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『ラシーヌ便り』no. 130

公開日: : 最終更新日:2016/09/06 定番エッセイ, 合田 泰子のラシーヌ便り, ライブラリー

《合田泰子のワイン便り》 ~サルヴォ・フォーティを訪ねて~

 8月23日、シチリアのエトナ山麓にサルヴォ・フォーティを訪ねました。ついに、自らの本拠地で念願の醸造施設(パルメント)を手に入れ、そこでの醸造が、本格的に始まりました。自前のセラーを長く持たなかったサルヴォは、その時々の人間関係や仕事関係に左右されて、ワインはどこで醸造したのか、謎の連続でした。これまでの彼の歩みを、たどってみましょう。

サルヴォ・フォーティ

サルヴォ・フォーティ

 

サルヴォ・フォーティの歩み

1962年 エトナに生まれる。祖父は小さな農園を所有していたが、地元の小麦畑やブドウ畑、果物農園で働き、生計を立てていた。

1965年 〜 1968年 両親がスイスに移民し、サルヴォは祖父母に育てられる。仕事中の祖父と共に、ブドウ畑で育つ。

1968年 両親が帰国し、カターニアの町で暮らすことになる。この頃、エトナ方言を話すサルヴォは、学校になじめず、祖父母の住むエトナで過ごすことを好んだ。

1975年(13歳) 農業学校に進み、農業の基礎を学ぶ。

1977年(15歳) ブドウ栽培と醸造を学ぶ。

13歳から7~8年間、ドメニコ・アランチョというワインの仲買人の手伝いをし、パキーノやエトナをまわり、樽単位でのワインの仕入れに立会う。この時、エトナの地域ごとの特性を経験し、サルヴォの重要な基礎となる。

1981年(19歳) 首席で卒業、エトナの複数のワイナリーで働く。

1984年(22歳)  1986年まで【エトネア・ヴィーニ】で働く。

1986年(24歳)  アグリジェント近くのナーロ村のワイナリー。

1988年(26歳)  1990年まで【アヴィデ】で働く。

1991年 (29歳)【ドンナ・フガータ】で働く。

1988年 ジュゼッペ・ベナンティと知り合う 。

 大きな製薬会社を経営する実業家ベナンティは、故郷のエトナでワインを造りたいと思っていた。相談を受けたサルヴォは、長年夢に描いてきた考えを提案する。「ブルゴーニュのクリュの考え方のように、広大なエトナの山麓に点在する古い畑から、異なるテロワールのブドウでクリュ・ワインを造りたいと思い続けてきたんだ」。幼い頃から、エトナ中の畑を仲買商とまわってきたサルヴォは、村ごとの特徴、優れた畑の存在と栽培家を熟知していた。

1991年 【ベナンティ】で、《ピエトロ・マリーナ》(ミロ村)と、《ロヴィテッロ》(エトナ北部)を醸造。

1994年 3年熟成させた《ロヴィテッロ》と《ピエトロ・マリーナ》を初リリース、売れ残りのワインを通常のエトナワインの3倍の価格で販売したと、ヴィニタリーで大騒ぎになる。

1998年-① 【ベナンティ】、エトナ南西部の《セッラ・デラ・コンテッサ》畑を購入。【ハンス・ゼネール】【ヴァルチェラーザ】【ビオンディ】などの各社をコンサルタントし、【ベナンティ】の設備で醸造。

1998年-② 【グルフィ】のプロジェクトを始める。

 キアラモンテ・グルフィ村出身で、ミラノで成功を収めたヴィート・カターニアが、サルヴォのコンサルタントを受け、【グルフィ】社を創立。パキーノでネロ・ダーヴォラの自根のブドウで醸造。

1998年-③  サルヴォ、初めて畑を買う 。カスティリオーネ村カルデラーラ地区にある、祖父が雇われて剪定していた畑で、祖父がいつか買いたいと願っていた畑を購入。0.2haのブドウ畑から、2001ヴィンテージに初めて《エトナ・ロッソ》を1樽造った。

2001年 《ヴィヌペトラ》初醸造。

2001年 歌手ミック・ハクネルの資本による、《イル・カンタンテ》プロジェクトの初醸造。

2003年  合田・塚原、《ヴィヌペトラ》2001をヴェネツィアで飲み、サルヴォをエトナに訪ねる。

2004年  ラシーヌ、《ヴィヌペトラ》2001を輸入。

2005年  ラシーヌ、【ベナンティ】と取引開始(Rovitello1998、Pietro Marina 2000)。

2009年  《イル・カンタンテ》プロジェクト終了。

2011年 ≪ベナンティ≫のコンサルタント契約終了。

2012年  ラシーヌ 【ベナンティ】との取引終了。

2013年  ミロ村のパルメントと畑を購入。

2014年  ミロ村のパルメントで、《イ・ヴィニェーリ》醸造。

現在に至る

 

