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エッセイ:Vol.115 ワイン原論  ―色の好み―

 言葉には力がある。つい、イメージのひろがる「眼力」や「心眼」という言葉の周辺をうろつき、眼が働くさまを覗こうとしたら、いつのまにか邪視などという、ただならぬ世界に引き込まれそうになった。むろんのこと、眼そのものは対象物に働きかける作用器官ではなく、感覚受容器官だから、意味づけしすぎるのは禁物。にしても、見る人の眼のさまは表情の中心となり、精神と感情のありようを映し出すから、眼がモノを言うこと、間違いない。言葉よりも正確に本音を語っていることが多いのです。

 

余談:睨まれ二題

 かつて銀座通りを歩いていたら、懐手で闊歩する和服姿の小林秀雄とすれ違ったことがある。こちらは日ごろの批評意識が頭をもたげ、にわかに喧嘩腰の眼差しになりかけていたとおぼしく、それを悟られ、睨まれてしまった。といっても、まわりの誰も気づかない一瞬のこと。殺気のような気配が、しかしなにごともなく通り過ぎたという、お粗末な一幕だった。文明の批評家というよりは人間の癖や弱みを自覚する、からみに長けた喧嘩名人の小林を前にすると、思わず眼が咎めてしまうのは、こちらの未熟もいいところ。イヴリン・ウォーの自伝タイトルどおり、『生兵法』“A Little Learning”は、いうまでもなく「大けがのもと」“Is a Dangerous Matter”なのです。

 そういえば、夷齋・石川淳さんから、いささかの冷眼に見舞われたこともあった。場所はこれまた銀座の、今は亡きしゃれた洋食屋の胡椒亭。ワインクレージー・クラブ(会長・山本博さん)の例会当月幹事として、シャトー・ムートン・ロッチルドを7,8種類ばかり卓上に並べて準備していたら、浮かれ心をたしなめるような石川さんの視線にであってうろたえ、軽く袈裟懸けに斬られたような心地がした。小僧っこが銘酒を弄んでいるな、というような気配を感じたのは、こちらが見かけの贅に引け目を感じていたからだろうか。
 ともあれ、視線を意識することから、なにごとかが始まるわけで、なぜか「ラシーヌと視線の詩学」というジャン・スタロバンスキーの素敵な文芸評論を思い出してしまった。もちろん、ラシーヌ違いですがね。

 

動物(ヒト)、植物(ブドウの木)、農産加工品(ワイン)

 さて、ここからが本論。まさか三題噺ではないけれど、抽象的に「動物・植物・加工物」を―かつてのNHK「二十の扉」もどきか、あるいは花田清輝もどきに―論じるよりは、具体的にヒト・ブドウ・ワインのかかわりを論じるのが、今回の眼目である。とすれば、ものごとを関係づけるには、どのような補助線を引くか、ということに尽きるでしょう。
 はたして動物(ヒト)と、植物(ブドウの木)と、植物由来の農産加工品(ワイン)に、共通点はあるのだろうか。あるとしたら、それは生命が通い、生きているということである。ここで、補助線は、生命であり、生きているという軸である。

 

刺戟的な大作、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』

 そこで、すぐに思いつくのが、生物学における近年の最高傑作とか、ダーウィン以来の名著とまで絶賛されている、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』(斉藤隆央訳、みすず書房、2016)。最先端の生物学者にして著作家のニックは、快刀乱麻を断つという観がある、惚れぼれとするような切れ味の良い作品を次々に送り出した。ニックの大ファンである私は、翻訳が待ちきれずにペーパーバック版をたどたどしく読み始めたところに、めでたく昨年末に訳書が登場して、難を逃れることができた。
 同書の章立ては、「1.生命(life)とはなにか?」「2.生(living)とはなにか?」と続き、まさしく「生命」と「生=生きていること」の違いが肝心。ニックによれば、生命にエネルギーを加えると「生」になるわけで、「生物がエネルギーを取り込むメカニズムが、どのようにして進化を遂げ、生物のエネルギーがどのようにして生命の筋書きに制約を加えたか」が、この本のテーマであり(大意。同書、PP.60-61)、私の発想でもある。

 

