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エッセイ:Vol.116 ワイン原論  ―色と形をめぐるオデュッセイ①―

「色と形という仮説」とは

 ワインを取り囲むもののなかで、その材質―ビンや紙などの容器、ラヴェル、ストッパー(コルクなど)、グラスなどワインの注入する容器の材質―を除けば、さまざまな色と形が、ワインの味わいに重大な影響を及ぼす、というが、長らく私が抱いてきた仮説です。このような見方を、縮めて「色と形の仮説」と呼ぶことにしましょう。

 仕事として毎日ワインを試飲し、個人としては好きなワインを飲み・味わい・楽しみながら、私はこのような現象に気づかざるを得ませんでした。同じワインがなぜ、あるときには美味しく感じられ、べつの時には不美に感じられるのだろうか、と繰り返し飲みながら不思議に思い、その謎を解こうと思い至ったのです。ならば、「先ず隗より始めよ」です。

 ひとたびこのような現象と「事実」に気づき、それを説明力のある仮説として考えるからには、仮説の有効性を積極的に示すために、堅苦しくいえば仮説を証明する努力をしなければなりません。というわけで、ワインを口にしながらいつも私は、その場の環境、つまりワインを取り囲む要因を少しずつ変えて、実験をしてきました。つまり、ワインを飲むことは、私にとっては実験であり、レストランやワインバーなど飲食の場は、わが実験室と化した次第。

 じつはこの「色と形の仮説」の対象となるものは、論理的にいえば、ワインだけではなく、すべての飲食品について当てはまるはず。その意味ではこのような考え方は、壮大な仮説ということになります。そんなバカなことがあるわけがない、と世間なみの良識や常識のある方は思われるでしょう。が、ものの味わいは人によって異なるという主観的な意味あいとは別に、これを客観的に論じることも可能です。本来このような事柄は、食品工学や味覚の心理学で論じられるべきなのです。

 にもかかわらず、「色と形の仮説」については、お察しのとおり、このような考え方をする人はあまり見かけないし、まして文章の形にされてはいないようです。つまり、ワイン界に浸透しているどころか、認知すらされていないので、私にとっては参考になる情報が皆無にちかい。
 おまけに、色と形は抽象的に、あるいは独立して存在するものではなく、なにかの媒体の上や媒体の形状そのものに刻印されています。ということは、色と形を単独に取り出して、そのワインにたいするプラス・マイナスの影響を論じることは、すこぶる難しい、と見当がつくでしょう。

 これまで、色と形については、美学の問題と受け止められ、諸芸術に通ずる優秀な美学者が魅力的な文章で論じてきました。また古くは、「科学者」とは認められていないようですが、諸学に通じた文人ゲーテは、みずから形態学を創始してニュートンの光学理論に立ち向かい、独自の形態論と色彩論を残したという例もあります(なお、わが学舎の「外国文学研究会」に属した同期の学徒・高橋義人君は、早くから本格的にゲーテに取り組み、『形態と象徴―ゲーテと「緑の自然科学」』(岩波書店、1988)という優れた業績をあげていることは、注記に足ります)。
 が、ゲーテはさておくとして、芸術と美学を考究した20世紀の最高峰にある議論は、はたしてわが「色と形の仮説」の証明に役立つでしょうか。尊敬すべき立論の例をふたつばかり挙げましょう。

 

アンリ・フォシヨン『形の生命』

 まずはじめは、アンリ・フォシヨンの『形の生命』です。この刺激的な名著には複数の邦訳がありますが、私の推すのは杉本秀太郎さんの訳業です(もうひとつは、阿部成樹・訳『かたちの生命』、ちくま学芸文庫、2004)。
 古今の文章の深みに分け入り、東西の植物学に通じた杉本さんは、病的なまでに鋭い感覚をみずから養い、繊細にして自在な文章を繰り出しましたが、また良心的きわまる学匠でもありました。その杉本さんには、岩波書店版の旧訳(1969)と、その40年後に上梓された平凡社ライブラリー版の新訳(2009)があります。若い時分の間違いだらけな翻訳を恥じた杉本さんは、まったく初手から訳し直すという快挙に出たのです。
 じつは杉本さんのばあい、全面的な改訳は珍しくなくて、アランの『文学折りにふれて』もまた、そのような良心の産物です。杉本さんのような名翻訳家にしても、ボーヴォワールの有名なフレーズを引けば、「生まれるのではなくて、つくられる」のですが、これ以上脇道に進むのは慎むとしましょう。

 さいわい翻訳者に恵まれたアンリ・フォシヨンにはいくつかの名著の名訳があり、私はフォシヨンのファンでもあります。そのため当然ながら、『形の生命』というタイトルからして、わが謎解きの参考になるのではないか思っていましたが、この勝手な期待は残念ながら裏切られました。

 私にとってこの魅力的なタイトルが示唆するのは、《形には命があり、独自のはたらきと作用がある》という含意です。この期待外れは長らく不思議なままでしたが、杉本さんが晩年に著した一文「形の生態誌」(『見る悦び』中央公論社2014、所収)を読むにおよんで、ストンと腑に落ちました。

 フォシヨンの原題は“Vie des Formes”ですが、杉本さんによれば、日本で慣用とされてきた訳題「形の生命」は誤訳であって、本来は「形の生命誌」とするのが正しい姿だったのです。なぜならば、“Vie”には、生命のほかに生活という意味があるから、原題に即すと「さまざまな形の営む生活振り」を指していて、動植物の場合は「生態誌」ということになります。
 「フォシヨンは形というものの生態を詳しく記述することを本書の眼目としている」(同書、p.377)のですから、私の期待はそもそも見当違いだったのです。なお、引用した一文のあとに、読み手の思考と覚醒を促すような素晴らしい叙述があるので、ぜひとも直接本文についてご覧いただきたいものです。

