エッセイ:Vol.125 ワイン原論 / 補のまた補「視点1.現代に生きていることの特権について」
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定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
はじめに:
前回は、わたしが機械操作を誤って未修整の原稿をそのまま掲載してしまいました。いつも以上に読みにくい文章で、ご迷惑をお掛けしてごめんなさい。今号は前回の原稿を修正したうえで、若干の追記を追加しましたので、お目通しいただければ幸いです。
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好きな言葉は「コンテンポラリー」
わたしは、コンテンポラリー“contemporary ”という言葉 ― フランス語ではコンタンポラン“contemporain”― が、とても気に入っています。その単語の成り立ちは、後期ラテン語で、con(…と同じ、共にする)と、“tempus“(時間)が組み合わさり、「ある時や時代を共有する」ことを意味している、とされています。
“contemporary ”という英語には二つの意味があり、①同時代にかかわる意味(「同時代に起きた・存在した」「同時代の」)と、②「現代の・当代の」という意味になります。言葉に両義性があり、文脈によってどちらの意味かが論理的に読み取れるのが、面白い点です。
「誰にとって」という視点からすれば、特定の人物にとっての同時代(のヒト・モノ・コト)とは、②のように現代(人)にもなれば、①のように、その人の生きてきた時代の出来事にもかかわるわけです。
が、わたしがこの言葉に関心があるのは、当の形容詞が人間を修飾する場合です。わたしにとって同時代人とは、おなじ時代の空気を吸って生きた特別な共感関係にある、潜在的な仲間や同志のようにすら感じられるのです。いずれにしても「コンテンポラリー」には、「テンポラリー」“temporary”といった一時的で軽い意味合いとは異次元にある、親しみをおぼえさせて作用があるようです。
「現代に生きている特権」を分解すると
―特権
特権的という言葉には、なぜか懐かしさを覚えます。といっても、特権や特権階級に惹かれるからではありません。アルベール・カミュの翻訳に登場した「特権的」という言葉が、記憶に刻みつけられています。この言葉には、それまであまり馴染みがなかったけれども、なにか感覚的な鋭敏さが印象に残りつづけました。そういえば、フランス語の原書購読でも、「特権的」には何回かお目にかかった気がします。
これに反して、あまり好かない「特権」という言葉もまた、誰がそれを手にするか、それが誰に与えられ認められるか、という「誰」に深くかかわる言葉です。が、特権とか、エリートやエスタブリッシュメントという一連の言葉からは、いわば制度に寄りかかりながら社会から甘い汁を吸おうとする、寄生的な精神構造が浮かび上がるような気がします。
けれども、いま生きていること、現在という貴重な瞬間の特別な価値や意味合いを指すばあいの「特権」は、同時代的な存在のあり方や実存性に深く根ざしているように思えるのです。
―現代
日刊紙や週刊誌のタイトルだけでなく、あらゆるところに「現代」という言葉が氾濫しています。が、それらの多くの場合に「現代」は、スローガンや扇動の文脈に置かれたのでないとすれば、流行現象に対する月並みな形容詞のように、擦り切れて汚れた感じしかしません。
これに対して、かつてサルトルらが創刊した思想雑誌『レ・タン・モデルヌ』“Les Temps Modernes”(現代)という表題の響きからは、時代の風と重みすら感じとれたことが、懐かしく思い出されます。
たしかにこの誌名には、モデルヌ“modernes”が使われていて、コンタンポランではありませんが、さほど気にする必要はないでしょう。それよりも、現代がいつの時代や期間を指すか、それにどう立ち向かおうとするのかの方が問題です。
たとえば、わたしがコンテンポラリーを意識して「現代」というときには、「2017年現在の日本」という時間空間的に狭くて特殊な範囲が、意識に上るわけではありません(無意識のうちに、軍事と独裁を志向する権力に対する、強い違和感や警戒感がなせるわざでしょうか?)。
どちらかといえばわたしは、自分が生まれ過ごしてきた「20世紀後半以降、現在にいたる世界」という、やや長くて広い範囲を、最長の「現代」として意識しているようです。
参考までにいえば、時代区分として「近代」の後を襲う「現代」は、長くは1945年以降(第二次大戦後)から現在までの期間を指すことが多いようです。たまたま、わが個人史にかかわる私的時間の総計が、奇妙ながら歴史的な「現代」と符合しているのです。
現代のワイン愛好家が恵まれた特権的な状況は?
