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エッセイ:Vol.122 間奏曲——夏の夜の夢ものがたり

「読まざる悪徳」、未読書

 まだ読んでいない書物に日頃取りかこまれていると、借金が嵩んでニッチもサッチもゆかず、このまま抜け出せないかのような焦燥の感に駆られてしまう。むろんのこと、枕元にもうず高く本が積まれていて、こちらは毎夜ひたすら睡眠導入剤の役をはたしている。
 だからして、あるいはにもかかわらず、「読まざる悪徳」こと、未読書がもたらす悪夢にうなされてしまうのも無理はない。身体を横たえている間、知らず識らずのうちに熱射病になったような気配である。これまた、身の不徳がもたらしたものだから、恨むことはできない。
 どうやら夢のなかでは、すでにこの世を離れて久しい、世界中でとびきりの頭脳に恵まれた著者たちが群れをなして徘徊し、無言のうちに積読者を叱責するふぜいなのだ。ちなみに「ツンドク」は、いまや立派な国際語になっているらしい。

 

未読の大家たち;生物学の世界から

 ここで酔狂ながら、夢の中に現れ出る、未読を嗤う著者たちの系譜をたどって見るとしようか。たとえば、生物学のジャンルから迷いだしたとおぼしい、まことに独創的な研究者や学者が、わが夢の中に見当たるだろうか。
 まず、現代生気論の鬼才ハンス・ドリーシュと、エネルギー一元論のオストヴァルトがいる。ドリーシュについては、米本昌平さんの議論(なかでも著書『バイオエピステモロジー』)と、米本訳のドリーシュ『生気論の歴史と理論』には、ひととおり目をとおしたとはいえ、戦前に刊行されたドリーシュの訳書『形而上学』と『人間と世界像』は未入手であるし、なぜかオストヴァルトは薄い岩波文庫版ですら読んでいない。
 米本さんの恩師に当たる白上謙一さんは、それと知らずに若きときに『現代の青春におくる挑発的読書論』を愛読していたが、著書「生物学の方法」と訳書『生命の本質』は棚に眠っている。

 

読まざるべからず、ユクスキュル

 独創的な《環世界論》で認識のフレーム問題に開眼させてくれたヤーコプ・フォン・ユクスキュルもまた、どうやらこちらを睨んでいるらしい。名著『生物から見た世界』は面白く読んだが、『動物の環境と内的世界』は訳書の厚さに気圧されて、手も付けていないからだ。物理学出身の鬼才で、現代の分子生物学を導いたとされ、天才にして蕩児とうたわれる、シュレーディンガーの『生命とは何か』(訳書と原書)は、すこぶる思考を刺戟してくれたが、そのほかの訳書についてはは数冊しか読んでいないし、シュレーディンガーの伝記にいたっては買ってすらいない。

 

グールドvsドーキンス

 古生物学者のスティーヴン・グールドは、(同姓のグレン・グールドとおなじく)わが偏愛する思索家だから、ほぼすべての訳書を集めたし、吉川浩満さんの『理不尽な進化』(巧妙な反語で書かれた、じつはグールド擁護論)には舌をまいた。グールドの天敵とされるドーキンスについては、大冊の『利己的な遺伝子』は、むろん未読である。対するに、エッセイの名手グールドについては、ひいき筋なのにオリジナルは数巻しか読了しておらず、死後に刊行されたぶあついThe Structure of Evolutionary Theoryにも目をとおしていない。
 ダーウィ二ストのヘッケルについては、その図鑑は楽しくページをめくったものの、佐藤恵子さんの手になる研究書『ヘッケルの進化の夢―一元論、エコロジー、系統樹』は、むろん未読というしまつだ。

 

わが未制覇の巨人、ダーウィン

  そこで、御本尊ともいうべきダーウィンにいたっては、訳書まくり、最良と思われる訳書(渡辺政隆さん、荒俣宏さんや長谷川真理子さんらの訳業)を入手したつもり。にしても、最晩年の『ミミズの研究』以外は、著名な『自伝』ですら熟読はしていない。言い訳をするのはおかしいが、『ミミズ』は、ブドウ樹に直接かかわるし、発見のプロセスが興味深いのでつい読まされてしまったのである。

 現代の俊秀な分子生物学者や遺伝子学者の研究書についても、事情はかわらない。たとえばノーベル賞に耀く数々の学者—フランソワ・ジャコブやクリスチャン・ド・デューブは、敬意を払って少なからざる訳書をそろえた(だけ)。彼ら以外では、たとえばジャック・モノ―はひろい読みしたにすぎないし、DNA構造の共同解明者フランシス・クリックのエッセイ(生命種の宇宙飛来を説く『生命 この宇宙なるもの』は痛快)にしても、いずれも主著を読解したわけではない。
 研究者にして啓蒙書執筆の達人であるニック・レーンは、これまたわが敬愛する著者であり、『ミトコンドリアが進化を決めた』には魅了された。が、最新の『生命、エネルギー、進化』にいたる四冊をかいつまんで読んだというのが、正直なところ。ミトコンドリアといえば、その細胞内共生説を唱えた威勢のいいリンマーギュリス女史。惜しくも亡くなったが、『生命とはなにか』は読み終えたにしろ、息子との共著『性とはなにか』などは、敬意を払うだけにとどまっている。

