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エッセイ:Vol.110 【幕間の雑談】力を疑え

 [おことわり]ワイン原論は、今月は夏休み。なので、代わりの幕間狂言として、「力」談義をご笑覧ください。

 

ワインに力?

 ワインには、とてつもない力が備わっているのは、ご存じのとおり。語呂合わせではないが、そのひとつが、魅力だ。英語なら、さしずめワインの“charm”“appeal”“fascination”といったところ。だが、これらの単語にはさいわい、力を直接連想させる“power”や“force”といった野暮な気配はない。

 

日本人の力好み

 そこでいきなり飛躍する。どういうわけか日本人は、色と力が好きらしい。なぜかといえば、そこら中に「力」という言葉があふれ、氾濫しているから。身近なところでは、思考に関係する分野だけをとってみても、

〈集中、思考、記憶、想像、創造、影響〉‥‥

と、力があふれている。

 どうして、そんなことが気になるのか、ですって? 力という言葉には、本能的になにか危うさを感じるのです。およそ力やエネルギーは、便利かもしれないが、危険なもの。とかく抑制が効きにくいのは、たとえば原子力や核エネルギーを考えればすぐわかる。

 

力の意味

 それでは、日本語に添え字のようにつきまとう「力」は、なにを意味しているのだろうか? 一般論だが、ある日本語や文章、その用法が気になり、「おかしいな」と感じたとき、英語ではなんというのか考えると、ヒントが得られることがおおい。問題のありかが明らかになり、ひょっとすると謎が解けるかもしれない。

 たとえば、上にあげた一連の言葉、〈集中力、…〉に対応する英単語は、次のようだろう。

〈Concentration, thinking, memory, imagination, effect〉…

  ご覧のとおり、原語には力に相当する特別な言葉は添えられていない。とすると、それらの和訳語に、「力」を添える必要はあるのだろうか。(注)

注)「英語」とか「語学」もおかしい。外国語が読み書きでき、使えるという状態をさすのに、もっともらしく「力」を添えて能力を誇示するのは、神秘化や特権化の役にしかたたない。

 

力は作用

 思うに、これらの訳語を補うかのように添えられた「力」は、作用を意味するのだろう。たとえばサルトルの“L’Imaginaire”の邦訳タイトルは、『想像力の問題』で、やはり想像に「力」が付いている。けれども、想像力は想像作用、集中力は集中作用、といいかえることができるのではなかろうか。

 それでは、訳語ではなく、和語に「力」を添えるばあいはどうか。たとえば、女子力や老人力は? たぶん、勘のいい赤瀬川源平さんは、あからさまな老化作用あるいは老化現象を、ユーモラスな表現に言いかえたのだろう。まあ、わたしの発想など、どのみちユニークな発想力とは無縁で、たんなる老化現象に過ぎないかもしれない。

 

生命力という難問

 抽象名詞に「力」が付いていると、見かけ上だけにしろ、言葉が勢いづき、説得力や説明力――またしても力だらけだが、これらの言葉を見ても感じられるとおり――が、ぐんと向上し、権威さえ帯びかねない。たとえば表現力や抽象力、描写力、予言力など。

 科学のばあい、物理学以外で説明原理としてよく持ち出される「○○力」という用語は、歴史をたどると後世に全面否定されることが多い(物理学で正確に定義される「力」言葉――たとえば重力――は、その例外なのだ)。

 そこで、生命力。生命という現象が定義しにくいことは、先般からしつこく述べたとおりで、そこに「力」が付くと、いっそう定義しにくい。常識的には、生物に生命があり、それを動かすのが生命力、という想定なのだろうが、後段は比喩的な表現にすぎない。

 免疫力という言葉も、またしかり。「強靭な生命力」とか「強い免疫力をつくる」といった比喩や広告表現をとる。たしかに、「生命力」や「免疫力」という言葉には科学的なイメージや響きがあるが、意味内容は規定しにくく、医学や生理学ではそういう用語(ターム)は通用しない。

 

【付録】生命論から生気論へ

 話は転じる。生物学では長らく「生気論」(vitalism)と「機械論」(mechanism) が争われたが、近代では生気論は異端視され、ほぼ抹殺の憂き目にあった。じじつ、20世紀後半に分子生物学が誕生したあと、機械論が圧勝したと目されている(大森荘蔵「生気論と機械論」:野田春彦編『生命論』に含まれる)。機械論者であったデカルトの心身二元論は、心と身体の別を説き、身体は機械でもって説明される(が、デカルト自身は、両者の区分けは困難と認識していたとか)。

 だが、より深みと説得力をそなえた、これらとは異質な科学観がすでに存在していた。20世紀の前半、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが登場してユニークな「環世界」論を説き、生物主体の環世界(Umwelt)は種別にも個体別にも異なり、すべての生物に共通する客観的な世界などないとした(『生物から見た世界』岩波文庫)。また、ほぼ同時期に実験生物学者ハンス・ドリーシュは生気論を徹底的に見直し、より強固なものにした(ドリーシュ『生気論の歴史と理論』米本昌平訳)。  