醸造所の問題

 さて、2003年から2012年まで、《ヴィヌペトラ》がどこのセラーで醸造されたかですが、残念ながら明確な回答を得られていません。2014~15年はエトナの元協同組合の施設で、現在【イ・クストディ】が醸造している建物の一部で、醸造されました。2001と2002年は、カルデラーラの畑にある小屋(現在はゲストハウスになっている) で造られました。その後は、ランダッツォ近くにある《イル・カンタンテ》の醸造所か【ベナンティ】で、【ベナンティ】との関係がなくなってからは、【グルフィ】で醸造されたようです。 いずれにせよ、フラッグシップの《ヴィヌペトラ》が、自前のセラーで発酵醸造されるのは2016年からでしょうか。キュヴェ《イ・ヴィニェーリ》については、パルメント発酵なので、長らくランダッツォに借りていたパルメントで発酵してきたのでしょう。

 ラシーヌに2014年ヴィンテッジが入荷した時、私はあまりの素晴らしさに感動、すぐにサルヴォにメールし、感激を伝えました。サルヴォも、この賞賛メールを受け取って大変喜んでくれました。2014年は、ミロにあるパルメントで発酵、醸造したのだったのです。ワインにこもるスケール感は、前年までとは比較になりません。ワインの歴史をたどると、どこの国でも良い醸造所は、パワースポットに建てられてきました。サルヴォが入手した 200年前に建てられたパルメントもまさしく、そうに違いありません。今後どのようなワインが生まれてくるか、毎年毎年が本当に楽しみです。 

ミロ村のパルメント

ミロ村のパルメント

 

サルヴォ、大いに語る

 以下、サルヴォ・フォーティのアルベレッロについての考え方をお伝えいたします。 

チームI Vigneriに関して(サルヴォ談①)

 私(サルヴォ)が《ヴィヌペトラ》の畑を購入した1998年当初、栽培家グループ「イ・ヴィニェーリ」のメンバーは、私とMaurizio Paganoマウリツィオ・パガーノの二人だけでした。彼は仕事を探しにドイツへ行こうとしていましたが、私は「一緒に仕事をしよう」と彼に声をかけたのです。彼がドイツに行こうとした理由は、とても深刻なものでした。彼は長年アルベレッロでの栽培を行ってきた栽培家でしたが、近年の近代化・機械化によってブドウの栽培方法も変化し、アルベレッロでの栽培方法しかしらない彼は必要とされない存在になってしまったのです。

 「もしうまくいかなかったら、そのときはドイツに行ったらいい」。彼にそう言って、ともに歩み始めたのです。私たちが手入れしたブドウ樹と畑を見て、一緒に働きたいと言ってくれる人もいたおかげで、現在の「イ・ヴィニェーリ」メンバーは20人にも及びます。

スパッリエーラとペルゴラ、アルベレッロ(サルヴォ談②)

 以前エトナでは、ブドウは全てアルベレッロ(一株仕立て)で栽培されていました。しかし、今となってはスペッリエーラ(垣根仕立て)のほうが多くなってしまいました。エトナにある、著名なワイナリーは、上級キュヴェはアルベレッロですが、ほとんどは、コストを下げるためにスパッリエーラで栽培しています。

 スパッリエーラは、機械がブドウの樹列の中に入るため、列と列の間を広く取らなければなりません。そのため、植樹密度が下がり、面積あたりの収量をアルベレッロと同じぐらい得ようとすれば、樹1本あたりの収量が大きくなります(樹と樹の間隔が1~1.5m、樹の列の間隔が2~2.5m、1haあたりの植樹密度は3,500~4,000本)。結果、質の高いブドウは得られません。

 スパッリエーラで質の高いブドウが得られないわけではないのです。例えばブルゴーニュでは、機械が畑にあうように改良され、ブドウの樹列の上を通る背の高い機械を導入。それによってブルゴーニュは、樹列の間隔を狭め、植樹密度を上げることに成功しました。しかし、エトナではそうではなく、畑がブドウにあわせてしまったため、一般的なエトナのスパッリエーラは植樹密度が低いのです。エトナにも、ブルゴーニュで用いられている機械を使おうという人もいなかったわけではありません。しかし、私も【グルフィ】で経験しましたが、土壌に石が多いエトナの畑では、機械の背が高いゆえに安定感が悪く、非実用的です。現在でもエトナでブルゴーニュのようにスパッリエーラで植樹密度を高めて栽培を行っているワイナリーには、フランケッティ氏の《パッソ・ピッシャーロ》が挙げられます。