しかし、ここでは、そんなにシリアスなことがらを扱うわけではありません。現代という時代が、ワイン愛好家に特権のように与える、それまでになかった恩恵と可能性があるのではなかろうか、という問いがあるだけです。現代人はワイン史上に例がないほど素晴らしい恩恵に浴しているので、その気になりさえすれば、好みのワインやコンディションのよいワインを選んで楽しめる、という恵まれた環境にあるのでは、ないでしょうか。それなのに、特別な受益意識が乏しいのではないか、という思いがします。
そのような問題意識に立って、現代のワインが置かれた状況を、ワイン界の大状況と小状況にわけて考えてみる必要があるでしょう。
ポイント1.ワインを囲む大状況は、良し悪し半ばする
フィロキセラ禍と接ぎ木の根本的な影響
まず、19世紀後半以降にフィロキセラ禍が世界中に及ぼした取り返しのつかない大事件を、ワイン界は忘れられません。今なお世界のワイン界は、フィロキセラ禍から質量ともに立ち直っていない、と見ることすらできるのです。
天下無敵のように振舞い、変幻自在な姿をとるかのようなフィロキセラに対しては、唯一の有効な対策として、ヴィティス・ラブルスカ種のアメリカ産台木に、ヨーロッパ原産のヴィティス・ヴィニフェラ種を接ぎ木するしか、手の打ちようがなかったのです。接ぎ木は、オリジナルな品種やクローンの遺伝子をそのまま活用するための便法であって、交配と違ってことなる種の遺伝子は混じり合いません。
けれども、いわば他人の子宮に受胎済みの卵子を植え付けるような、不自然さが残るだけではありません。有無をいわせずに、ヴィティス・ラブルスカ品種との「同棲生活」を強制するにひとしい技法から、オリジナル品種にストレスが生じないわけがありません。フィロキセラの侵襲と接ぎ木の手法が、ワインとワイン界にもたらしたポジティヴな影響は、原品種の存命以外にほとんど見あたりません。逆にそのネガティヴな影響を列挙して検討しましょう。
フィロキセラが残した禍根の検討
① 接ぎ木に要する莫大な手間と費用のお陰で、経済的に成り立たない地域でのワイン生産が放棄された結果、特に安価なワインの産出量が激減し、その後もEUの一律なワイン品質重視策も手伝って、ブドウ栽培面積はいまだに恢復していないし、その見込みはありません。
② ために、(それ以外の理由もありますが)各地に伝わる独自のブドウ品種数が減少し、ときに絶滅を招きました。
③ 接ぎ木が、ワインの味わいを根本的に変えてしまった。現在、世界各地に例外的に残っている自根ブドウの味わいから、かつてのワインの伸びやかな姿を想像し、うかがい知ることはできるにしても、ワインの質が著しく変わってしまったことは、取り返しがつきません。
④ アメリカ産の台木が、万能ではないこと。不適切な品種の台木への接ぎ木をしてしまったことが、前世紀末に北米で発覚し、同地で多くの畑が全面的な植え替えを余儀なくされました。これはカリフォルニア大学の過失とされましたが、不適切な台木の種類は専門家の間では以前からわかっていたので、避けることができたはずでした。
⑤ 台木の種類として、多産性の品種が選ばれがちだったこと。たしかに、病虫害や不順な天候気象対策に有効な台木が選ばれたにしても、経済第一志向の栽培家はブドウ果の品質より、多産性を尊重しがちだったため、ワインの品質低下をもたらしました。
ざっと、こういう有様ですが、これ以上、亡き子の齢を数えるようなことは無駄でしょう。そこでまずは、フィロキセラ禍以外にワイン界を揺るがせたさまざまな要因を、思いつくままに揚げてみます。
ポイント2 《ワイン界を変えた要因と事象》一覧表
① 化学肥料、除草剤と殺菌剤の使用と蔓延(WWⅡ以後)