 

ルネ・ユイグ『かたちと力』
 もうひとつ、私にとっては謎解きの参考にならないという意味で、期待外れの名著があります。ルネ・ユイグの文字どおりの大著『かたちと力』(西野 嘉章・寺田 光徳訳、潮出版社、1988)です。しかも副題は「原子からレンブラントへ」とあり、原子にさかのぼるという科学的な発想を予想させました。ので、私にとってこのタイトルは、《形には力がある》《形は力を秘めている》という含意でなくてはならなかったのです。が、またしても私の勝手な思い込みは、期待外れに終わりました。

 訳者のひとり、西野さんのあとがきには、こうあります。

 本書は、もとより、狭義の意味での芸術論を企図して書かれたものはない。無機的な世界(アトム)から意識を備えた人間存在(レンブラント)まで、ひとことで言うなら、〈世界=存在〉の共時的な広がりを対象とする現象学的な観察と、それらを土台とした概念の抽象作業のらせん運動とを通し、生命現象に支えられた一個の進化論的世界観を、「かたち」と「力」の弁証的相克という視点から提示しようとするものだからである。

 ちょっと小難しそうな議論のように見えますが、かつてユイグ教授の講筵に列し、その訳業もある高階秀爾さんの、一歩踏み込んだ解説を見ましょう。

 「芸術作品における『かたち』についての透徹した考察が、自然界をも含めて「かたち」そのものの本質の理解へと導いて行った(…)その際、『かたち』を生み出して行く根源的な働きをなすものが『力』である」。

 ユイグ理論によれば、静止状態を志向する「かたち」に対し、時間のなかでつねにダイナミックな運動と変化を求めるのが「力」であり、「かたち」と「力」の葛藤と協力のなかから、眼に見える世界だけでなく、眼に見えない精神世界においても、さまざまな相貌が形成されてくる、と高階さんは見抜く。

 たしかに、このユイグ説ははなはだ示唆と洞察にとんでおり、「力」が「かたち」を支え、生み出すという見方は弁証法的で、美学理論としてはダイナミックです。けれども、あいにく「かたち」には力があるとする、私の見方を支えてはくれません。

 このように、美術と芸術の世界を深く論じた先見性のある議論が、ふたつながら私の支え役にならない以上、別の切り口でもってわが偏見をより積極的に展開するない、と覚悟するしかありません。

 

デザインが人間の行為を促す:アフォーダンスの視点
 ところで、つい最近、きわめて興味深い新聞記事に出会いました(朝日新聞、グローブ版2017年2月)。デザインや形状の現代的な問題を扱った特集記事のなかに、「人間とカタチの不思議な関係」と題されたコラムがあり、中村裕記者は次のように始めます。

「デザインは人間の無意識に働きかけて、特定の行為を促す力を持っている(中略)。早稲田大学理工学術院教授(人間生活工学)の小松原明哲によると、そうした特定の行為を誘発する力、あるいはカタチが持つ意味を「アフォーダンス」という。「ぶらぶらしているものは引っ張る。押し込めそうなら押し込む。穴があいていたら覗く(笑)。だから空き缶を捨ててほしくなければ、アフォーダンスを拒否したカタチ(3)にすればいい」

 というわけで、(3)で図示されたのは、投入口に太めの金属線を張って、捨てるのを拒否した「ゴミ箱(?)」でした。まあ、冗談めいたデザインで、アヴァンギャルド展覧会の出品作のようですが、これがまあ、人間工学とかの考え方なのでしょう。

 私の問題意識とは重ならないところもありますが、《形のなか》あるいは《形そのもの》に力がある、という仮説とは矛盾しない、もしかしたら援軍になるかもしれない考え方ですね。そこで次回は、そのアフォーダンス理論を取りあげる予定です。

 

予告篇

色と形のオデュッセイ②
アフォーダンス理論と視覚の問題

 アメリカの心理学者ギブソンが未完のまま構想したのが、革新的な「アフォーダンス理論」。それを、この国で先駆けて展開したのが、佐々木正人さんです。たとえば、『アフォーダンス入門―知性はどこに生まれるか』(講談社学術文庫、別名による原著初版は1996)とか、『新版アフォーダンス』(岩波科学ライブラリー、2015。旧版1994)です。とくに後者の『新版』は、とかくわかりにくいアフォーダンス論にしては理解しやすいでしょうし、旧版後書きのなかで、もうひとりの知の巨人であったグレゴリー・ベイトソン(わがひいき筋!)とギブソンとの共通点を指摘しているあたりには、とても興味深いものがあります。

注目:ギブソンの包囲光理論
 さて、その佐々木さんによれば、ギブソンのアフォーダンス理論の土台は、生態光学(エコロジカル・オプティックス)と名づけられた、光についての新しい考え方です(参照『新版アフォーダンス』p.46~)。
 要点を引けば、視覚にとって光は決定的に重要ですが、伝統的な光学は光源から直線的に進む《放射理論》なのに対し、ギブソンは放射光が散乱反射されて「媒質」を通過するとして、この媒質中に充満している光=照明を視覚の基礎にすべきだと考えます。そのうえで、媒質中の一点を包囲する光のことを「包囲光」(ambient light)と呼び、包囲光の配列=構造が周囲にとっての情報になる、という視覚情報の視点を提供しました。
 この「情報は光の中」という考え方が、エコロジカル・アプローチの核心であり、心理学の伝統的なS‐R(刺激―反応)理論に反旗を翻したことになります。
 つまり、ギブソンは、伝統的な光学理論と心理学の双方に異論を突き付けた、先見性のある異端児ということになりますが、視覚の議論は次回に回したいと思います。(了)

 
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