたのワインは、静かなワインね。あなたとともに何年も歩みつづけることができて本当にうれしく思います。ありがとう。 ベッキー (塚原正章訳)」
2014年5月に、夫のラッセル・ホーンの70歳とLe Serbet 35周年、ベッキーとラッセルの結婚25周年を祝う会があり、ブルゴーニュ中の造り手、世界中からのワイン人、そうそうたる方々が招かれました。ベッキーとラッセルの暖かな人柄と多くの人々にワインを楽しんでもらいたいという思いにあふれた素晴らしいパーティでした。私の人生で最も忘れられない思い出です。
デカンター誌で【デカンター・名誉の殿堂2019】を受章した時の記事に、ベッキーの半生が紹介されていますので、ベッキーの半生を追ってみたいと思います。
1937年1月18日、ニューヨーク州マンハッタン生まれ 株式仲買人の父と元プリマバレリーナでダンサーだったハンガリー人の母のもとに生まれる。ルドルフ・シュタイナー・スクールで学び、ハンター・カレッジ・ハイスクール(ニューヨーク)を経てブリン・モア・カレッジ(ペンシルバニア)卒業。趣味はと聞かれて、料理、読書、音楽と答えるように、素晴らしい料理人であり、和声と作曲を学び、優れたチェンバロ奏者でもありました。
青年期にギンズバーグやケルアックなどの作家たちと共に行動し、ハーバード大学の夕食会でTSエリオットの隣に座ったとありますから、彼女がワインを語るときに、構造、バランス、調和を何よりも大切にするというユニークな方法には、このような文化的背景が反映されています。
ブイヤン村の家に入るとすぐに、大きなチェンバロがありますが、一度は彼女の演奏をお願いすればよかったと思います。彼女がビジネスを始めた当初のことはあまり知られていませんが、この記事によるとビジネスを始めたものの決して容易ではなく、倒産寸前においこまれたこともあり、ベッキーにもこのような苦労があったのだと、我が身のワイン人生を重ねて思います。
1968年、ブルゴーニュに前夫であるアーティストのバートと共にやってきて、ブイヤン村に家を買いました。その家を改装している間はサン・ロマンに住み、現代アートのアーティストだったバートは、古い時代の建材や石を探しては改装を行っていたので、4年もの歳月を費やしました。ベッキーはこのころの生活をとても楽しそうに振り返っています。食料品店もなく、村では洗濯機を持っていて室内にお風呂があるのはベッキーの家だけ。毎日、丘を歩いてパンを買いに行ったそうです。バートとは後に離婚したので、村の学校に行く幼い息子たちを養うために仕事をしなければいけなくなり、彼女は地元の樽メーカーであるフランソワ・フレールに相談します。村には、樽をつくるためのオーク材がここかしこに積み上げられていたのでした。
1976年にジャン・フランソワは、サンプルの小さな樽と彼女をアメリカへと送り出しました。ベッキーはなんと、カリフォルニアのワイナリーへだす紹介状を、息子たちに手伝ってもらって、子供の文字で送ったそうです。やがてヘネシー社が所有するトネルリー・タランソーの代理店も務めるようになりますが、タランソーからはまともに対応してもらえず、パリの本社に行っても、マネージャーはオフィスではなく、街角のカフェで彼女の応対をしました。業界で女性が珍しかった時代です。彼女はガロ社に大量の木製タンクを売っていたので、その扱いに我慢できず、学者であり紳士でもあるジャン・タランソーに苦情を言いました。次のパリ訪問では、丁重にオフィスに案内されました、このようにして女性のビジネスの垣根を徐々に取り払っていきました。
やがて評論家のロバート・パーカーが登場し、ベッキーは樽の販売をやめなければならないと思い始めます。もともと樽の効いたブルゴーニュは好きではありませんでしたが、アメリカ市場では強い樽香のワインが大きな市場を占め始めました。樽のビジネスの傍ら、すでにアメリカでブルゴーニュワイン選びを頼まれ、ワインを輸出し始めていたこともあり、樽から距離を置くべきだと考えたあげく、樽ビジネスは他人に譲ってワインに集中することにしました。
彼女の会社、“Le Serbet”ル・セルベ(後のセレクション・ベッキー・ワッサーマン、現在のベッキー・ワッサーマン&カンパニー)は以下のモットーとともに、1979年に設立されました。
Non vendimus quod non bibimus
自分たちが飲まないワインは、紹介しない