② 大学等の研究機関における、ワインの科学と技術の発展―地学・農業科学を踏まえた栽培と醸造の技術開発、衛生管理法、遺伝子分析による品種の系統確定など
③ 新大陸(アメリカ大陸、オーストラリア・ニュージーランド、アフリカ大陸)でのワイン生産の発展
④ 醗酵・醸造に適した容器の普及と開発―ステンレス・スティール製タンク(時に温度コントロール装置付き)や新小樽(バリック)の普及、エッグ型コンクリート容器の導入
⑤ アンフォラ、スペイン式ティナハ、クヴェヴリなど、歴史的容器の見直しと使用
⑥ ワイン、とりわけシャンパーニュ市場の発展と、RMの革新と拡大・普及
⑦ 有機農法の普及と、バイオダイナミック農法の進展―natural wine運動(フランス→イタリアへ)と、その世界的普及(産地以外の消費地;日本、北米、ロンドン、北欧)
⑧ 銘醸地における巨匠の隆盛とその世代交代と、新しい産地の参入と発展
⑨ TCA汚染によるコルク栓問題の世界的拡大と、新たなストッパーの開発普及(ステルヴィン、スクリューキャップ、合成栓、「TCA除去」コルク)
⑩ ワインコンサルタントの活躍とその功罪
⑪ ワイン資格―トップはMWとマスターソムリエ―の認知拡大と活躍の場、広がる
⑫ 専門ワインライターの増加と質的向上、ワインブックの普及、ワイン地理/事典の登場
⑬ ワイン情報の普及―インターネットの普及と、他方でワインブックの伸び悩み
⑭ ワインの評価方式の拡大(パーカー式点数法の普及と行きづまり)
⑮ 各国での大型ワイン展示会開催―イタリア(VinItaly、ヴェローナ、)フランス(Vinexpo、ボルドー)、イギリス(自然派展示会:RAW、The Real Wine Fair、ロンドン)、ドイツ(ProWein、デュッセルドルフ)、スペイン(FENAVIN、マドリッド )、オーストリア(VieVinum、ヴィーン)
⑯ ワイン・アウォードや品評会の横溢
⑰ ワイン人口の拡大(若年層愛好家の減少)、従来の非ワイン生産地における市場拡大
⑱ リーファー・コンテナ/トラック、ワインの品質向上に一役(ただし部分的な普及)
⑲ ワイングラスの改良(機能的で美しいワイングラスの開発、鉛ガラスからの脱却)
⑳ 各種の機能的なワイン用品の開発登場(グラス以外;酸化防止型器具、オープナー等)
21 ワインテイスティング技法への関心増大(ワインブック、ワイン教室/スクールの急増)
22 ワインバーの発展・増加(チェーン系と独立系)
23 ワイン流通の発展と、通販(インターネット・ショップ)大幅拡大
24 …(以下、略)
以上に加えて、各地域に特有な条件や変化がありますが、ここでは触れることはしません。
(前回の)結語:
このように、大小さまざまな諸々の要因が、単独または組み合わさりながら、怒涛のように起きた結果、世界のワイン界は大胆な質的変容を遂げつつあります。そのような現代ワイン界の変容は、ワイン愛好家にとってどのような意味を持つのでしょうか。歴史上稀に見るような、恵まれた「特権的状況」のなかにある現代の賢明なるワイン愛好家は、どのように行動し、振る舞ったらいいかを、引き続き次号でさらに検討したいと思います。
2.(新稿)
前回は、現代ワインを取りまく環境を歴史的に概観して、その形成要因をおおまかに列挙したところで終わりました。
本来の予定では、それらの諸要因が組み合わさった影響を論じて、それらの功罪を問うつもりでした。一歩進めれば、評判の悪いマーケティング用語でいうところの、促進/阻害要因の分析です。ここでは、ワインの受容実態を整理して把握したうえで(現状認識、パターン分析)、たとえば「望ましいワインの普及促進」という目標をおいて、それに対する、プラスの促進要因とマイナスの阻害要因を検討し、目標の実現化へのステップを考察する、というのがかつての標準的なマーケティング思考の手順でした。
