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エッセイ:Vol.136 一杯の美味しいコーヒー A Nice Cup of Coffee

はじめに、「一杯の美味しい紅茶」を―コーヒーの前座として―

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・産地ではないのに、紅茶の本場といえば、まずイギリスとされる。産地ではないワインの本場も、かつてはイギリスだった、今は温暖化でワインの産地に成りあがったけれど。

・イギリスといえば、近代資本主義と植民地/帝国主義の根城であっただけでなく、スノッブと奇人(エキセントリクス)の名産地として国際的な定評がある。

・徹底的に誠実を貫こうとする振る舞いも奇人の流儀だとしたら、ジョージ・オーウェルの透徹した思考に支えられた生き方もまた、イギリス流の奇人に数えられてよい。

・その作家ジョージ・オーウェルこと、エリック・ブレアがこよなく愛したのが、イギリス人やイギリスの労働者の友であった紅茶。

・オーウェルが著した紅茶愛あふれるエッセイ「一杯の美味しい紅茶」は、得意とするエッセイ中でも白眉とうたわれる、まぎれもない傑作である。

・オーウェルにならって、ただし紅茶でなくコーヒーについて、美味しい淹れ方と楽しみ方を、コーヒーが定着している現代日本で論じるのも、悪くはなかろう。

・オーウェルに倣ってコーヒーを論じるとすると、これまたオーウェル讃歌のひとつのありかたであるかもしれない、『カタロニア讃歌』をもじった。

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オーウェルに倣うとは?
 ジョージ・オーウェルは、自身の長年にわたる紅茶飲用経験と、背景にある歴史的かつ国民的な紅茶文化をふまえて、文章・内容ともに洗練されたユニークな紅茶論に仕上げたのだから、たんなる個人的な紅茶の淹れ方=技術の開陳と捉えるのは、見当違いだろう。
 それゆえ、オーウェルの向こうを張って、コーヒー論を打ち立てようなどと意気込むのは、まあ、烏滸の沙汰(おこのさた;思慮の足りないこと、ふとどき、不敵なこと。小学館『精選版・日本国語大辞典』より抜粋)に属する、向う見ずな企図であって、そもそも実現不可である。としたら、東洋の孤島でかろうじてワインを商っている、一コーヒー愛好家はどうしたものだろうか? 形だけ真似て箇条書きでルールめいたものを並べるのか、それとも、技術論に終始するかのどちらかだろう。

オーウェル紅茶論の再検討
 それを決める前に、オーウェルの11カ条の前提となっている事柄と含意について、考えてみたい。なお、早世された英文学者で優秀な編集者かつ著作家でもあった、故・小野二郎さんの書かれたオーウェル紅茶論をめぐる名エッセイが参考になるはずだが、あいにくいま手元にないので、正確に引用することができない。

 さて、オーウェル自身論が【前提】としているのは、ミルクティー。好きなのは筒状をした大ぶりのモーニングカップに、濃く淹れた紅茶をなみなみと注ぐこと。【含意】としては、紅茶の味わいを悪くする敵は金属で、味方は陶磁器という設定。この点は、私のワイン論における見方と共通しており、オーウェルは筋金入りの排金属主義者である。
 それはさておき、いうまでもなくイギリスの紅茶文化は伝統的にミルクティーであり、オーウェル自身もとりわけセイロンの茶葉を偏愛した(探偵小説作家にして超ワイン愛好家ジュリアン・シモンズによる)。また、19世紀にはすでに家庭の必需品化していたミルクティーには、労働者の栄養補給役という意味合いもあったのだろう。

 ちなみにオーウェルは紅茶論11条の【後書き】で、労働者が紅茶を受け皿(ソーサー)で飲む習慣に触れているが、社会主義者(というより、徹底した個人主義者)オーウェルは友人のインテリたちの前で、わざと労働者気取りで受け皿に注いだ紅茶をすすってみせたことが、たしか『思い出のオーウェル』(コパード/クリック編、オーウェル会・訳、晶文社)に出ていた。

