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エッセイ:Vol.113 ワイン原論  ―心眼、その1―

まえがき

 あっと驚く結果を招いた合衆国の大統領選挙戦のさなか、おっとり刀でにわかに欧米に駆けつけ、面白くもやたら緊張と疲労を持ちかえった。こうなると、頭を休めるためと称して軽い読みものに手を出すのが、わが流儀。かねてから偏愛する漫画家みなもと太郎の『風雲児たち』全20巻(ワイド版 リイド社)が、わが枕頭の書となった。白土三平流の単純な農民史観から脱却した「骨太」なこの歴史漫画には、軽妙なギャグがあふれかえるだけでなく、精神が躍動しまくり、凡百の歴史書をはるかに圧倒する知見と、ど迫力があった。おかげで疲れはとれたが、原稿締切の期日が過ぎていることに気づくのが遅れた。とど、正調の原論をこしらえるいとまがないので、心もとない記憶たよりのエッセイで、お茶を濁すことになったという次第。まずはお詫びかたがた、事情の説明まで。

 

サックスの彼方(かなた)

 傑作『妻を帽子とまちがえた男』を著したオリヴァー・サックスは、ユーモアあふれる達意の文章家であり、温かいハートと鋭敏な感性の持ち主にして、人間通と呼ぶのに値する脳神経科医でもあった。蛇足をくわえれば、人間という生(なま)の存在の多様なあり方に共感できない精神科医など、とうてい心に悩みをかかえる者の相談相手たりえない。
 さて、著作家サックスは読み巧者としても定評があり、これまた深読みの達人である養老孟司さんは、サックスが誉めている書物なら面白いこと間違いなし、と太鼓判を押したことがある。人の心を読むことと、眼光紙背に徹して、本の行間を読むこととは、無縁ではない。
 サックス最晩年の作のひとつが、エッセイ集“The Mind’s Eye”。邦訳『心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界―』(大田直子訳・早川書房2011)である。副題からうかがわれるとおり、本書は視力欠陥と精神/行動とのかかわりを追った、著者による発見の旅である。自身が病で片方の視力を失っているだけに、サックスにとってこの問題は他人事ではなかった。題名の“mind’s eye”は、通常「心眼」という意味だが、目に不自由な人が心眼で見るという含意があるから、邦題はあっさり『心眼』でもよかっただろう。

 

視力・眼力・心眼

 ここで“mind’s eye” に視力という訳語を当てはめるのは、むろん間違いではない。が、とかく心理の作用や機能に「力」をつけがちな、日本的な慣行にしたがっているともいえる(たとえば集中力、想像力、老人力など。すでに拙稿でふれたとおり)。
 日本語で視力というと、眼科検査でいう目の光学的な分解能の程度をさすが、それならば眼力という抽象的だが印象のつよい言葉で用は足りるはず。それよりも、心眼という精神性をおびた定訳のほうが、いっそう「想像力」をかきたてるのではないか。

 

心眼と真贋

 ほんものの価値を見ぬいて共感する心の働きを、心眼といって差しつかえあるまい。そこで例によって、小林秀雄が登場する。ご存じ、『真贋』というエッセイである。わが怪しげな記憶によれば、鍾愛していた骨董作品がどうやら偽物に間違いないと(心眼で)悟った小林は、いきなり傍らにあった正宗の名刀を抜き放ち、この茶碗かなにかの骨董物を、あっさり一刀両断してのけた。いかにも小林流に気迫のこもったこの逸話的な所業、偽物と見抜けなかった自分の判定眼が悔しいあまりのこと。だから、とど、自身を切ってのけたにひとしい。いかにも喧嘩好きな小林らしく、自分のなかの敵をやつける自傷行為と解釈できなくもない。ここで、ごろ合わせではないが、心眼と真贋が重なりあってくる。

 

作家と作品

 問題は、小林のばあい、骨董の美的あるいは芸術的な価値でなくて、骨董物の作者が誰であるかという事実基準、つまり真贋という実在性が問題になっているらしいこと。ここには、《つくり手と作品》との関係という、芸術批評の根本的な問題が潜んでいる。
 作品さえ良ければ、作家が誰であるかを問わない、というのがいわゆる《作品主義》、あるいは《芸術価値》の尊重という立場である。これを作品至上主義と呼んでもよい。
 それにたいして、作品の質よりも誰がつくったかが大事というのが、《由緒の尊重》にもとづく《作家主義》である。作家という人間を追うことは、人間心理の精妙な分析家をもって、はじめて可能になる深淵な作業であり、だから私は、フランスの大批評家にして犀利な心理分析家サント・ブーヴが大好きである(小林秀雄訳『我が毒』は避け、『月曜閑談』と『婦人の肖像』をお読みあれ)。
 にもかかわらず、芸術のばあい、私は作品第一という建前(作品主義)を採る。なによりも作家が第一という、属人主義的な考え方はしない。まず作品ありき、なのだ。平たくいえば、料理人が誰であろうと、料理がおいしければよい、というたぐいである。