例によって、いつもの「つもり話し」なのですが、ここは勝手ながらその作業をみなさまにおまかせして、現代ワイン、あるいはその功罪を論じていただきたいと思います。言ってみれば演習問題のようなものですが、正解があるわけではありません。もちろん各国におけるワインの普及や浸透の状態と受け入れ方が異なりますので、一概に論じるわけにはいかないでしょう。が、現代ワインをプラス一辺倒に評価するのではなく、技術志向のマイナス面を素直に見つめれば、あらたな現代ワインの可能性が浮かび上がるはずですし、それがいかに実現されていないかも、おのずと浮かび上がることでしょう。
各論では当然、日本市場の個性やいわゆる特殊性も、明らかにされなくてはなりません。日本のワイン愛好家が当たり前と思っていることが、世界の共通現象や常識であるとはかぎりません。ワインに関するかぎり、世界的に見て日本が恵まれた状況にあることは確かです。けれども、常用している言葉(日本語と定番ワイン用語)の問題と、コミュニケーション能力や認識方法の「癖」があることは否定できません。(故意に)歪められた不正確な情報が流通しがちな結果、ワインの世界でも日本は、えてして独善的あるいは守旧的になりやすいのです。日本でのワイン常識は、よくもわるくも、世界と隔たっている可能性が、少なくとも遠からぬ過去にあったことはたしかです。
ナチュラルワインの受け止め方がその典型でしょうか。日本はワインの流通・保管条件が比較的整備されており、関係者の目に見えない努力も功を奏して、不安定で「フラジャイル」な劣化しやすいナチュラルワインでも、管見によればたとえば北米よりは相対的に良好なコンディションで市場に流通しているようです。反面、欧米では一般に受け入れがたいようなタイプや酒質、コンディションのワインが、堂々とナチュラルワインあるいはワインとして通用し、あるいは評価されがちなことが、そのひとつでしょうか。「作りそこなったワインは、ワインではない」という当たり前で健全な常識が、この国にはなかなか育ちにくいようです。
言葉を変えて問えば、日本のワイン界とワイン愛好家は、世界的に見て恵まれた条件と環境を、十分に活かしているのでしょうか。むろんわたしを含めて、各自が冷静に自問すべき機が熟しているようです。
しかし、この国のワインの歪みを論じるのが、ここでの目的ではありません。まして、大切な認識方法と思考能力を高める工夫については、あらためて論じたいものです。
今日の認識と提言にむけて
20世紀後半以降を仮に現代と呼ぶとすれば、現代はワインにとって歴史的に見ても激動と変化の時代であったことは間違いありません。長い目で公平にみれば、とりわけ19世紀以降このかた、質と量で世界のワイン文化を牽引してきたヨーロッパは、単独で首座を維持することが難しくなってきました。ワインの生産と消費の両面において、アメリカ大陸とオセアニア(オーストラリア、ニュージーランド)だけでなく、(一部の)アフリカ大陸とアジア諸国、つまりはほとんど全世界にワイン産業/文化がひろがり、いわばワインのグローバル化現象が起こり、あるいはその勢いを増しつつあります。
かつてから一部の先進地域では、ワインは「液体資産」(liquid asset)と化して、金融商品なみに投資の対象になり、専門の投資顧問会社すら生まれています。ステイタスのあるワイン・オークションも定期的に世界各地で催され、特定銘柄の高騰と落札が報じられる一方で、大掛かりなフェイクワインやワイン/ブドウの盗難事件の報道が後を絶ちません。資産価値が高まるほど、ワインは一般(コモディティ)商品化するから、資本主義社会に通有の弊害が、かつては貴族/ブルジョワ階級がその喜びを独占していた狭いワイン文化と市場に浸透し、ワインの世界の「体質」を変えつつある、といってもいいでしょう。