 なお、ミルクは厚い乳脂肪の層を吹き飛ばしてから紅茶に注ぐという記述(第9条)は、日本のようにクリーム成分が薄いところでは奇異にひびくが、たとえば清水牧場(松本近郊)産の牛乳に接すれば脂肪層の手ごわさに実感がわくだろう。
 なお、オーウェルは食事には無頓着だったようだし(同じくジュリアン・シモンズの説)、その嗅覚については鋭敏であったという説が多いにしても、逆に鈍感だったという断定もある。とすれば、その紅茶論は、グルメによる趣味的な美食エッセイどころか、濃く淹れたてアツアツのお茶をたっぷり飲むというオーウェル流からして、イギリス人の大衆的な日常感覚を率直に述べたという性格がつよい。

 …と、こうしてひとまずオーウェルの『紅茶』を論じ終えたことで気が楽になり、あらためてコーヒー論を組み立てることに着手しようという決心がついた次第である。

総論:コーヒー、紅茶とワイン
 コーヒーは、コーヒー豆(産地と洗浄・乾燥法)とその購入・輸送法、焙煎の方法(使う器具)と程度(浅煎り、深煎り)、挽き方(粒の大小と揃い方、グラインド器具―手動・電動の方式)、保管の方法(温度・湿度)と期間、豆のブレンド方など、素材をめぐるだけで山ほどの問題と、したがって選択肢がある。
 おなじくらい、淹れ方について、さまざまな手法と器具があるだけでなく、コーヒー単独かミルク・砂糖を加えるか―ミルクをどのように温め、泡立てて混ぜるかなど―と、水の性質(硬水度)と加熱法(蒸気、直火、加圧の程度)、そして最後に器(カップ)の選び方と温め方がある。

 それらを組み合わせて、各人の好みに応じて味に持っていくという趣味の問題と、歴史や文化、焙煎と淹れ方にかけられる時間と費用など、大小の制約条件が待ち受けている。
 要するに、コーヒーには紅茶とおなじ嗜好性飲料であるだけでなく、視点を変えればワインと同じくらい多様でかつ複雑な問題とその解決法があり、同時にワインに劣らず優雅で洗練された液体になりゆく豊かな可能性がある。

 したがって(というと言い訳めくが)、一杯のおいしいコーヒーをめぐって簡潔で明瞭、かつ誰にでも説得力のある条文やルールを組み立てることは、文豪オーウェルをもってしても容易ではなく、ましてわれら凡人にはいとも至難の業である。

人民の人民による人民のためのおいしい飲みかた―オーウェルとポウストゲイトの立場
 それでは、せわしくて煩い多い現代の世界で、権力からも巨富からも縁の遠い人民は、一杯の美味しいコーヒーを淹れて、楽しむことはできないのだろうか? これはなんとも愚問であって、どのような政治状況でも経済状況でも、だれもがそれなりの楽しみ方を探しだすことができ、しかもそれを実践しているはずである―ワインと同じように。

 かつて、複雑な世界で面倒きわまると目されていたワインについて、最少のルールで容易に楽しめる、と書いた先見の明がある人物がいた。“The Plain Man’s Guide to Wine”(1951年)を著した、レイモンド・ポウストゲイトである。記憶のよい読者は、麻井宇介さんが遺した『比較ワイン文化考』の冒頭に引用された、全項目が新書版一枚におさまる英文のページに、思い当たるに違いない。これぞまさしく、オーウェルの紅茶論11条(1946年)に相当する、画期的な提案であった。オーウェルとほぼ同時期に飲食について啓蒙書を著したオーウェルの同時代人ポウストゲイト氏が、同じく古典文学に造詣の深い学徒で、労働者の味方に立つイギリスの大物左翼陣ライターであったことは、偶然ではあるまい。

 そこで再びコーヒーの「ルール」を見直すとすれば、要は立場と視点を選ぶことにつきる。趣味に淫せず、〈おいしいコーヒーを気軽に手造りして楽しむこと〉を眼目とすればよいのだ。とすれば、細部にこだわらず、どうやら各人の嗜好を活かせる共通の方法があることに気づく。という次第で、次のステップに移ろう。

わが12条ルールの試み
1.[目標の選択] 〈自分で手造りしたおいしいコーヒー〉を飲むのか、それとも〈手間と時間をかけずに、即コーヒー(またはコーヒーめいたもの)の味わい〉を飲み楽しみたいのか。
 現代の文明とその進み具合では、戦場でもないかぎり、両者から(あるいは両者とも)選ぶことが可能である。が、前者は自分でコーヒーを淹れる優雅な道に通じ、後者は出来あいの「インスタント・コーヒー」か、なかば準備済みの「個包装」カプセルを用いるか、あるいは機械式サーバーから供給される、お膳立て済みのコーヒー抽出液を服用することになる。
 ここでは、前者を選び、ハンドドリップで淹れるという前提で、論を立てることにする。 