 

作り手と作品―ワイン特有の問題

 ここで話を転じて、作品をワイン、作家をワインの作り手と考えると、いっそう分かりやすい。が他方、ワインという例に潜む、ワイン特有の問題もまた浮かび上がるから、作品と作家の「腑分け」は慎重に行わなければならない。
 私は、ワイン(と料理)をいわゆるハイブラウな芸術作品―詩文や歴史、絵画、演劇、舞踊、音楽(演奏)など―とは同列におかない。ワインはハイブラウな芸術作品や芸術行為とは別種の、もっぱら実用と官能に奉仕する、消えゆく楽しみごとの世界に属すると見る。
 ただ懼れるのは、「感性なき享楽家」(マックス・ヴェーバー)に陥ること。ワインを受け身で味わうのではなく、積極的に、ワインが潜在的に持っている豊かな可能性を、妨げずしていかにして発現させるか、が私の課題であり、日々実践していることである。

 

(付)視力から視線へ

 さてと、目の問題に戻り、ここで視線を考えるのも一興だろう。英語におきかえてみれば、話はわかりやすい。「視線」の英訳としては、「線」にこだわる“visual line“sight line”“line of sight”はやや堅苦しい感じがあり、“one’s eyes”や“gaze”のほうが人間的であって、英語としては自然な感じがする。つまり、線にこだわるな、ということ。
 これを踏まえて、視線とはなにかを考えなおそう。狭義の視線は、「目の中心と、見ている対象とを結ぶ線」とか「視軸」という定義になる。が、しょせん視線は比喩であって、目に見えない補助線のようなもの。そして、両眼からの視線の交点が焦点になる。なのに目に見えないはずの視線が、他人には感じとれてしまうのは、なぜだろうか。
 人間の眼(まなこ)は、他の動物に比べて白目の部分が多いとされる。ゆえに、白目を背景にした黒目の視軸の揺れ具合が、眼球レンズの軸、つまり視線の方向となり、これが人目にたどれてしまうのだ。
 この現象と、他人の自分に対する眼差しを感じとれることとは、別ものである。誰かが自分を見つめているらしいと、背中に目がないのになぜか感得できるのは、別の理由があるはず。この考察は次回にまわすが、ヒントは、「眼力」である。
 さて、他人が容易に視線の「方向と交点」を読めるとすれば、見る者の関心のありかがバレてしまう。当人はこっそり盗み見ているつもりでも、傍目からは視線を隠せないから、うっかり妙なものに気を奪われるのは禁物。内心は隠せないのだ。デパートや専門店の売り子は、お客さまの視線をたどり、見ている商品や商品タイプ、色や柄を客に勧める、という手管が身についている。

 

ついでに楽の音の世界

 音楽も、料理やワインとおなじく、時間の芸術でもあり、時間やテンポにしたがって現れでる姿を異にする。けれども音楽はそれにとどまらない。作曲家によって与えられた楽譜の記号指示体系は、独自の宇宙を構成するだけでなく、楽譜をふまえた演奏は、単なる楽譜の再現ではなく、演奏家独自の解釈と想像力をくわえた、別種の世界の創出である。そのうえ、振動がもたらす楽の音は、精密な記号化によって、記録媒体へのかなり正確な保存が可能になった。それにより、音楽は二重の意味で再現芸術としての性格を強めていることは、ベンヤミンいうところの『複製技術時代の芸術』にくわしい。
 それはさておき、音楽は、ハイブラウな芸術世界と、ロウブラウなワインや料理という、《肉体性の強い時間芸術》の世界との《中間》にあって、両世界の強みを兼ねそなえる、魅力的な世界を持っているのだ。

 

ワインという作品を現実化する、作り手の意味

 そこで、本題のワインに戻れば、ワインにたいして私はこれまで、「だれが作ったか」つまり「作り手」が最大の問題であるとしてきたし、その考え方はいまもって変わらない。なぜか。そのワインが無比の個性と美味をもっていたとして、それは、その作り手が媒介してはじめて可能性が現実化したからである。つまり、ワインが「無比の個性と美味」を持っていることが大前提であり、豊かな可能性の実現はその作り手にしかできない、と考えるからである。
 このあたりの問題は、うっかりするとトートロジーや自己矛盾になりかねない、と自戒しながら本稿を終えよう。


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