動物と植物の共通点

 さて、ニックが要領よく整理してくれているので、それを引こう。「すべての真核生物にはひとつの共通祖先があり、それゆえ当然地球上の生命の40億年間に一度だけ生じたことがわかっている。あらゆる動物、藻類、菌類、原生生物には、ひとつの共通祖先がある」(同、p.46)。
 いうまでもなく動物と植物は、ともに細胞が基本単位をなし、生命体を構成している。細胞(真核細胞)の構成自体も、角膜、小胞体、ミトコンドリアなど、基本的にほぼ同一。植物では細胞膜が強固頑丈で、草木の体躯が自立するよう支えられるという特徴と、植物細胞にのみ葉緑体があるという固有性があるにしろ、内部にはおなじDNA要素が組み合わさった遺伝子をかかえて、自己複製を可能にしている。植物細胞のDNAのなかに、動物の乳癌関連遺伝子がいて、別種の作用をしているらしいのは、ご愛嬌なことである。

 

植物の知性

 そして、木には知性としか呼びようのない働きがあり、さまざまな感受性が高いという事実は、もはや否定できない。視覚こそないが、草木はもちろん光に感じ、重力を感じとって芽と根はそれぞれ別の方向を目指して動き、芽の先端にいたっては旋回運動までしているという。この現象をいち早く察知し、光点のありかまで突き止めたのが、やはりダーウィン父子だったのは、偶然でも例外でもない、透徹した人間知性のなせる技であった。

 

植物には色が見える 

私ははじめ、草木は白と黒の明度しか感じないのかと思っていたが、それは誤解とわかってほっとした。草木は、各種の色に感じて反応を見せるのだ。赤色光や遠赤色光に反応するから、植物には単一の光受容体フィトクロムがあることが発見されていたが、その数十年後に分子生物学の時代にはいってから、たとえばシロイロナズナという植物には、11の光受容体の存在が確認されているとか(ダニエル・チャモヴィッツ『植物はそこまで知っている』(矢野真千子訳、河出書房新社、2013)。

 

植物のコミュニケーションと音楽

草木は言葉こそ発しないが危機に応じて(毒物などの)化学物質を放散し、警戒警報を発令するなど、同じ草木の個体のなかでコミュニケーションを交わすことができ、それを近隣の草木もまた感じとるらしい。(ジャン・マリーベルト『植物たちの秘密の言葉』(ベカエール直美訳、工作舎1997)
 が、音楽のジャンルや作曲家ではなくて、植物の成長に影響を及ぼすのは周波数である。低周波(100~500ヘルツ)が、種子の発芽、植物の成長、根の伸長に好ましい影響を与え、逆に高周波は成長を抑える効果があるのだそうだ(同書、106)。
 土は振動が非常に伝わりやすく、あらゆる植物細胞には機械受容チャネルが備わっているから、植物は全身でもって音を聴く能力があるし、特に根は音を発生できるので、植物は根系のなかでコミュニケーションをとりながら根を伸ばして効果的に地中を探検していると推測されるよし。
 なお、イタリアの著名な植物学者ステファノ・マンクーゾらの『植物は〈知性〉をもっている』(久保耕司訳、NHK出版、2015)によると、植物は人間と非常によく似た五感、つまり視覚・嗅覚・味覚・聴覚・触覚をそなえるだけでなく、人間よりもずっと敏感だとか。
 音楽が流されているモンタルチーノの畑で育ったブドウは、まったく音楽を流さずに育てられたブドウよりも生育状態が良かっただけでなく、成熟が早いうえに味・色・ポリフェノールの含有量の点で優れたブドウを実らせた。のみならず、音楽は害虫を混乱させ、木から遠ざけるという害虫駆除効果があったから、殺虫剤の使用を大幅に減らし、有機農業の革命的な一部門「音響農業」を打ち立てることも可能であるとか(同書、p.105)。

 

動物と植物の共感性?

 動物と植物の共通した反応特性については、もはや多言を要するまでもあるまい。もともと共通した祖先から発生したのだから、当たり前である。ところで、動物と植物が共感し、コミュニケーションを交わすことができるのだろうか。現在は、人間どうしですら会話が成り立ちにくくなっており、個人が垣根をつくってコンパートメンタライゼーションを志向し、はては閉じこもりや、引きこもりになりがち。であるとしても、言語は交感と理解の役に立つ。が、言語がなくても身振りと動作を通じての交流と文化の成立は、さまざまな動物にみられる現象である(アンドレ・ルロワ=グーラン)。
 が、他種の動物との間での交流は乏しく、まして動物と植物という類を異とする存在のあいだでのコミュニケーションは、乏しいと思われがちである。それにしても、他者という存在とその特徴を理解して、摂取や食行動をするということもまた、逆説的かもしれないが、広義のコミュニケーションであるといえる。ガイアという地球規模での捕食関係と食サイクルが成立しているのだ。友敵関係も関係であり、一方的と相互とを問わず、依存は関係なのだ。

