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エッセイ:Vol.114 ワイン原論  ―心眼、その2―

眼差しに力はあるか?

 眼力という言葉は、小学館『精選版日本国語大辞典』によれば、「がんりき」
  ①目で物を見る力。視力。がんりょく。(引用/文献略)
  ②物事の真偽、善悪などを見分ける能力。がんりょく。(同)
とある。
①を生物学的に言いなおすと、視覚が受容した情報がニューロンを通じて脳に正確に伝達され、適切な反応と判断が下されるはたらきになる。すなわち、目は反射光が網膜でとらえられ、網膜にある桿体と錐状体という二種類のニューロンが受けとめた情報が脳に送られて画像処理を施される。この画像の意味解釈が脳の別の部分でなされて、判断の結果が命令信号となって、必要な手足など身体の行動を呼びおこす。この経路では、情報の流れは一方向であって、その逆はない。
 このように、目(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・肌(触覚)、舌(味覚)という人間の感覚受容器官は、いずれも一方通行であって、筋肉を備えた効果(動作)器官ではないから、受容器官自体が外界にたいして、なにかの作業や働きを与えるということは、ありえない。
 他方、人間が発明した各種の機械については、同一原理が正反対の方向に働く二種類の機械を作ることができる。たとえば、録音機と音楽再生装置(たとえばステレオ機器)の関係がそれである。
 エディソンの時代を思い起こそう。ラッパ型をした大型の集音機で集めた音を、回転する筒型の記録装置(のちのレコード原盤)に、鋭い金属針で溝状に刻みつけるのが、録音という音声記録の装置であった。その原理を逆転させればどうなるか。原音を刻んだ筒型の媒体(のちのレコード盤に相当する)を定速で回転させ、(レコード)針で得た微細な振動を増幅して、ラッパ型スピーカーで拡大すれば、音楽再生装置になる。つまり、音声の記録と再生は、同一原理を逆方向に作動させた機能装置で可能になる。
 発電とモーター回転の関係もおなじこと。電気によってモーターが回転する仕組みと、磁石の間に挟まれたコイルを回転させる発電機の仕組みは、同じ原理が反対方向に働いているだけである。
 人間の感覚、たとえば聴覚は、脳に信号を伝達する一方向の作用をはたすだけ。だから、脳から聴覚に逆方向の信号が送られて、鼓膜が振動して音楽を奏でるということはない。
 おなじように、視覚情報を集める目あるいは眼が、視線かなにかを放って、なにかの動作や働きをすることは、人体の感覚受容系(システム)と効果器(行動系システム)の分離という原則からすれば、ありえない。

 

「眼の特別な機能」

 ところが、人間にかぎっては、眼が特別な能力を備えているという考え方がある。理論神経科学者マーク・チャンギージーの『ひとの目、驚異の進化』(原題;TheVision Revolution,2009)が、それである。「超人的な視覚能力」と題された序章でマークは、人間に四つの超人的能力があるとして、テレパシー(感情を読む)、透視力、未来予見力、霊読する力(スピリット・リーディング)をあげる。が、著者の説によると、それぞれの能力には視覚にかんする科学的な背景があるというわけだが、読みすすむにつれて「四つの超人的な能力」という表現が、大げさというよりむしろ誇大あるいはミスリーディングであると思わざるをえない。たとえば、未来予見力とは要するに、錯視という現象にかんするマークが編み出した一般理論による説明だとわかるしだい。だから、氏のあげる超能力なるものは、普遍的な視覚現象の科学的な説明だとすれば、鮮やかというよりも羊頭狗肉にちかい、著者の巧みな表現力のなせるわざに驚くだけである。

 