2.[コーヒー・タイプの選択] エスプレッソを飲むか、いわゆるドリップ式のストレート型コーヒーをそのまま、または好みの(ミルクや砂糖またはそれらに準じる)ものを加え、変形して飲むか、を選ぶ。エスプレッソは、家庭用の小型機であれ、飲食店で多人数に素早く供給できる大型の高圧蒸気式機械であれ、専用のマシーンが不可欠という意味で、製造用具あるいは機械への依存度が高い。
 本稿は手造り式コーヒーをめざすことを前提とするので、エスプレッソ式コーヒーの淹れ方は論じない。けれども、第3項以降の全体を通観すれば、エスプレッソ愛好家の参考になるかもしれない。

3.[豆を入手する] コーヒーは挽かれた粉を用いず、必ず豆から選ぶこと。粉末の(グラウンド)コーヒーは、挽かれたばかりのフレッシュ品であれ、缶詰製品であれ、風味の劣化が起こっていないとしても、劣化スピードは想像以上に早いとみるべきである。  
 コーヒー豆の産地は、各人の好み、すなわち、酸味と甘みの程度、ボディーの強さ、フレーバーの種類など、あなたの好みで選べばよい。
 焙煎は自分でしたければすればよい。市場で容易に入手可能な焙煎ずみの豆より、自分の方が上手に豆を焙煎できるという自信があるか、できるだけすべてのことを自力でおこなうことを原則にしているのならば、自家焙煎すればよい。

4.[豆を選ぶ基準]  長期熟成させた豆が好みでないとすれば、風味の劣化を避けるため、できるだけ焙煎後まもない豆を入手すること。同じ豆でも、焙煎から時間が経つと、豆自身のもつフレーバーが薄まるだけでなく、湯を注いだときの泡立ちも減って、中央部からすぐに盛り上がらず、かつ蒸らし効果も少ない。

5.[コーヒーミル] 手回し式の木製ミルは、粒が揃わず、回転と破砕による熱でコーヒー粉が劣化する恐れもあり、機能として不十分。電動機械式では、グラインダーかカッティングの方式がベターだが、機能が良いほど大型で高額化しがち。

 ちなみに、わがオフィスでは最近入手した(株)富士珈機製Fuji RoyalミルR-220 (「みるっこ」)を用いている。固定式と回転式の臼を組み合わせたグラインダー式だが、雑味が少なくてバランスのとれた優雅な味わいを比較的手軽に楽しめる。

6.[いつ、どれだけ豆を挽くか] コーヒーを淹れる寸前にコーヒー豆を粉に挽き、間をおかず抽出にとりかかること。時間経過と湿気とによる粉の風味劣化が著しいので、ほとんど秒単位での行動がのぞましい。挽く量は二人分だと20g相当とされているが、オフィスでは美味しければ誰かが飲むだろうから、倍の40gを一度に挽くことにしている。

7.[ドリップ用フィルターの選択] サーバーの上に乗せるドリップ用の抽出器(フィルター器)は、一穴式か三穴式か。素材は木・プラスティック・ネル・金属か、かたちは円錐形か扁平形か。プラスティック製は、使いやすく、洗浄と保管に手間がかからないが、徐々に汚れと傷がついていく。フィルターそのものはペーパーか、ネルか。ネル式は、手入れが面倒でかつ手間がかかり(中性洗剤不可で、冷蔵庫内での水中保存を要する)、習熟を要するが、上達すれば豆と粉、気温などの状態に応じて淹れ方を微妙に工夫調節できる。木製フィルターは案に相違して付加された味わいの特徴が見つけにくいし、金属は金属イオンによる雑味を生じるだろうから論外である。形は円錐型の一穴式がやや抽出時間がかかるが合理的で、好みの味わいを引き出しやすいはず。

8.[水の種類] 軟水が、(ダシと同じく)エキスの抽出を容易にするため可。紅茶と違って、硬水による利点はみられない。私は個人的にもオフィスでも、純粋器でえられる水に鉱物質(富士山の溶岩石)を加え、やや硬質化させて用いている。

