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エッセイ:Vol.120 かたちについて(承前) ―『かたちの詩学』あれこれ―

かたちに宿るエネルギーと生命力

 この数年間というもの私は、《図形》―たとえば、三角形・四角形・円・長円・楕円―や、立方体・円錐・円柱形などの《かたち》の基本構造と、それらを組み合わせたり変形させた図や図形などに興味をもちつづけています。なぜなら、ワインボトルのラベルを彩るさまざまなデザイン、ことに図形によって、ワインの味わいがプラスにもマイナスにも変わる、という幾度もの深刻な体験から、かたちの作用を確信したからです。たしかに、すぐれたデザインや洗練された図案には審美的な効果があり、見るものの心を動かす力がありますが、図とかたちの効果はそれだけにとどまりません。なお、ここでは以下、二次元と三次元の図と図形をあわせて、《かたち》と呼びたいと思います。

  《かたちはエネルギーと生命力を秘めており、その周囲や一定の範囲内で、

  他の存在に働きかける作用や働きがある》――というのが私の仮説ですが、「他の存在」のなかには人間とワインがともに含まれています。つまり、かたちは私たち人間にとっても影響を及ぼすから、けっして「他人事」ではない、という考え方です。

  なぜそのような作用や現象が起きるのかと疑問をもち、かたちの影響力や作用を論じる文献を探し求めてきました。題名に引かれて求めた数々の本からは、大いに学ぶところがあるのですが、私の問題意識に合わなくて失望したことは、すでに書きました。たとえばアンリ・フォシヨン『形の生命』(杉本秀太郎訳、平凡社ライブラリー)、ルネ・ユイグ『かたちと力』(西野 嘉章・寺田 光徳訳、潮出版社)、中村雄二郎『かたちのオディッセイ』(岩波書店)です。わけてもフォシヨン『形の命』については、題名からして訳し違いであることを、訳者の杉本さん自身による深い考察にみちた文章から知ることができて、ようやく腑に落ちましたが、これは余談です。

 

向井周太郎『かたちの詩学』               

 しかし、やっとのこと素晴らしい本に出会いました。向井周太郎著『かたちの詩学Ⅰ&Ⅱ』(中公文庫、2008.9&2009.01)です。書痴を自任しているのに、なぜか『かたちの詩学』とその著者である向井さんの名前を知らなかったのです。が、過日たまたま行きつけの古書店で二冊揃いになった本書を見つけて手に取り、最初のページをめくってみて驚喜しました。わたしが探し求めていたのは、こういう本だった。いや、これだったのです。 

 精魂が込められた『かたちの詩学』は内容が濃いので、うかと読み飛ばすわけにはゆきません。著者のオリジナルで深い思索は、読み手におのずと考えることを迫ります。およそ洋の東西を問わず、建築家や美術史家のなかには思索に富む人がいるのに、なぜか図形やかたちをめぐる論考については、バーナード・ルドフスキー、ロジェ・カイヨワ、杉浦康平(注)といった鬼才を別とすれば、思索の深い人物になかなかお目にかからない、というのが私のこれまでの印象でした。が、またしてもここにその嬉しい例外が見つかりました。

 (注)杉浦康平:杉浦さんは優れたデザイナーや装幀家であるだけでなく、ユニークな著述家でもあります。氏には[万物照応劇場]と題されたシリーズの著作があり、そのなかでも『かたち誕生―図像のコスモロジー』(日本放送出版協会、1997)は、「まえがき」が「『いのち』ある『かたち』」と題されていて、向井さんと共通する問題意識に裏打ちされた、思索を刺戟する作品です。

  『かたちの詩学Ⅰ』の序章「かたちの誕生 身振りといのち」には、いわば著者の問題意識と姿勢が集約されたかたちで鮮烈に刻み込まれているので、それが私の問題意識と通底・符合し、共鳴したのです。
 7行に分かち書きにされた詩につづく、序章本文の冒頭は「生成と再生の振動―身振り」と題され、次の一文からはじまります。