眼の悪さ、邪視について

  このように、眼に積極的な超能力があることは生理学的に疑わしいが、《眼は人間に悪さをする》という不思議な考え方が古来より根強く残っている。これが“evil eye”という民俗的な習俗あるいは感性である。原語は、「邪悪な目あるいは眼差し」という意味だが、日本でこの原語を「邪視」と訳してはじめて紹介・論考したのは、大英博物館で博捜した民俗学者の南方熊楠であった。南方が典拠としたのは、この問題に関する権威F.T.エルワージの『邪視』(奥西峻介訳、リブロプロート、1992)であった。本書からさわりの部分を引こう。

   古代の人々はすべて、妬みや怒りを抱いたひとの目から投射された何か敵意に満ちた影響力が大気を汚染し、生ある物も生なき物もその体を貫き損なうと堅く信じていた。「だれでもなにか優れたものを妬みの眼差しで見ると、周りの空気を致死的なもので満たし、なにが身近にあってもそれに自分の毒を含んだ発散物を移すことになる。」(p.21)

F.ベーコンによれば、聖書は嫉妬を"evil eye”とよんでいるそうだが、17世紀末まで「人を惑わし魅する…感情fascination」の“fascination”(魅惑)という言葉が、邪視とおなじ意味合いであったとか。他の同義語が“overlook”であり、シェークスピア『ヴェニスの商人』には、次のように用いられているよしである。

  「恨めしいのはあなたの眼(まなこ)
   それが私を邪視(オアルックト)し、私を引き裂いた」(重引。同書P.18 )

このように引用すればきりがないからこれで止めるが、聖書だけでなく、古代ギリシャ・ローマはもちろんのこと、オリエントをふくむ古今東西の各地に、このような感性と俗習があったことからすれば、眼に悪しき力があるという見方は、ほぼ普遍的だったのだろう。

 

眼は、「悪さ」しか、しないのか?

 邪視は凶視とも訳される。ちなみに、禍事・禍言(ともに「まがごと」)には、①よくない不吉な事柄、凶事、災難と、災いを招くような言葉、悪い言葉のほか、②あやまった説、妄説(同辞典)の意味があり、こちらは言葉とのつながりが深いようである。
 思うに、眼と言葉には他の物や生物を動かす作用があるとされ(たとえば、言霊)、言葉を読むのが眼であるから、眼のはたらきがいっそう畏敬の念をもたれたのも不思議ではない。それでは、なぜ、眼のネガティヴな作用だけが注目され、畏れられたのか。それは、だれにも不安や心配事があることを背景として、眼をあやつる人間の側に「邪心」があれば、眼つきが悪くなり、はては眼に凶事をおこさせる力まであると、思わせてしまったに違いない。
 しかし悪いのは人間なのであって、眼ではない。だからこそ、逆説の大家G.K.チェスタトン流に「無邪気」“innocence”が大事だと、説きたくなる。とかく人に邪心がやどれば、その眼つきはにわかに悪くなり、悪行におよぶだろうことは予想される。あなたの眼つきは大丈夫ですか?

 

悪い眼つきでワインを見ると?

 ワインは生き物にちかい存在であり、なかでも感受性の高いワインは、環境一般だけでなく周囲の人の気配に敏感である。たとえば、金属の塊であるようなテーブルや椅子が近くにあるだけで、とたんにワインの味わいが落ち、バランスが崩れて見るも無残になりはてる。だとしたら、そのワインに悪意を持った人が近寄るとワインが委縮したりして、持ち味をフルに発揮しがたくなるのは、理の当然というもの。だいいち、悪意をもった人が、ワインをまともに受けとめられるわけがないから、これはお互いさまというべきか。
損なことである。
 とすれば、ワインの良い飲み方の第一歩は、偏見はもとより無駄な知識を捨て去り、「純な心」(フロベールの短編小説の題名)をもってワインに接するという心構えであることになる。なにか説教臭くなって恐縮だが、ここはチェスタトンの探偵小説のタイトルと、オスカー・ワイルドの芝居のタイトルをもじりあわせて、次のように言うとしようか。
 “Importance of Being Innocent”(無邪気が肝心)と。

 
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