9.[コーヒー・サーバーの保温] 豆から抽出されたドリップを受け止める陶磁器またはガラス製の容器は、時前に温めておく必要があるだけでなく、コーヒーの液温が急激に下がらない工夫を要する。私は陶器製サーバーを、湯を入れた大型のボール内に置いて保温するか、やわらかく加熱しつづける。

10.[ドリップ作業] コーヒー粉を盛って平らに均したペーパーフィルターに、専用の細口ドリップポットから湯を注ぐとき、挽きたての粉は吸収と膨張が早いので、湯は少量ずつ手早く、しかし静かに回しかけるように注ぐ。抽出時間は短いほど風味のしあがり良いが、湯を荒っぽく注ぎ足すのは禁物。粉が膨れて盛り上がるさまを見るのが、ドリップ式淹れ方の醍醐味である。挽き置いた「グラウンドコーヒー」粉では逆で、手間をかけてゆっくりと蒸そうとしても、高く盛り上げて膨らみを維持拡大するのはむずかしい。

11. [コーヒーポットの彼方へ] 出来上がったコーヒーを、ポットからどのようにして飲み手のカップに注ぎ分けるか。もちろん民主的、つまり等分に注ぐわけだが、球形をしたポットの内部でコーヒーが還流しているはずでも、味わいは最初と最後、上下で違う。とすれば、ポットを外側から揺することと、コーヒーカップを事前に温め、できるならば(雑味を抑えるために、ワイングラスとおなじく)蒸気洗浄しておくことが望ましい。そして、徐々にコーヒーが冷えながら適温に達した時の絶妙な味わいを記憶するしか、飲み手に託された仕事はない。

12.[カップ] コーヒーカップの材質、容量と形は、コーヒーの味わいに大きく影響する。大ざっぱな味で大量に飲むコーヒーならば、それこそモーニングカップのような大ぶりで厚手のマグカップでよい。けれどもデリケートなバランスと繊細な風味を湛えるコーヒーには、どちらかといえば薄手の生地、やや小ぶりのカップで、透明感があって飽きない美しさがあり、ねっとりとした肌合いで触感さわやかな器がふさわしい。むろん、重すぎるのは野暮で、支える指と手に余計な抵抗感や緊張感を与えてはいけない。かといって、存在の重みを感じさせない軽やかで絶妙なカーヴを描く、とびきり薄手のカリ製ワイングラスの趣きは、磁器では及びもつかない。気取った神経質さは、ワインでもコーヒーでも、かえって味わいの邪魔というもの。コーヒーの熱がじわじわと指から身体に伝わりながら、舌と鼻をとおした味わいが五感を震えさせると、ありたいところである。

付録1.復習:オーウェルの紅茶11条とは
 オーウェルのいう「完璧な一杯の紅茶」を淹れるための11条のルールとは、「私自身がつくった、いずれも黄金律と認められる11のレシピ―」である。
それでは、その内容を見るとしよう。

① 茶葉は、インドかセイロン産を用いること。中国産は安価でミルク不要という利点はあるが刺戟に乏しく、飲み終えたあと知恵や勇気が増し、人生が明るく見えるといった感興に欠ける。

② 紅茶は、一度に大量に淹れてはならない。そのため金属製の紅茶沸かし器(アーン)でなく、陶器か磁器製ティーポットを用いること。他の容器では、無味でないとすれば油や石灰臭がする。銀やブリタニア・メタル(錫・銅などの合金)など、およそ金属製のポットは味わいが悪いし、ホーロー製はさらに劣る。が、当今あまり目にしない白目(ピューター)製はそう悪くない。

③ ポットは事前に温めておくこと。ポットをお湯ですすぐ通常のやり方より、ハブ(暖炉内に設けられた棚)の上に置くほうが好ましい。

④ 紅茶は濃く淹れること。クォート(1.15l)入りポットに縁まで満たす場合、茶葉は山盛りのティースプーン6杯が適量。配給制の現状では毎日こういうわけにはいかないが、濃い紅茶1杯はシャバシャバの薄い紅茶20杯にまさる。本物の紅茶好きは濃い紅茶が好きなだけでなく、年々濃い茶を好むようになるのは、年金生活する老人には割増しの配給量があるという事実から推してわかる。