 「私はかたちの生成やその原像を生のリズムあるいは生命リズムとよび、それを生命的リズム形象あるいは搖動する質的形象として捉えて、それにしばしば象徴的に『身振り』ということばを与えてきた。しかし、『身振り』ということばはその比喩以上に深い初原の意味に根ざすものがある。身振りはまさに世界の生成、いのちの胎動、かたち誕生の振動であり、リズムであり、響鳴であるといえる。」

  この一文を私流に解釈すれば、《かたちは生命のリズムを内包する身振りである。かたちの身振りは、世界・いのち・振動・リズムからうまれるだけでなく、それらの生成・胎動・響鳴をまねく》となります。とすれば、かたちのダイナミックな共鳴作用が、なんともみごとに捉えられているではありませんか。

 

ルロワ=グーランへの眼差し

 ここでは「身振り」というキーワードに、基軸的な意味と役割があたえられているので、いやおうなく碩学アンドレ・ルロワ=グーランの大著『身ぶりと言葉』(荒木亨・訳)を想起せざるをえません。読みすすむと、やはりルロワ=グーランの本作が向井さんの拠り所のひとつになっていました。日本でこそあまり知られていないようですが、ルロワ=グーランは先史時代を包括的にとらえただけでなく、人類の歴史と文化の発展をダイナミックかつ巨視的に捉えることができた、まさに20世紀にそびえ立つ人類学者かつ思想家であって、レヴィ=ストロースと並んでフランスが誇る巨人なのです。

  しかしながら向井さんの議論は、ルロワ=グーランを踏まえながら、それを超えている観があります。なんとなれば、向井さんのいう「身振り」は、ルロワ=グーランの指す狭義の「身振り」(じつは「手による活動」)を超えた、より広義の身体的な活動を指すと思えるからです。となると、『身振りと言語』の原題そのものの訳語にも関わってきますが、ここは高橋壮さんの指摘が参考になります。が、「身振り」の解釈を論じるまえに、やや文献学的な注をつけておきましょう。

  ルロワ=グーランの代表作“Le Geste et la Palole”には、二種類の翻訳があります。荒木亨『身ぶりと言葉』(新潮社・1973、ちくま学芸文庫2012)と、高橋壮『動作と言葉』(私家本、2007)ですが、 一般的には荒木訳が流通しています。

 荒木さんはフランス文学研究者(元・国際基督教大学教授)で、思索的なフランス作家ものの手慣れた翻訳家だっただけに、訳もそうとうこなれています。そのうえ本書(ちくま学芸文庫版)には、文化人類学者の寺田和夫さんによる気合いの入って見通しがきいた「まえがき」以外に、あらたに松岡剛さんによる独特な解説「この一冊の世界観」が付されています。おかげで独創的で気宇壮大な本書の位置づけを、読者はいやおうなく思い知らされますから、必ずしも読解が容易でない本書を読んでみよう、いや読まなくてはならない、という気が起きること、疑いなしです。

 他方、高橋さんはチベット語をはじめとする多言語に通じる比較宗教学者。徹底した考究と論理的な考察をへた正確な訳文だろうと知れますが、読みにくく頭に入りにくい憾みがあるのです。

 

“Le Geste”(ル・ジェスト)の意味

 そこで本論に入って、表題を構成するキーワード二語“le geste”と“la parole”の解釈についてです。この点、高橋さんはルロワ=グーランの著作『活きている機械仕掛け』(未訳)に添えられた付論「手の解放」をもとにして、重要な指摘をしています。すなわちルロワ=グーラン自身の定義によれば、次のように定式化されます。

le geste (動作)= l’activite creatrice de la main「手の創造的な活動」
la parole(言語)= la pense exprimable「表現可能な思考」、あるいは「表現と化する思考」

