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『ラシーヌ便り』no. 129

公開日: : 最終更新日:2016/08/04 定番エッセイ, 合田 泰子のラシーヌ便り, ライブラリー

no.129

1.ドゥニ・デュブルデュー先生の思い出

 ボルドー大学教授で、ワインコンサルトのドゥニ・デュブルデュー先生が亡くなられました。なぜ先生かというと、私は1987年にボルドー大学のD.U.A.D.(Diplome Universitaire d’Aptitude a la Degustation)を受講し、先生に教わったからです。当時の私は、ワインについてはまったくの素人だったのですが、滞在許可証を取得するためにボルドー大学に行ったことがきっかけで、この講義を受けました。今では、考えられないことですが、30年近く前は受講生も少なく、その場で申し込みができたのです。

ドゥニ・デュブルデュー先生 1993年9月撮影

 ワインのことを何も知らずに行ったのですから、大学の講義はほとんど理解できず、毎回テイスティングだけを楽しみにしていました。1987年当時は、ボルドー全体が大変革のさなかにありました。エミール・ペイノー教授によって近代的な醸造が確立され、リベロー・ガイヨンとドゥニ・デュブルデューの両巨頭によって、ボルドー大学醸造研究所の研究がそのまま、世界中の醸造技術を牽引していきました。温度コントロールによる発酵の安定、タニンの抽出調整などの技術革新により、ワインは若いうちからしなやかでみずみずしいバランスがとれ、フィネスにあふれたスタイルを身につけたものとなりました。

 1993年、ジャン=マリー・ギュファンスと仕事を始めるにあたり、ジャン=マリーとの話の中で、定期的に自家用飛行機で、ボルドーに通ってデュブルデュー教授に教えをこいに行っていると聞き、教授に話を伺いに行ったことがあります。「教え子が、卒業後ワイン・ビジネスの世界で、いい仕事をしてくれて、大変うれしい」と、ワインのバイヤーとして仕事を続けていることを大変喜んでくださいました。 当時ほとんど価値を認められていなかったと言えばしかられますが、ボルドーの辛口白ワインは、王座に君臨するブルゴーニュのシャルドネ酒と比べ、並酒としての地位に甘んじていました。デュブルデュー教授は、白ワインの改革の騎士と呼ばれ、ボルドーの白ワインを、高級ワインへと導いた立役者でした。晩年は、「白ワインの法王」と呼ばれましたが、当時ボルドーの白ワインで、高額で流通しているものといえば、オーブリオン・ブラン、ドメーヌ・ド・シュヴァリエぐらいでした。教授の登場によって、シャトー・ド・フューザル、シャトー・カルボニュー、ラ・ルヴィエール等のワインが新樽香をまとい、洗練されたワインとして評価され、おりしもロバート・パーカーの『ワイン・アドヴォケイト』全盛期とかさなり、世界中に広まりました。私も1988年に帰国し、最初に職をえた(有)八田商店で、ドメーヌ・ド・シュヴァリエ、フューザル、ル・ボナ、シャトー・レイノンを輸入し、有楽町西武の酒蔵、小飼一至さん(ソムリエ協会会長)のおられたプリンスホテルや、銀座のレストランに納めさせていただきました。先生は、コンサルタント、ボルドー大学教授であると同時にシャトー・ドワジー・デーヌ、シャトー・ダルシャンボー、シャトー・カントゥメルル、クロ・フロリデーヌ、シャトー・レイノンのオーナーとしても家業を大成功に導き、時代の寵児としてワイン・人生を送られました。

 山本昭彦さんの追悼記事に、「ワインのろ過(フィルター)について質問した際、『ろ過せずにワインを詰めるのは、レーダーなしで旅客機を空港に着陸させるようなもの』と、研究者らしい慎重な答えをしたのをよく覚えている」 とありました。ジャン=マリーは、ネゴシアン・ヴェルジェは濾過をしてびん詰していましたが、1970年代のコント・ラフォンのようなワインを造りたいと思っていたので、ドメーヌものは無濾過でびん詰していました。そのことについて、先生に濾過の役割について質問をしましたら、「濾過をすれば、風味、味わいの99%がそぎ落とされる」と断言されたことを鮮明におぼえています。大規模なマーケットに広く販売するワインと、私たちが取り組むワインとは、流通経路も最終消費者も異なるということを、その時強く感じたことを覚えています。

 それから時をへて、私自身のワイン観は、どんどん変化し、1996年、塚原とル・テロワールをたちあげ、ヴァン・ナチュールとの出会いを境に、ともに歩む造り手たちの顔ぶれが大きく変わりました。その後も偶然の出会いのさい、先生はご自分の所有するワイナリーのワインを扱ってみたら、と優しくいってくださいました。けれども、すでに私の関心は近代的なボルドー白ワインから離れていたので、折角のお申し出でしたが丁重にお断りしました。