 両者をふまえたのが、科学哲学者の米本昌平による、画期的な『バイオエピステモロジー』(書籍工房早山、2015)。ドリーシュを再発見し、生気論の現代的な意義を鮮やかに説いてみせた。また養老孟司の『唯脳論』は、機械論をふまえながら「心は脳の機能である」と断言。デカルトの混乱を立て直して、世界観を再構成した。

 とすれば、人体は精密な機械などではなく、AIは脳にはるかに及ばない。けれども、あなたの脳の働きと心が、よりよく身体を統括支配しているかどうかは、別の話である。

 

力嫌い

 こうしてあれこれ思案すると、どうやらわたしは“power”や“force”とは無縁な存在で、たとえば“power elite”や“military force”といった、権力や制度、軍隊や戦争の臭気を漂わせる言葉が、生来肌に合わないのだ。

 としても、いったい“power”とはなんだろうか? ここは冗談交じりに、かの人気者フォルスタッフの流儀でいくとしようか。『ヘンリー四世』や『真夏の夜の夢』の世界をにぎやかにかたどる、臆病なくせに言葉ばかりで空元気な、愛すべき太っちょである。「パワーとは、なにか? 言葉だ。言葉とはなにか? 空気だ。なに、そんな『勇気』なんて、吹けば飛ぶようなもの。ふん、これこのとおり。だから勇気なんか、空気も同然、無視してしまえ」と。

 まあ、勇気の是非は別として、言葉は空気というのは面白い。言葉は、事実を離れた、仮構の世界を構築するための素材にすぎないのだから。とすれば、言葉を、そのまま信じてはいけない。「力」という言葉もまた同様である。

 

権力と腐敗

 しかし、まあ、空虚な言葉は無視してもよいが、そもそも危険な「権力」を無視するわけにはいかない。 そういえば、去年パリの古本屋でのこと。大好きなイギリス人作家、ハロルド・アクトンの著作や評伝を漁っていたら、学がある痩身の店主が、別人の歴史家・アクトン卿の本を勧めてきた。親父さんは説明口調でもって、アクトンの有名なテーゼをつぶやく。

 「権力 (right)は腐敗する。絶対的な権力は‥」といいかけたので、あわててその口を封じるかのように、こちらも“(Absolute right) corrupts absolutely”「絶対的に腐敗する」と、後を続けたものだ。同好の士は、どこにでもいるようである。

 さてと、どこの国でも権力に腐敗はつきものとおぼしく、暴力の独占機構である国家=権力は、ともすれば自家中毒にかかり、政治は腐臭を放ちがち。ちなみに化学の世界では、発酵と腐敗は同一現象または、同種の細菌や酵母の作用をさすらしい。肉の熟成もまた、腐敗と紙一重のようだ。

 

熟成と腐敗のかおり

 思うに、東方のこの地に近年やたらにちらつく「熟成肉」は、パリの名店Bなどで(かつて)入手できた絶妙な熟成肉とは異質とみえ、微妙な臭気やそれとわかる腐敗臭を帯びがち。当今のジャーナリズムや流行などに惑わされて、美味ならざる「熟成肉」を追いまわし、腐敗臭を熟成風味と取り違えるような愚は、避けるにしくはない。

 それにしても、この地の政治にまつわる妖気異臭、おぞましい権力臭、早くもにおい出した特異な独裁体制臭には、鼻をそむけたくなる。とはいえ、こんなご時世に目や鼻を覆い、のほほんとワイン浸りで気炎をあげているわけにはいかない。

 

ワインの熟成力

 ワインの世界にも「力」が多く、熟成力とか生命力、はては重力とか重心という言葉が跋扈しているから、科学めかした比喩には気をつけるほかない。

 そこで、ワインの「熟成力」。その“力”が意味しているのは、積極的に保ち向上する質を備えている、という見込みや可能性をさすのだろう。とすれば、ここでもワインに内在する熟成作用と言いかえられる。とすれば、テロワールという言葉もおなじ。

 「テロワール」には、特定の風土や気候環境が「可能性として備える」はずの、共通した個性からの作用が想定されている。とすれば、いっそテロワールは「テロワール作用」と呼んだほうが、神秘化を避けられて適切かもしれない。言葉をいきなり実体化して、あたかもテロワールが実在するかのように誤解してはなるまい。

 

ワインと力

 およそ観念や概念は、幾何学でいう補助線のようなものであるから、より効果的で美しい補助線の引き方があったら、そちらを採用した方がよい。テロワールの神秘化を懸念したマット・クレイマーのように、“somewhere‐ness”(どこからしさ)と言えばいいのだ。

 ニュートン力学ならば、力と質量が組み合わさると一定の運動が生じ、物体はどこやらの方向へ移動して止まるとやら。その行先は、“somewhere-ness”(どこへやら)ですかね。「欲望という名の電車」の行先は地獄かもしれないが、テロワールの可能性を身につけたはずのワインの行先は、どこへやら。力の行く末は、可笑しくもおそろしい。

 
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