  とすれば、ルロワ=グーロンのいう“le geste”(ル・ジェスト)は、広い意味の「動作」一般ではなくて「手の働き」に限定解釈されるべきことになります。が、『かたちの詩学』でルロワ=グーランを援用する向井さんは、これを広義の身振りという解釈をしたうえで、独自の「かたち=生命論」を展開しています。
 だから、『かたちの詩学』を構成する各論が発表された後に書き下ろしされた、総合的(あるいは入門的)な向井理論をめざした『デザイン学 思索のコンステレーション』(武蔵野美術大学出版局、2009)の序章では、論旨は『かたちの詩学』とおなじであるのに、著者はルロワ=グーランの名を挙げず、立論の根拠から外したのではないか、と私は見ています。

 

おまけ:ルロワ=グーランを修正解釈する試み

 なお、興味のある方には折角ですから、ルロワ=グーランの論理をたどってみましょう。本書のなかで、もっとも重要と思われる箇所について、高橋訳を拠り所にしながら、荒木訳の修正、というよりは解釈を試みてみましたので、ご笑覧ください。

【修正解釈案】(平凡社ライブラリー版、p.304にもとづく)

 図示表現(グラフィスム)の最初期に属する物証からして、きわめて重要な事実が明らかになる。本書の第2章と第3章で見たように、数多くの脊椎動物においては二極分化していた機能(技能的な特質)が、起立二足歩行をはじめた人類においては、両機能(手・道具、および顔・言語活動)が結びついた構造になっている。その結合の際、まず手と顔の運動機能が形成・確立されたのち、人類の思考作用は、(手→)行動の道具・手段と、(顔・口→)音声シンボルとして、具体的に形づくられる。旧人時代の末期に、図示というシンボル表現が出現したことは、両極化されていた行動のあいだに、新しい関係が確立されたことを前提としている。手と顔、道具と言語との関係は、厳密な意味で人間だけが有する特徴であり、人間流にシンボルを活用する思考方法に呼応している。

 (塚原・注)「数多くの脊椎動物においては二極分化していた機能」について:
 ルロワ=グーランによれば、動物は力学的に「放射対称型」と「左右対称型」にわかれ、ふつうは食物摂取孔(口)の後ろに全有機体が配置される。動きまわる左右対称型の生物では、「口部」と「ものを把握する器官」をふくむ「外界関連器官」が前部に集中する。人類を進化に導いたのは、この《前部集中》構造と、《前部関係領域の、たがいに補い合う二つの分野への分裂》である。後者は、《頭=顔面器官》および《前肢先端=手》の二活動分野への分裂をさす。これが、「二極分化」「両極化」の意味である。

 

ルロワ=グーランが示唆するもの

 こうして手と顔、道具と言語が結びついたホモ・サピエンスの黎明期に、思考をシンボルの形で図示する「グラフィスム」行動が可能になる、という画期がありました。早くもBC35,000年ころ、染料や装身具と同時に、穀斗(かくと、cupule。ブナ科植物の果実を包むコップ状や球形の器官。ドングリのお椀など)、骨や石に刻まれた一連の線や筋、等間隔の刻み目が現れる。これらは狩猟のしるしや模写、現実の素朴な再現ではなくて、抽象から出発した、呪術的あるいは朗誦的な性格をおびた《リズムの刻み》《リズム表現》であろう、とルロワ=グーランは述べています。
 点や短い棒線群とは別の「先史芸術」にしても、本来リアリズムとは無縁であり、動物表現のかたちや動きはその後リアリズムに向かうにしても、人間表現は三角形や四角形、点線や短棒に向かったとか。
 が、ここは先史時代のシンボリックな表現を議論する場ではありません。問題は、図示表現(グラフィスム)と同時に出現したリズム性であり、三角や四角というかたちの原型に込められた生命表現です。原初に現れたときからすでに、かたちは生命のリズムを刻印され、エネルギーと祈りを宿していたことを確認して、今回は筆を擱きましょう。

 
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