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エッセイ:Vol.121 ワイン原論―結論の先取り― ワインと人間あるいは、あなたはワインから愛されていますか?

はじめに―環境のちから

 ワインの味わいは、置かれた物理的環境によって影響されます。その環境をワインからの距離によって大別すると、ワインにごく近接するもの(ミクロ環境:ボトルやグラスなど)と、ワインボトル周辺を取りまく構造(マクロ環境:机や椅子、棚、照明、床と天井、室内や店の構造と材質など)になります。

 それら遠近のワイン環境を整え、ワインにとって災いとなるものを遠ざけ、〈ワインと人間にとって共通する好ましい環境を設定すること〉が、わたしの目的であり、論理的な帰結になります。

 

敵は身近にあり

 なかでもミクロ環境は、ガラスの壁を隔てるだけで、ほとんどワインに接しているといっても過言ではありません。ボトルやグラスの質・厚み・形状が、味わいに圧倒的な影響を及ぼすことは、すでにご存じのとおりです。が、グラス以外にもワインに近い存在があることを忘れてはなりません。それは、ワインボトルに貼られたエチケット(表ラヴェル)と裏ラヴェル、それに「インポーター表示」シールです。

 通常シール類は薄くてさほど大きくはありませんが、シールの素材と形状、シール上に印刷されたデザインが、ワインの味わいに作用する可能性は否定できません。エチケットの材質はほぼ紙に限られていますが、紙質によっては影響があるはずです。
 なおシャンパーニュやスパークリングワインのばあい、大型カプセル(栓の上部と周囲)と、それに一体化したアビアージュ(ビンの肩と上部を取りかこむ装飾)には金属が用いられ、ワインに近接する金属がその味わいに悪さをすることはほぼ間違いありません。カプセルは剥し取れますが、それに続くおおきな残部(アビアージュ)は、たとえ紙質であってもボトルを取りまいている以上、その質と形状には少なからぬ影響があります。

 

かたちは生きている―デザインは物語る

 さて、残る問題は、シール類に印刷されたデザインの形状と色彩です。「神は細部に宿る」(ワールブルクの言葉とされる)ではありませんが、些細なように見える紙上の細部(デザイン)が、悪さをする可能性があるのです。すなわち、〈かたち〉と〈いろ〉ですが、これまで数回にわたって〈かたち〉の影響を論じてきました。

 紙上のデザイン―文字、図や形状―が、ボトル内のワインや近接するグラス内のワインに及ぼす影響は、見過ごされていますが重要なので、繰り返し論じてきたのです。

もとろん〈かたち〉は、抽象的に存在するのではなくて、ある素材の上、または素材で構成されているから、素材と形状の関係をふまえて、ワインへの影響を見なくてはなりません。

そこで、いったん素材という媒体の質の問題を措くとすれば、どのようなかたち―図や形状―が、ワインという感受性を備えているモノに対して、どういう影響を与えるのでしょうか。たとえば、角ばった形状よりも丸みを帯びた形、長方形よりは円や楕円が好ましいことは、容易に察せられます。指紋のような複雑な流紋はマイナス効果が大きいのに対して、渦巻き型の流れや巻貝などの成長曲線が好ましい影響を与えるということができます。

(付)バー&QRコードを無害化しよう

 最後に問題とすべきは、裏ラヴェルに付されたバーコードとQRコードという図柄です。両者は単なる流通業界むけの便利記号ではありません。光線に正確鋭敏に反応するよう設定されているだけに、日光や電燈照明に当たっただけで強力な電磁波を発生し、ワインの味わいを極端に歪めてしまいます。ですから良心的で勘が鋭いワイン生産者は、これらの恐るべきコードを記すのを躊躇していますが、国によってはこれらのコード添付を義務化しているだけに、なんとも厄介。裏ラヴェルに両コードが図示されている間、可愛そうにワインはそれらに脅かされ、いじけているのです

 が、ワインの世界に解けない問題はそう多くありません。これらの図を剥し取るか、塗りつぶせばよいのです。もしくはワインを注ぐとき、これらを指で覆って光に当たらないようにすれば、コードを無害化できるので、すぐにお試しください。

 

〈いろ〉のはたらきを垣間見る

 さて、〈かたち〉の作用の次は〈いろ〉のはたらきを論じる番ですが、かたちと同じような方法でもって論考を重ねれば、問題を解くことができるはずであって、議論の手順はかたちのばあいとさほど変わりません。なによりもまず、光と電磁波についての(ニュートン力学とは別次元の)ややこしい物理学が、いろとかたちの双方に関係があること、言うまでもありません。

 より深く色彩を論じるには、近代の色彩理論や色彩心理学、さらには興味深いゴンブリッチ(『美術の物語』その他)の方法に学ぶだけでなく、(ニュートン力学に異論を唱えた)ゲーテの『色彩論』や、シュタイナーの著作までをも視野に入れて、色の可能性を考える必要があります。そのうえで、特定の色にふみこんで(±)の作用があるかどうかを検討するには、実験という手間こそかかりますが、さほど難しくはないはずです。