 

ヒトは動物と話せるか

 きみは、動物の言葉がわかるだろうか。植物の聴こえない声を聞くことができるだろうか。私にはできないにしても、動物の言いたいことを理解し、その意味で動物と話すことができた人を知っている。一昨年に惜しくも亡くなった、タニクリニックの谷美智士先生です。谷さんと語ることは、叡智の言葉を聞くに等しかったが、谷さんから託されたことは守りつづけたいと思う。他人のために役立つことができる技があるから、役に立ちたまえ、と励まされたのです。

 

動物と植物の共感性

 言語だけが言葉でなくて、身振りや身体行動の全体が、表現なのだとすれば、それを通じて、プラスまたはマイナスの共感関係が動物と植物の間でも成り立っている、と強弁することが出来なくもない。そして、眼に見えない関係を見出し、感じとることが理解であるとしたら、それはどちらかの側からの一方的な思い込みや働きかけかもしれないが、共感的な理解はありえるとしたほうが、可能性が拡がるかもしれず、楽しいではありませんか。

 

グローワー(栽培家)はブドウと歩む

 と書いてくると、紙数がなくなってくる。ここで言いたかったのは、動物(ヒト)と植物(ブドウの木)との交感交流関係が成り立ちうること。少なくとも日々ブドウ畑で、化学物質や金属の影響をできるだけ排しながら、天地と自然の動きを察知して逆らわず、ブドウの木に誠実に対座している栽培家(グローワー)がいる。それらの誠実で思いやりに富んだ栽培家こそ、一本ごとのブドウの木と対話をしながら、手入れをし、ブドウの木の生き方を、木の立場に立ちながら考えて助けようとしているのだ。

そのような人たちはまた、セラーのなかでは植物とおなじく重力の働きを重んじ、金属と電磁波の影響を避けながら、ブドウ果の可能性を歪めないことをモットーにし、マストを自然酵母の働きにまかせながらノビノビと成長させ、ワインへの道のりを見守りながら促していくにちがいない。グローワーは、日々ブドウとともに歩んでいる。

 

ワインという、エネルギーをもつ生命体

 マストは、細胞が破壊されているから、もとの生物とは違った存在であるが、酵母は単にアルコール醗酵させるだけでなくて、エネルギーを蓄えたワインという別の生命体をあらたに組織するのである。そして、このようにして畑からのエネルギーが、ワインという生命体のなかでアルコールとともに助け合いながら、グローワーが見守り、ときに道を誤らないように促されながら、熟成という生命変態への道のりを歩むことになる。
 このような自己進化のなかで、ワインはグローワーの個性とエネルギーに日々感応しながら成長変化するから、グローワーとの共感関係が生まれないわけがない。ただ、このような関係を保ち続けているグローワーの数が多くないこともまた、残念ながら真実である。
 E.アラン・ポーの言葉を借りるなら、「ハッピー・フュー」(少数の幸せ者)かもしれない。

 

グローワーは産婆役

そのようなグローワーが産婆役をして誕生したワインこそ、生命とエネルギーに溢れる本物の自然児なのであり、表面的な「美味しさ」の域にとどまらない不思議な味わいと悦びに充ちている。このような生命とエネルギーに充ちているワインに出会ったとき、ヒトはどうすればよいのか。それと気づいたら、やさしく語りかけ、おのずとそなわった可能性を傷つけず歪めないように配慮しながら、味わいが開きだすように促してあげるだけのこと。それが、本物のワインの発見と流通をつかさどるインポーターと、その仲間たちであるワインバーやレストランの方々の仕事なのである。そのような職種にあってワインを見守り開花を助ける、「もう一人の産婆役」の使命は重大である。ワインと秘かに語り合い、ワインを傷つけずに可能性を引き出してあげてくださいな。そのための方策について、わたしはすでにここで語ってきたので、今日は繰り返すことはしない。だれが本当にワインの味方であるか、ワインは知っている。
 今回は、ワインと色の関係に説きおよぶ予定だったが、ヒト=ブドウの木=ワインをつなぐ補助線の説明のため、時間切れになってしまった。そこで例によって要点を述べるので、各自お考えあれ。生きているワインは、ボトルに貼られたエチケットの色とデザインに反応する。とりわけネガティヴな反応を招くのは、つねに黒色である。黒は、ワインの味わいの敵。ワインボトルに貼られた黒ラヴェルは、ワインの味わいを損ない、貶める。みなさん、黒に注意しましょう。(了)


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