 

日本人研究者

 日本人では、白上謙一さんと米本昌平さんだけに目をつけたわけではない。清水博さんの『生命を捉えなおす 増補版』(中公新書)は今なお刺激的である。世界に誇る分子進化の中立説を提唱した木村資生さんについては、大著『分子進化の中立説』は、やはり手付かずである。
 また、物理学とその先端である量子力学についても、ファインマンさんの教科書や入門書『光と物質のふしぎな理論』をまさぐりはしたものの、たとえば『ジム・アル=カリーリらの『量子力学で生命の謎を解く』は読書予定表で優先順位が高いだけで、量子物理学が生物をどのように見ているかを、ただ遠目で見物しているしまつだ。

 という具合だから、悪夢にうなされないわけがないのである。ただ幸い、村上陽一郎、養老孟司、福岡伸一、米本昌平、松岡正剛さんたちの書かれたエッセイ、ガイダンスや書評が示唆に富んでいるので、この領域に迷い込んでしまったが、それを後悔はしておらず、わかる所だけでも楽しんでいる。

 たとえば舌鋒鋭い養老さんは、毎日新聞の『バイオエピステモロジー』評(2015.10.04)で、皮肉をこめてこう射抜く。「大学入学まで、長期にわたる教育課程の中で、学生はいかにすれば考えないで済むか、それを上手に学んでくるのであろう。」 まあ、つねに学び足りないことを自覚している私としては、恐々としながら考える真似事をつづけざるをえないわけだ。

 

生命と生物から、精神と思考の世界へ

  生命について知ろうと思ったら、生物学だけを攻めるのはお門違いかもしれない。少なくとも現代の分子生物学的な手法には、飽き足らない思いをするだろう。いくら微分的に分けても分けたらなくて、なかなか「生命とはなにか」には辿り着けないからだ。たぶん、この学問には方法的な無理があるのだろう。
  そこで、現代の科学的な思考方法の限界について早くから見極めて、新しい精神科学のあり方を提唱していた人物たちに、注目することになる。たとえば、アーサー・ケストラー(ケプラー評伝はお勧め。人物に興味があれば『ケストラー自伝』)である。思考方法を革新した人物として、グレゴリー・ベイトソンの名を逸するわけにはいかない。最晩年の『改訂版 精神と自然』は読みやすくて刺激的だが、『精神の生態学』となると、多岐にわたる著者の関心についていくのは難しかった。

 

日中の古典に帰る

 たとえ現代の学問に敬意を払うだけにしても、時代を異にする古典にままた接したくなる。湯川秀樹さんが、荘子に早くから注目し、自家薬籠中の物にしていたことは、ご存知のとおりだが、博士が三浦梅園にまで通じていたことは、不明にも最近まで知らなかった。かくして、ときに荘子の世界と卓抜な見方を仰ぎ見たくなり、フランス人学者ジャン・フランソワ・ビルテールのユニークな荘子論にほれ込んだこともあるが、肝心の本文(講談社・学術文庫に、詳細正確な訳文と訳注あり)は、例によってたまにのぞく程度でしかない。

 中国思想の焦点は《気》にあるとおぼしいから、その本源を垣間見るために『朱子語類』を開いたり、日本では比類なく独創的で深遠な三浦梅園の思索の一端に触れるために、参考書として科学史家・山田慶児さんの、これまた難解そうなニ書を開かないでもない。『朱子の自然学』と、『黒い言葉の空間 三浦梅園の自然哲学』であるが、こいつは手強い。
 ついでに、イギリスのジョゼフ・ニーダムが切りひらいた、とてつもなく膨大な科学史書の数語を拾い読みする、という具合であるが、当方いくらなんでもニーダムのシリーズをすべて揃えているわけではない。まあ、これらの深みに近づこうとあこがれるのは、古来より伝わる名泉にひたり、現代の汚れにまみれた頭脳という思考センターに、清新の気を吹き込もうという、虫の良い魂胆でしかない。

 

なんのために読むのか

 さて、なにを考えるのか? なにを考えるために読むのか? 「ブドウとワインに生命とエネルギーがあるのか」、「ワインにエネルギーがあるとしたら、それはどのように味わいに現れるのか」という、難問(あるいは愚問)について考えるためである。はたして、解はあるのだろうか。むろん、あらゆる問いに正解があるとは限らない。むしろ、その逆だろうが、問わずして退散するわけにはいかないのが人情というもの。

 さしあたり、当然ながら、答えは得られず、ただ夢の中で分かったような気になるだけ。まあ、悪夢にうなされて全身汗みずくになるよりはマシだろう。夢で蝶ならぬ荘子に会えると想うだけでも、贅沢ではなかろうか。(了)


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