 これまでの知見の一部を披露するとすれば、白は黒にまさるという興味深い事実があります。また、「草木の生命」(志村ふくみ)を宿す植物性の染料は、古来の美を伝えるだけでなく、さまざまな可能性に富んでいるようです。

 

〈いろ〉を横目に、結論へ一足飛び

 が、今回は準備する時間も乏しいので、このステップを省略ないし後回しにして、少し息抜きをすることをお許し願いたいのです。というわけで、ここでは結論を先取りして、見取り図を描いてみたいと思います。

 わたしの視点は、人間とワインの関係を、ワインの視点から見ればどうなるか、です。ワインにとって人間とはどのような存在なのか、という問題意識です。この発想は、フェティシズムというモノへの拘泥や「惑溺」(福沢諭吉)から距離を置くことで、ワインを至高の存在と祭り上げるがごとき奇妙なワイン中心主義を逆転させようというものです。ワイン好きの方々は、ワインを愛するあまり、とかくワインというモノにこだわりすぎて、ものが見えにくくなる気配があります。『オセロ』をもじっていえば、ワインを愛することを知らずに、愛しすぎるという偏重を正さなければなりません。

 とかくブドウの栽培法やワインの製法という商品学が横行しがちな現代(マット・クレイマーによる指摘)、ワインの地理学や地質学、あるいはブドウ品種に通じて博物学じみた知識を誇る偏りや、味覚や嗅覚まわりのワイン用語を覚え込んで、これをテイスティングだと誤解している気味が、なくもありません。ワインの風味を味覚用語に置き換えたところで、ワインの分析や位置づけ、評価の代わりになるはずがありません。

 

「きみをなにに喩えようか」(シェイクスピア)

 理解するための一つの方法が、類比という手法です。およそワインには、その飲み手をして何かに喩えたくさせる作用があるようです。イメージ喚起力に富むシェイクスピアの『ソネット』(吉田健一訳)にならって、各人が「ワインよ、きみをなにに喩えようか」と洒落のめすのも、酒席の一興かもしれません。

 

「人間はワインと同じ」(キッシンジャー)

 が、わたしが最近であった出色の比喩を、ここに紹介します。朝日新聞・夕刊(2017.06.22)のインタビュー「一語一会」欄の記事で、題して「人間はワインと同じ」。語るは尊敬すべき大読書人の出口治明さんです。(掲載時は「ライフネット生命会長」。06.25に退任)

タイトルに思わず唸ったしだいで、記事の冒頭からしてとびきり快調。(以下、引用です)

  「思わずひざを打った。コミュニケーションの神髄も、そこにあると気づくのは、あとになってからだが。

『人間はワインと同じ』

少し早口な言葉の主はキッシンジャー元米国務長官。(…)来日した氏と会食した1987年のこと。

   曰く、誰しも生まれ故郷をいいところだと思い、たとえ、どこの馬の骨かわからなくても先祖は立派であってほしいと願っている。だから、『地理と歴史は、勉強しなければいけない』。そして、自分の脚で歩いてみて、初めて『その土地に住む人々の気持ちを理解できる』と。」(以下・略)

 それにしても、なぜ、わたしは思わず唸ったのか? 普通ならば、「ワインは人間と同じ」というところ。それを逆転させて、人間を主語に仕立ててあったからです。キッシンジャー氏は、それほどまでにワインを熟知し、ワインを愛し、身近に感じていたからこそ、人間をワインに喩えたのでしょう。

 〈ワインをよりよく理解するためには、ワインの風土=地理と歴史を知らなければならない〉ということを当然の前提として、〈人間もまた実際に地理と歴史、空間と時間のなかにおいて、ワインのようにその気持ちまで実感として理解しなくてはいけない〉という考え方です。ワインにとっては、本望というしかないでしょう。

 ちなみにインターネットを漁ると、高名な元米国務長官氏はさるパーティで酔いつぶれ、高価そうな紫色っぽい上着姿で、なんと下半身を後ろ向きに露出させたまま、トイレでうつ伏せになっている姿を見ることができます。キ氏、一代の不覚でしょうが、これがワインのせいでないことを切に願うのみです。

 

結語、その1

 ワインと人間をともに、その風土と歴史という状況のなかで理解し、両者の間柄についても愛情ふかく接することができること―これこそが、ワインならぬワイン愛好家に求められる資質なのでしょう。これまで縷々述べてきたように、ワインはモノではなくて人間と同じ「生きもの」、あるいは「生きものに準じる存在」として扱われるべきなのです。

フランソワ・ヴィヨンの詩(『遺言詩集』、ここでは鈴木信太郎・訳)にあるように、ワインは「呼ばえば応える、木霊(こだま)エコー」のように、ワインと人間の間柄はたがいに響きあう共鳴関係にあるし、そうありたいものです。

 