しかし共同経営の相手を誤ったために、困難を余儀なくされました。資金がなくなり、2度も資本増強をしなければならなかったそうです。彼女には自己資金がなく、自宅にはすでにローンがありました。そしてアメリカで大きな倒産をして不良債権を抱え、経営が危ぶまれ、最悪の夜がやってきました。資金提供を約束してくれていたアメリカの仲間から電話がかかってきて、「もうダメだ、ドルが下がった」と言われたのです。「夜遅くに一人で事務所に座って、一体どうすればいいのかと考えていたのを鮮明に覚えています。必死で銀行に電話して時間を稼いだ。当時、女性はリスクを取らないから、資金のあるところでしか活躍できないとよく言われていました。私はそれが間違っていることを証明できたと思います!」。どのようにして、この局面を乗り越えることができたのかは、わかりませんが、初めの頃はみな苦労するのですね。
「ドメーヌ・ドゥ・ラ・プス・ドール、パスカル・マルシャン、ドメーヌ・ド・モンティーユ、ドゥニ・バッシェ、ミシェル・ラファージュなど、今では大変な人気ですが、当時はあまり知られていなかったドメーヌのワインを任されたものの、最初はすべてが順調に進んだわけではありません。初心者のような間違いばかりしていました」と彼女は述べています。
「ブルゴーニュは複雑すぎるし、ピノ・ノワールはもろくて弱いと思われていました。私が初めて販売したヴィンテッジは1976年で、干ばつの年であり、タニンの強い年でした。消費者向けの試飲会をどんどんしました」。しかし試飲会で人々が立ち去ってしまい、ヴォルネイしか紹介していなかったために、激怒した男性からパンを投げつけられたこともあったそうです。それでも、ベッキーには豊かなユーモアのセンスがあり、簡単にはあきらめなかった、と記事には書かれています。
仕事が成長するに従い、多くのワイン評論家、インポーター、そしてただのワイン愛好家までもが、ワッサーマン・ホーンの「知識と経験」を得るために、ブイヤン村の美しい石造りの農家へとやってきました。彼女とは、驚くほどホスピタリティにあふれ、何年にもわたって、専門家や生産者、顧客のために試飲会やランチ、ディナーを開催してきました。彼女は自分の知識を惜しみなく話し、ブルゴーニュについて新しい考えを持つ人が本を書こうとすれば、造り手を紹介し、心のこもった食事で質問に答えました。若いソムリエには、古いヴィンテッジのワインを飲む機会を与え、ワイン造りのヒーローに話を聞く。そのような夜が繰り返されました。
最近のブルゴーニュの異常な高騰に、ベッキーは大切なことを述べています。
「近年、20あまりのドメーヌのワインへの熱狂的なまでの需要が高まっています。トロフィーをとるような最上品だけを追いかけるようになってしまったのです。オークションで50万本売れても、それはブルゴーニュとは関係ありません」と彼女は言い、どんな人にも合うブルゴーニュがあることを指摘します。
「ボーヌの42のプルミエ・クリュは手頃な価格で、ニュイ・サン・ジョルジュの41のプルミエ・クリュは無視されがちです。流行らないアペラシオンを恐れず、あまり知られていない村を探せば、若い造り手が面白いことをやっていることがあります。グラン・クリュだけがすべてではないのですから。ブルゴーニュは農耕民の社会です。収穫の直前のとても静かで美しい瞬間を除いて、常に誰かが畑にいます。地質はとても複雑です。ワインは歌のように作られますが、さまざまな表現があります。考慮すべきあらゆる要素があります。歴史、台木-それは正しいものだろうか? 天候や、いつ収穫するかという実存的なことも…。今の世代の素晴らしい人たちは、ブドウ栽培に没頭しています。ブルゴーニュは永遠に魅力的ですよ」
【ベッキーへのオマージュ】
ブルゴーニュにとって、ベッキーと家族が1968年にフランスに住むことを選んだことは非常に幸運でした。ベッキーは当時すでに注目に値するハープシコード奏者でした。また彼女はすぐに優れた料理人になりました。彼女は徐々に故郷となったブルゴーニュそのものとなり、文化を吸収し、今日、彼女は最も熱心で、完全な大使です。彼女をおいて、他にブルゴーニュについて話すことができる、無尽の才能をもった人は誰もいませんし、ベッキーほど誠実で深い知識を持ったワインが好きな人は誰もいません。
オヴェール・ド・ヴィレーヌ、ロマネ=コンティ共同経営者
デカンター・名誉の殿堂2010年 受章