1993年9月撮影

 1987年にボルドーで過ごした貴重な経験、ボルドーが近代化になる前の最後のエポックのワインを経験できたことは、私のワイン人生の大きな宝です。その中で、何もわからず、夢中で本を読み、ワイン法で成りたつフランスのワイン全体像をつかもうと、がむしゃらになっていた日々、日本からやってきた、ほとんどワインも飲んだことのない者に、優しく接してくださった、丹精でお優しい顔が大きな思い出です。先生、ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

2昨今のギリシャワインに思う

 「『ルージュ・エ・ブラン』25周年記念を飾るのに、ディオニュソスの地はなんと美しい目的地だろうか。」

 2009年2月、フランソワ・モレルが発したこの言葉に導かれ、私たちは初めてギリシャの優れたワインに出会いました。とくに、フィロキセラのいない高樹齢のブドウから生まれる島々のワインには、ユニークで奥深い味わいがあったのに驚嘆し、輸入を始めました。

 「ギリシャワインを味わって、イタリア・フランスから時代をさかのぼるワインの旅を楽しみませんか。」(2009年5月)を案内の標語としたことを、鮮明に記憶しています。

 それから早や7年の時が経ちました。その間、ギリシャの経済危機という大問題もあり、いまなおその解決とはほど遠いありさまながら、おかげさまでワインの出来はその影響をこうむらずに健在です。

 最近では、ギリシャワインの大型生産者たちが、ギリシャ政府の支援をうけたためとおぼしく、国際マーケット向けに大規模のプロモーションを展開しはじめたようです。そのため内外のワイン専門誌で、ギリシャワインの記事を目にすることが多くなりました。が、どうやら私たちの扱っている小生産者たちの名は、そのようなひもつきパブリシティ活動の恩恵に浴さなかったとみえて、マスコミや講演会などにはまず登場しません。けれども、各生産者の意気込みとワインの仕上がりは、以前にもまして素晴らしく、他の追撃を許さない高みを保ち続けていることを、誇りをもってご報告いたします。

ReB表紙

 2012年3月から1年間ほど、ラングドックのレオン・バラルでの研修を終えた合田玲英が、ケファロニア島の造り手・スクラヴォスに滞在し、ギリシャでのワイン・ルネッサンスの現状を体験しました。その間に玲英は、ラシーヌのヴァン・ナチュールとの取組かたを生産者に伝えるとともに、先進地におけるヴァン・ナチュールの考え方と状況をもお伝えし、意見交換に努めました。皆様にご好評いただいているスクラヴォスのヴァン・ド・ターブル・ルージュとブランならびにヌーヴォーは、その中から生まれました。

 亜硫酸使用量の減らし方については、まだ相対的に遅れているようでした。クレタ島の赤ワイン〈シティア〉(ドメーヌ・エコノム)では、「亜硫酸非使用ヴァン・ナチュール」のレヴェルです。けれども、他のワインについては、ヴァン・ナチュールの観点からみると使用量はまだまだ高いのですが、2011年に比べて現在は半分近くに減ってきました。 

 扱っているワインの樹齢が高いせいもあって収量が大変少ないため、決して手頃な価格ではありませんが、ユニークな個性と自根ブドウゆえのスケール感と深さを感じることができます。稀にみる上質な味わいのなかに、固有品種のあふれんばかりの個性を、味わうたびに感じとれます。ヨーロッパにおけるブドウ栽培の源流という、特異な歴史の豊さをあますことなく伝える、ギリシャワインの素晴らしさに感嘆してしまいます。

 でも、産地の視点から「ギリシャワイン」のカテゴリーとして受け止められてしまうと、フィルターがかかってしまい、ワインのもつ圧倒的な実力と魅力がしぼみかねません。

 レストランやワイン専門店の業態によっては、ギリシャ産ゆえにワインリストに載せるのを、ためらわれるむきもあるようです。が、ギリシャワインというカテゴリーを超えた、ファインワインとして、ぜひ経験していただきたいのです。

 国別の料理スタイルにこだわらず、あらゆるレストランの方々、特にイタリアレストランさまには、注目すべきファインワインとして、ワインファンにご紹介いただきたいと思います。歴史的な由緒をたどると、ローマ時代とビザンツ帝国(東ローマ帝国)時代、ギリシャはローマ帝国に属し、イタリアの特に南部はギリシャ文明とギリシャワインの影響を強くうけていたのですから。