 ペルゴラ(棚仕立て)では、高さ約2mのところに棚を築きます。樹と樹の間隔が3mほどですから、1haあたりの植樹本数は1,000本にしかなりません。確かにこの方法では、ブドウの葉は太陽の光を存分に浴びることができますが、仮に1haあたりの収量が40,000kgだとすると、1本の樹から収穫するブドウは40kgにもなります。これは、大量生産のための栽培方法です。

カリカンテ

カリカンテ

ミロ村の土壌

ミロ村の土壌

ネレッロ・マスカレーゼ

ネレッロ・マスカレーゼ

ネレッロ・カップッチョ

ネレッロ・カップッチョ

 

 一方アルベレッロでは、1本1本の樹が独立し、機械も用いないため植樹密度が高くなります。(樹と樹の間隔は1m、1haあたりの植樹密度は10,000本。)

 エトナで、ネレッロ・マスカレーゼをアルベレッロで栽培することには、いくつもの利点があります。まず、ネレッロ・マスカレーゼにはアルベレッロでの栽培が適しています。経験上、そして研究の結果、質の高いブドウが得られる(①)ことがわかっています。実際にスパッリエーラでネレッロ・マスカレーゼとカッリカンテの栽培をやってみたことがありますが、得られるブドウの質は、アルベレッロのほうが高かった。他のブドウに関しては、実際に 試してないのでわかりませんが。

 次に、アルベレッロでは、樹をさえぎるものが360度ないため、風通しがよく、病気になりにくい(②)ということが挙げられます。3つ目として、アルベレッロで栽培されているブドウの樹は、土壌を酷使しません(③)。与えられるもののうち、自分が必要なものだけを、必要な分だけ吸収するのです。土壌やその地域の環境と調和し、樹にも多くのストレスをかけないため、バランスをとりながらの継続的な栽培が可能(③)です。長く存続すれば、当然ブドウの樹齢もあがります(③)。与えてくれるものだけを使うという点では、ビオディナミ(もしくはそのように言われているもの)に近い考え方かもしれません。4つ目、アルベレッロで栽培されているブドウ畑では、1本1本の樹に対して作業を行わなければならないため、各々の樹と対話しながらの栽培が可能(④)です。1本1本の樹に適した作業ができるのです。機械だったら、音楽を聴きながらでも作業は進むかもしれませんが、この方法では、きちんと樹と向き合わなくてはなりません。また、機械を入れてしまうと、非常にスピーディーに作業を行うことは可能ですが、重さで畑の土を固めてしまいます。

 アルベレッロでの栽培では、年間200日の作業が必要となります。スパッリエーラでは、年間50~60日ですみます。私たちは、1haあたり2人の栽培家をおいていて、十分に手入れを行うことができているので、人数が足りないからこれだけの日数が必要というわけではありません。質の高いブドウを得ようとした結果なのです。アルベレッロでは1人で1日あたり400~500本の樹しか手入れできませんが、機械だと数千本から数万本の樹の手入れが可能です。アルベレッロは、手間と時間と労力、そして経験が必要な栽培方法なのです。

 

エトナの二人の名物マンマ

 サルヴォ一家とともに満喫した地元のレストランは、どちらもマンマが素晴らしい腕をふるっていました。

≪ミロ村 4ARCHE(クアトロ・アルケ)≫
 ミロ村のレストラン、4ARCHE。こんな山奥のレストランで、1,2階あわせて100席もあるお店。1日4回転もするらしく、夜10時を過ぎても、立って待っている人で一杯です。エトナで唯一のスローフード協会認定店で、地元の旬の食材しか使わない。料理人は女性ばかりで、マンマと聞いたので、もっと年配の方かと思ったら、お若いマンマでした。(下写真・左上)もともと店の掃除係だったそうですが、ある日、パスタ担当の人が辞めてしまった。そこで、「私作りましょうか?」ということになって、それが素晴らしく美味しかった。以来20年以上、このお店で料理をしているそうです。小さい頃から、美味しい食事を楽しむ家で、地元の料理が身について育たれたのでしょうね。

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≪ランダッツォ村 San Giorgio Il Drago(サン・ジョルジオ・イル・ドラーゴ≫
 サルヴォがエトナで最も好きなレストラン、San Giorgio Il Drago (1492年に建築が始まった修道院跡)。80歳で今夜も満席の料理を作るパオリーナさん(下・左上)、現役のマンマです。素晴らしいお料理の数々をいただきましたが、エジプトインゲンとトマト、玉ねぎとペッコリーノ炒めが絶妙でした。

IMG_4391 赤いエプロンのおばあさん作2

赤いエプロンのおばあさん作 Vinudilice 2014

合田 泰子

 

 
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