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ドイツワイン通信Vol.63

クリスマスと原点回帰

 また一年が終わり、新しい年を迎えようとしている。この時期になると、切ないような空しいような、切羽詰まったような気持ちの底に残った案配の、希望の光を新年に見る。(果たしてこの一年を、パンドラの箱に例えたものかどうか。いや、今年は実際のところ、案外それが相応しいかもしれないが。)時間は連続して淡々と進み、暦が変わったからと言って、その歩みが緩むわけでも早まるわけでもない。ただ気持ちとして、年の瀬は砂時計の砂が落ちきる前のように、その進みがあまりにも急速で、焦燥に駆られるのである。仕事納めをして、大掃除をして、除夜の鐘とともに新年を迎える。その時、前日までのせわしさは消え失せて、目の前に新たな一年が、無限の可能性とともに立ち現れる。そこに平和と希望と、あるいは飛躍への願いを込めて、私たちはしばしば、寺であれ神社であれ、神聖な場所で超越的な存在に加護と支援を願う。その時、前の年の様々な出来事は一旦水に流され、清められ、空っぽになった状態で、新たな一年に向けて歩み始める。 

 

晩秋の暗闇と内面の光 

 一方で、西欧的な、例えばドイツの新しい年の始まりは、圧倒的にクリスマス、つまりイエス・キリストの誕生に置かれている。12月25日という日付自体は聖書の中にはなく、古代ミトラ教の冬至の祭りが、異教徒への布教の過程で教義に取り込まれたらしい。冬至は、一年の中で最も夜が長い日だ。ドイツは日本よりも北極圏に近いため、冬至に近づくにつれて昼が短くなる感覚は、より強くはっきりとしている。そして晩秋の空はいつも霧か雲に覆われ、薄暗い日が続くことが多いため、死者の日である諸聖人の祭日(11月1日)からクリスマスにかけては、一年の中でもっとも暗く、陰鬱な時期であり、鬱病を発症したり偏頭痛に悩まされる人が多い。それは世界が次第に暗闇に閉ざされていくようであり、もしも時間が空間的に認識されるなら、深海の底へと降りていく感覚に似ている。

 夏の光から遠ざかり深まりゆく闇の中で、自らの内なる光は、反対にその輝きを増していく。それはまず、11月11日の聖マルティンの祭日の、子供たちが手に手にもって行列しながら歩き回る提灯の明かりの中に、暖かさとやさしさを感じることから始まる。伝説によれば、ローマ軍の兵士であった聖マルティンは、道ばたで寒さに震える貧者に、自らのマントを半分裂いて与えたという。貧しい者を救う慈悲の行いは、心の闇を照らす希望の光である。行列しながら子供たちは歌う。

Laterne, Laterne, (提灯、提灯、)
Sonne, Mond und Sterne, (お日様、お月様、そしてお星様)
Brenne auf, mein Licht, (燃え上がれ、私の光、)
Aber nur meine liebe Laterne nicht. (でも私の大事な提灯までは燃えないで。)

Meine Laterne ist so schön, (私の提灯はとてもすてき、)
Da kann man mit spazieren gehn (これでお散歩に行けるから)
In dem grünen Walde, (緑の森の奥深く、)
Wo das Echo schallte. (木霊のひびくところでも。)

 手元の提灯の小さな光は、太陽、月、星々へと広がり、やがて強く世の中を照らす。しかしあまりにも強すぎてはいけない。自らが燃え尽きては、元も子もないから。自分の心の中に光のある限り、周囲を照らして人の道を歩むことが出来る。だから一人きりで道に迷っても、進むべき方向を誤ることはない。聖マルティンの祭りで子供たちが歌う歌には、こうした光の意味と願いが込められているのではないだろうか。そして例えば、一人一人が手に手にろうそくを持って集まれば、それが群衆になったとき、空間を埋め尽くす光の海のなんと美しいことか。

 