 振りかえれば、ギリシャのフィロキセラのいない栽培環境と、フランスやイタリアのワインの歴史の原点としてワイン造りの歴史に惹かれて、紹介を始めました。その後、ジョージア(2012年12月)、カッパドキア(2014年3月)、チリ(2014年12月)と、私たちにとって未知の国々で、括目すべきワイン生産者との仕事が始まりました。

 ジョージアと、ウド・ヒルシュが作るカッパドキア(樹齢100年から500年に及ぶ)では、アンフォラでの醸造から生まれる独特の優美なテクスチュアに、強く惹かれました。なにしろ、紀元前数千年前に始まったと言われるワイン発祥について、起源争いをするくらいの歴史をふまえたワイン造りですから、現状と可能性を探りながらの旅になりました。

 またチリには、樹齢300年から400年に及ぶパイス種のブドウ樹が今なお栽培されており、マルセル・ラピエールのもとで研鑽したフランス人醸造家ルイ=アントワーヌ・リュイットの眼力と力量が発揮された、ヴァン・ナチュールのユニークさに惹かれました。

 数年前は、まさかこのような国々のワインと取り組むことになるとは思いもしませんでしたが、それぞれの土地で、優れた造り手が生み出すワインの面白さ、素晴らしさは、私たち(塚原・合田)の心をとらえて離しません。産地と国を超えて、優れたワインの面白さ、素晴らしさを多くの方々に楽しんでいただきたいと切に願います。

 9月には、しばらく品切れしていましたエコノムのシティアをふくむ、新ヴィンテッジが入荷します。ギリシャワインのお試しキャンペーンをご案内いたしますので、是非ご利用ください。

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3.合田泰子の怒りと悲しみ!

 とあるワイン会のあと、ワインバーに流れました。そこではなんと、素晴らしいシャンパーニュ4種類が同時にあいていました。ブノワ・ライエのナチュレッソンスと、マルゲのエレモン・オンズ・グラン・クリュ以外にも、あと2種類のレコルタン・マニピュランを代表する、繊細で美しいシャンパーニュです。

 ところが、その「2種類」のシャンパーニュを味わって、瞬時に全身が悲しみと怒りでいっぱいになりました。一瞬、「えっ、これなに?」と思い、その後「こんな味ではない」と怒りが込み上げてくるのを、抑えることが出来ませんでした。現地での味わいや、さまざまな機会で味わい知るものとは、全く異質なのです。見知った造り手たちの顔を思い浮かべ、シャンパーニュが可哀そうで、このような仕事の仕方はひどすぎると思いました。

 今の時代、まさかドライコンテナで輸送するインポーターはいないはずにしても、コンディションを維持するために、細心の注意を続けることの重要さを痛感しました。造り手から船会社の倉庫までの過程での細やかな手配、実際に冷蔵トラックで輸送されているかの確認、日本について港から保税・通関・保管の過程、そのすべてに14℃を徹底することは至難の業で、そう簡単にはいきません。それを実現するには、根気よく船会社と細かな手順を積み重ね、温度計の設置、人手、一つ一つ大変費用がかかります。

 それだけでなく、倉庫管理の温度も通称温度と実温度が異なることが珍しくないのですが、ラシーヌでは14度から15度の間で徹底しています。年間の諸経費は、倉庫保管料だけでも数百万から千万円の幅で他社と差があることでしょう。が、それらの手数と経費はすべて、造り手のオリジナルの味わいをゆがめることなくお届けしたいからです。造り手とそのワインにたいする責任がある以上、ラシーヌは努力し続けます。 

 

4.最近飲んだワインから

ガッティ:地味のそこ力

 プロセッコの地でプロセッコをあえて名乗らない、発泡性ワイン「ガッティ」をご存知ですか? じつは昨年の春から仕入れています。  

 伝統的なブドウ栽培と造りかたに徹した、ひなびたワインですが、まっすぐで余計な味がなく、目に見えないうまみが隠れています。他のペティヤン・ナチュレルと同時に飲んでみると、ガッティがどれほど上質なワインであるかがよくわかります。

 たまたま、そういう飲みくらべになってしまったのですが、「素朴な、少し野暮ったいワインでは」と私自身思い込んでいたのに、なんのなんの、イタリアらしい面白さと、のびやかさがあり、味わいに「潔さ」といいますか、かっこよさを感じます。暖かさとシャープさという、一見あい反する要素がないまぜの魅力になっているのです。頑固なカロリーナさんが、楽しみながらワインを造っているのがよく感じられます。

 この夏、冷たく冷やして「ガッティ」をお楽しみください。

合田泰子

ヴィノテークno.441 (2016年8月号)広告

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