⑤ 茶葉はポットにじかに投じること。茶漉し(ストレーナー)やモスリン製バッグなどで、茶葉を封じこめるのは不可。他国で行われている、注ぎ口の外側下部に小さな金属製バスケットを取り付けて、迷い出そうな「悪さをする」茶葉をつかまえる方式のポットもある。けれども、躍り出た茶葉などいくら飲み込んだところで無害。だいいち、茶葉がポットの中で悠々と伸び拡がらないと、望ましい味が滲出しない。

⑥ ポットをヤカンのそばに置くべし。その逆は不可である。煮えたぎっている熱湯をいきなり茶葉に浴びせるためには、ヤカンは火にかけておかなければならない。フレッシュな水を煮立たせよとする説もあるが、私にはその差は感じられない。

⑦ お茶が出来上がったら掻き回すこと。ポットをしっかり揺すってから、茶葉を沈ませて落ち着かせるほうが、いっそう好ましい。

⑧ 紅茶をいただくには、浅くて平べったいカップではなく、円筒形の大ぶりなモーニングカップを用いること。モーニングカップにはたっぷり入って持ちも良いが、浅底で小ぶりのカップは飲もうとした時すでに冷めてしまっている。

⑨ ミルクの上にたまった乳脂肪(クリーム)の層を吹き飛ばしてから、紅茶にそそぐこと。クリームが多すぎると、どうしても[動物臭めいた]むかつく臭いが紅茶についてしまうから。

10 ありきたりのやり方だが、カップには紅茶を先に注ぐこと[ティー・ファースト]。紅茶が先か、ミルクが先か、という問題については、イギリスの家庭はたいてい二派に分かれる。ミルク・ファースト派がいくら強硬な意見を持ち出そうと、私の所説が揺るぐことはない。紅茶を先に注いでおいて、足したミルクを掻きまわしながら足す方式ならば、ミルクの量を最適に調整できるが、逆の方式だとついミルクを多く入れすぎかねない。

11 最後に、ロシア方式でないかぎり、紅茶に砂糖を加えるべからず。だが、この点にかんするかぎり、私が少数派であることは承知している。

オーウェル自身によるルールへのコメント
 が、じつはこの有名な11条の前後に付記されているコメントが重要だから、仮に訳しておく。

前書きより
 紅茶の淹れ方について、手近にある料理ブックでは、ほとんど記述がないか、いくつかの大事なポイントについて、かくあるべしという見識やルールがなくて、おおざっぱな指示しかみあたらない。
 けれども、イギリスだけでなくアイルランド、オーストラリア、ニュージランドでも同じく、紅茶は文明を支えるもののひとつであるだけでなく、紅茶の淹れ方に諸説が激論を戦わせているのだから、これはおかしい。
 そこで、私自身がおこなっている、完璧な一杯の紅茶の淹れ方をざっと振り返ってみれば、11にのぼる大切な項目がある。そのうち2項目はたいてい誰もが賛成するだろうが、少なくともうち4項目については賛否両論だろう。それでは、私にとっての「黄金律」をお目に掛けよう。

後書きより
 紅茶に砂糖を入れてせっかくの風味を台無しにするとしたら、それは本当の紅茶愛好家とは呼べないのではないか。コショウや塩を入れるのと同じたぐいの振る舞いというべきなのだ。紅茶はビールと同様で、ビターで(苦みや渋みが)あるべきなのだ。もし、甘口にもっていくなら、紅茶ではなくて、砂糖を味わうことになってしまう。ならばいっそのこと、白湯に砂糖を溶かせばよい。

 なかには紅茶そのものの味が嫌いなのに、からだを温め元気づけるために飲むのだから、渋み消しのために砂糖を入れる、という途方もない御仁には、こう言おう。砂糖抜きで二週間を過ごせば、二度と甘みづけに戻って、紅茶の味をぶち壊そうなどとはしまい、とね。
 紅茶の飲み方に関してまだまだ議論は尽きないだろうが、およそ紅茶を淹れるということが、いかにデリケートな事柄であるか、想像がつこうというもの。ティーポットまわりには怪しげな社会的なしきたりがあるけど、たとえば紅茶の受け皿に紅茶を注いで飲むのは、下品なのだろうか。
 また、紅茶を淹れたあと、茶葉の出し殻の利用法についても、いくらでも書くことはある。来客の有無などの運勢占い、ウサギの餌、やけどの治療、カーペットの掃除に用いるなどなど。
 だが、うるさいことを気にせず、ただポットを温め、沸騰したお湯を使うことに注意を払いさえすれば、あとは配給品の葉っぱ2オンスから、上手に20人分の濃くておいしいお茶をたっぷり淹れられるよう、せいぜい腕をみがくことです。