第二の視点―ヒトとモノの関係から

 ところで、岩井克人さん(国際基督教大学客員教授、東京大学名誉教授)は、ものごとを根本から考えなおして透徹した経済理論を編みだす、現代日本が誇るオリジナルな経済学者です。氏の考え方と足跡については、インタビューを再構成した貴重な労作『経済学という宇宙』(日本経済新聞出版社)をご覧ください。

 岩井さんの株式会社論もまた、その例外ではありません。その立論の前提は、ヒトとモノの峻別という大原則、〈ヒトは所有することができるが、モノは所有することができない〉ということです。けれども、「法人」(legal person)には、ヒトという役割とモノという役割を演じる絶妙な二重性がある、と指摘する岩井さんは、資本主義経済における「会社」(company, corporation)という法人組織の機能を、みごとに分析してみせました。

そこで、ワインを論じるばあい、あらためてヒトとモノの峻別という大前提について、議論をする必要がある、とわたしは思います。ここでヒトを生物と置きかえてみましょう。

 

ワインは生命のあるモノ?

 ワインを「生きものに準じる存在」から一歩ふみだして、「生命のあるモノ」と定義するとしましょう。あなたはこの定義を、〈生命と物質の関係に背く矛盾ないしナンセンス〉と感じるか、それとも、〈ワインという複雑な存在を、その二重性においてとらえた逆説的な見解〉と見做すか、そのどちらでしょうか。一般的には前者のような見方がされるでしょう。が、ワインにそのようなモノとは単純に割り切れないような存在感があるとすれば、後者のような見方も共感を得られるのではありませんか。

 

ワインはアートか?

 いずれにしても、ワインがかかえる両義性は、それだけにとどまりません。〈ワインはアートであるか〉、あるいは〈ワインは自然であるのか〉という位置づけもまた、根本的な見方あるいはポジショニングでしょう。〈自然〉と、アートという〈作為〉との対立軸は、なにも政治学や思想史学の専有物ではありません。

 〈自然〉を尊重して人為的な介入=〈作為〉を否定する、《ナチュラルワイン》の考え方と運動は、現代世界に胎動する基本的な潮流のひとつとなっています。が、知ってのとおり、作為を排した無為だけでは、芸術品とも神品ともいうべき品位をそなえたナチュラルワインが、おのずと生まれるわけがありません。文字どおり自然に根ざしたブドウ樹が育むブドウ果は、空中を舞う酵母のはたす触媒作用だけでは、美味なワインにはなれません。《ヴィニュロン》(畑作業に重きをおくワインの造り手)という、もうひとつの媒介者の役割が劣らず重要なこと、言うまでもありません。

 

ワイン、この文化的な存在

 かたや〈イノチ・対・モノ〉、かたや(アート・対・自然)という、二つの軸が措定されるとしましょう。ワインはその二軸を組み合わせて生じる、四つの象限のどこに存在するのでしょうか?

 この質問は、じつはトリッキーなのです。なぜならワインは、それらのどこにでも位置することができる、多義性がある豊かな存在だからです。自然という生命あるもの(ブドウ樹とブドウ果)から生まれたワインは、すくなくとも別の意味で生命を宿す、文化の証しでもあるのです。いまから一万年以上も前に、中東のどこかで誕生したワインは、(文字発生よりも古い)「有史」以前の存在であり、人類の文化の誕生と軌を一にしたというべきでしょう。文化とは「生き方のスタイル」(style of life)であるとしたら、ワインは人類にとって新しくて不可欠な文化を生み出した功労者であったし、いまなお功労者であるといえます。ワインは、その可能性をまだ十分には発揮したとはいえません。

 

結語、その2

ワインはつねに可能性の存在である

 かつてわたしは、テロワールを「風土に固有な可能性である」と定義したことがあります。しかし、なにがテロワールであるかを、先験的に定義することはできません。生まれでた各ワインから、テロワールを予測することしかできないのです。なぜでしょうか。ワインは、人間が媒介してはじめて出来上がるからです。人間は土地や風土よりも変化にとみ、各人が可能性をもっているからです。そのような人間―真のヴィニュロン―がワインの生成に与っている以上、ワインはつねに可能性をもっていて、その可能性は汲みつくされることはありません。「ワインよ、おまえは可能性だ」といいたいのです。

 

ワインに関わる人間の使命とは?

 その、「可能性の存在」あるいは「塊」であるワインに、あなたは愛されているでしょうか? 自分がワインを愛するだけではたりません。ワインの可能性を信じないかぎり、ワインから愛され、ワインの可能性を充分に汲みだすことはできないのです。

 ワインの可能性を信じる造り手と飲み手にとって、自然と環境は制約条件でもあれば、それを活かすことができる可塑的な状況でもあるのです。信念と認識があればこそ、制約を溶かして状況へと活性化できるのです。堅い信念と柔軟な認識があればこそ、自然と環境のなかに潜み、ボトルのなかに可能性として潜んでいる、ワインの味わいを引き出し、ワインと共に生きることができるのです。(了)

 
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