世界を覆う闇、毅然とした光

 晩秋の闇の中に沈みゆく季節に輝くもう一つの光は、クリスマスマーケットの明かりである。早々と訪れた夕暮れの中で、町の広場に煌々と輝き、星空のようにつらなる電球の光と、湯気を上げるグリューヴァインや食べ物、可愛らしいみやげものを売る小屋を照らす明かりは、氷点下の寒さと暗闇ですっかり冷え切った心と体を、まるで奇跡のように温めてくれる。まさに、冬のドイツのオアシスと言って良い。寒ければ寒いほど、グリューヴァインの甘さと熱さは身に沁みて、美味しい。移動遊園地の小さなメリーゴーランドと子供たちの歓声と、イエスが生まれた馬小屋を再現した舞台の上から響く合唱団の賛美歌の歌声が、闇に包まれた冬の世界を、内側から照らす光に変える。

 でもやはり、先日のベルリンの惨事を思い出さずにはいられない。あれは折しも冬至の2日前、一年で闇が最も深まる時だった。犠牲となった方のご冥福を祈り、怪我をされた方の一日も早い快復を願う。メルケル首相は声明の中で言った。「ただ、私たちは知っている。全てを断念して生きることは望まない。家族や友人とともに、私たちの広場で楽しい時間を過ごすクリスマスマーケットを。悪におびえ、四肢が麻痺したような状態で生きることを望まない。たとえ、今この時がつらくても。私たちは生きる力を見いだすだろう。ドイツでこうありたいと望む生き方で-自由に、お互いに支え合って、そして開かれた心で」と。私は彼女の中に光を見る。幼い頃、聖マルティンの提灯を手に持って歩いた多くのドイツ人の、心の中の光も。信仰と人間性に根ざした光を。過去の過ちに学び、時間をかけて育まれた毅然とした光を。

 

クリスマスと原点回帰

 今年のクリスマスの闇は、いつにも増して深いことだろう。しかしクリスマスは、毎年、底の底まで沈潜して、原点を確認する行事でもある。店という店が午後4時には閉店して、バスも運行を止めるイヴの夜は、一年で一番静かで厳かな夜だ。静寂の中でイエス・キリストの誕生を思うことは、ヨーロッパが築き上げて来た、キリスト教文化の原点に立ち返ることである。およそ二千年前に「世の光」であるイエスが生まれたことを想起し、祝うことは、同時に自分たちがこの世に生を受けたことを思い出し、その原点となる家族を思う契機でもある。だから、クリスマス・イヴに墓地を訪れ、先祖に挨拶する人は多い。過去を想起し、原点を確認し、そこを立脚点として現在を把握する。原点とは土台であり、ゆるぎなく上部の構造物を支え、現在はその上に積み重ねられて来た成果なのである。ヨーロッパの現在は、大聖堂のように構築された、キリスト教文化に根ざす確固とした存在だ。クリスマスに家族で集まり、ミサを訪れ、新年への思いを新たにするとき、それまでの営為は確認されこそすれ、忘れられることはない。

 一方で、日本における正月は、全てを新たにする契機である。新年の空気の清々しさは、去年の様々な出来事を水に流し、精神的に一度リセットして消去することに由来する。全てが新たに生まれ変わるのだ。罪障を清められて清浄となり、まっさらな半紙に筆をおろすようにして、一年の営みが始まる。その一種の純粋さは、上出来な日本酒から受ける印象に通じる。雑味がなく端麗で、スッキリとして後に残らないところに、美を見い出すことが出来る。そしてまた優れたワインは、構造とバランス、調和、精緻なディテール、充実感、余韻といった、時間をかけて蓄積され、持続の中で構築されるものから、価値が生まれる。その根源は土であり、岩であり、太陽、すなわち光である。一方日本酒は、米を育む自然とともに、水が何より物を言う。酒もワインも、その風土と精神を映す鏡である。

 ともあれ、冬至を過ぎたこの時期、季節は既に夏へと歩み始めていることを想起したい。世界は闇の底から次第に浮上し、日々明るさを増していくのだ。心の光を闇の中で確かめ、原点を確認し、初心に立ち返って新たな歩みを始める時である。これからどこへ向かうのか。自らを省みつつ、新年を迎えたい。そしてたとえ世間がどれほどざわめこうと、内なる光をしっかりと携えて歩んで行きたいものである。

(以上)

 
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