(以上で仮訳おわり)

付録2.ジョージ・オーウェル雑感―オーウェル讃歌―
 文学と政治、社会と生活万般にわたる、およそ人間的なことがらについて、鋭い問題意識と知的な誠実さをつらぬきとおした作家、ジョージ・オーウェル(1903-1950)の思想と行動、考え方と生き方は今なお幅ひろい共鳴を呼んでいる。イデオロギーと情報技術による監視と支配が、人々の自由を根本的に脅かすという現代の危機的状況を予言したかのような二大名著、『動物農場』と『1984年』には目をとおした方も多いだろう。
 オーウェルの深い心情、すぐれた知性の働きと多様な活動をうかがうには、彼の小説だけでなく(いや、小説よりむしろ)エッセイに触れるべきだろう。さいわい、そのエッセイを集大成した4巻本『オーウェル著作集』(のちに文庫版『オーウェル評論集』。ともに平凡社・刊)もあるが、現在は品切れのもよう。
 なかでも私が偏愛するのが、「一杯の美味しい紅茶」という珠玉のエッセイである。執筆は大戦の余燼くすぶる1946年で、紅茶好きのオーウェルも、食糧の割当制度に苦しめられたと察せられるが、身に付けた紅茶文化を背景にして、オーウェル流・美味しいコーヒーの淹れ方「原理」11条が、手短に、だが滔々と論じられるのが、日本の紅茶好きにとっても面白くてためになる。

おまけ1.偏愛する、20世紀イギリスの文人たち
 イギリス文学が得意とし、その特徴でもあるエッセイや評論という分野では、「行動する作家」ジョージ・オーウェルと、「知性の塊」オルダスハクスリーは、学生時代から敬愛していた作家だった。彼ら以外では、伝記作家リットン・ストレイチー(『ヴィクトリア朝名士伝』『エリザベスとエセックス』)とリットンの周辺にひしめくブルームズベリー・グループ。クリストファー・イシャウッド(『ベルリンよ、さらば』『山師』と、その二大親友のW・H・オーデンS・スペンダーもまた魅力的な存在であり、知的で妖しい輝きを発揮していた。
 枠を拡げて、世紀末から20世紀にまたがる著作家を含めれば、学匠ウォルター・ペーターオスカー・ワイルド、文画両道のマックス・ビアボームという流れこそ、イギリスにしか生れなかった才知の華であり結晶だと、私は勝手に思っている。
 それにとどまらず、おなじイギリスでも、宗教ではカトリック、政治では保守主義を志向する知識人にもまた、独特な魅力がそなわっている。G・K ・チェスタトンイヴリン・ウォー、それにグレアム・グリーンといったイギリス・カトリック系の作家たちであり、彼らの作品もまた比較的多く翻訳されている。
 どうやら私は、イギリス文人好みなだけでなく、イギリス人に似て伝記好きなので、彼ら10人の日記と書簡集、伝記や評伝にまで手を伸ばしてしまったくらいだ。

おまけ2.日本の著作家、その他
 ちなみに戦後日本でとびきり好きな著者たちといえば、花田清輝、石川淳、安部公房、吉田秀和、丸谷才一といった、独創的な思索をエネルギーと魅力あふれる文章に仕立てた達人たちであり、いまなお彼ら贔屓筋の作品をときに繙いては楽しんでいる。
 その流れとは少し違う筋にあるのが、丸山眞男萩原延壽と、河上徹太郎吉田健一の師弟グループである。萩原さん自身は丸山さんの直弟子ではないと本人が述べているが、その構想力ゆたかで勘とセンスの良いところは、氏がふかく敬愛していた丸山さんに劣らず、しかもしなやかで色気のある文章はあきらかに丸山さんを上まわっていた。
 ついでにと言っては失礼ながら、最後に好みの経済学者を付け加えると、イギリスではストレイチーの親友であったJ・M・ケインズ、アメリカではT・ヴェブレン、日本では森嶋通夫宇沢弘文である。彼らの天才的な頭脳が生み出した本格的な議論より、むしろそのエッセイや余技のような文章に、わからないなりに惹きつけられてきたのが正直なところだが、これまた余談。というより、本稿はすべて余談である。(了)

 
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