ワインの大衆化やグローバル化現象と並行して、金融商品化も進行した結果、かつてはやや無理すれば手に入ったボルドーやブルゴーニュの特定(格付け)ワインは、いまや熱心な愛好家にとっても高嶺の花と化してしまいました。
しかし、ワイン界が変質化を伴いながらグローバル化し、ヨーロッパの銘醸シャトーやドメーヌがグローバル企業やアジア系の資産家の所有に帰するなどといった、華やかなドラマが進行する一方で、世界中に難民があふれ出て食料不足と飢饉に見舞われ、致命的な医療不足と生命危機の状況に置かれていることに、ワイン界の人々は目をつぶっていていいのでしょうか。
ワインをめぐる大状況のなかで、先には触れませんでしたが、グローバルな温暖化現象は世界的な規模で、でブドウ栽培とワイン醸造にすでに未曾有の、しかも近年は連続的な危機をもたらしています。そのうえ、さらなる温暖化の進行が見込まれ、生産者(と保険会社)は、安堵するどころか、将来に怯えてすらいるといっても過言ではないでしょう。
かたや、現代のワイン文化が達成した成果を、よりどりみどりで自由に楽しむことができる特権的な階層や恵まれた地域がある一方で、ワイン生産地内では温暖化の波の高まりに対抗することが難しい(良心的な)生産者が少なからず存在するだけでなく、政治とイデオロギーの狭間で自分と家族の生命の維持すら困難な難民が、世界各地に驚くほど多数生まれているという状況があります。しかも、海外からの労働者ですら正規に受け入れずに入国を鎖しているこの国では、国際的な難民を組織的に受け入れていないという、特異な政治状況にあります。とすれば、世界で求められている人権(擁護)と差別(撤廃)への昂ぶりを自覚し、みずからを難民の立場に置き換えるという意識的な操作をしてみては、いかがでしょうか。(ワインではなくて)水と食糧を求める難民の切実な叫びは、他人ごととは感じられなくなるはずです。
フランスでは、大変な気象災害に遭ったナチュラルワイン生産者に支援の手を差し伸べる、「ヴァンダンジュ・ソリデール」運動が地道にはじめられました。志は高いが、通常の数倍もの手間がかかるナチュラルワインを作る人にとって、天候の危害は致命的になりかねず、げんに廃業を決めてしまった生産者もいると聞き及びます。ミシェル・トルメーさんもその運動に積極的に加わり、2年連続でユーモラスなポスターを揮毫していることはご存知のことでしょう。ナチュラルワイン好きな人々は、特定の月間にかぎりますが、支援の趣旨に賛同するビストロなどでワインを楽しみながら、一本につき1ユーロを拠出できるし、店側も自発的に同額を寄付するというわかりやすい仕組みです。日本でこの仕組みをそのままおこなうには無理があるかもしれませんが、同じような試みをしては、いかがでしょうか。
繰り返せば、ワインどころか水や食糧が手に入らず、路上でテント暮らしに追われている難民の方々ーー一説によると世界の難民総数は、日本の人口の約半数に達するとかーーを忘れて、気楽に美味しいワインを飲み楽しむのは、気がひけるだけでなく、なんともやりきれない気分に襲われてしまいます。好きなワインを飲める自由と境遇にあるわたしたちは、ともにワインを飲み味わうことなどとうていできない難民の方々にむけて、何かできる仕組みをつくり、共感を共同行動に移す作業をしなくてはならないと思い、反省する今日この頃です。