エッセイ:Vol.109 わたしのワイン原論 [3]
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定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
Ⅲ.ワインの定義の試み
1)前置きとして:ワインに本質はあるか?
―〈本質と現象〉についての堂々巡り―
これまでのところ、なかば遊び心、なかば本気でもって、ワインを定義しようとしてきました。前回の試みでは、「ワインは『魂の交流の場』」と題しながら、こう述べました。
「良いワインは、たんに美味しいという域をこえ、作り手と飲み手との間をとりもって、たがいに共鳴・共感させることができる―この共鳴共感理論こそ、わたしのワイン観の根底にある考え方です」
つまり、魂や心のコミュニケーション媒体(あるいは媒介作用をするもの)という、ワインのはたす特別な役割を強調したわけです。けれども、このような考え方は「わたしのワイン観」であったとしても。ワインの定義としては、あまりに特殊なような気がします(注)。
(注)この考え方を飲み手に当てはめれば、「ワインには、飲み手どうしが心を通わるのを促す機能がある」となります。が、これはワインにかぎらず酒一般についてあてはまること。あまりに陳腐なので、ことさらワインの定義にはなりません。
ここは、一刀両断に「これがワインだ」と言いきれるような、明快な定義がほしくなるところですね。ところが、そういう発想がじつは危険でもあるのです。なにかワインの本質のようなものを、想定しがちだからです。どうして、本質がいけないのでしょうか?
ややこしいことをいえば、本質という言葉を使ったとたんに、ある思想的な立場とか世界観を選んだことになるからです。その立場とは、
〈本質と現象を対立概念として、現象の背後に本質がある〉
という、定型的な見方です。まあ、むずかしくいえば、基底還元主義というらしいのですが、えてしてマルクスやフロイトのように、有無を言わせないような大がかりな説明原理をもちだすのですね。たとえば「下部構造(経済構造、性)が、上部構造(文化、精神)を規定する」といったぐあいに(注)。
(注)ちなみに本質=神だとすると、神はいたるところにあって外に現れでるから、「神は細部に宿る」となりますが、「悪魔は細部に宿る」という対の表現もあって、どちらが真実なのだろうか。
さて、そのような見方をする人にかぎって、「本質は変わらない」という決まり文句をつかうから、こういう月並みな表現をする人には、だれでも気がつくはずです。でも、たとえば「ワインの本質は変わらない」という文章には、どのような内容があるのでしょうか。
2)麻井さん、あなたも… Est-tu, Brute?
さて、そのような本質論者のひとりが、麻井宇介さんでした。がんらい科学技術畑の出身で誠実な努力家だった麻井さんは、思想や人文科学という分野におおいなる興味をもって独学したのでしょう。食の文化人類学は、京都大学系の中尾佐助さんや石毛直道さんあたりから学んだはずです(注)。
(注)わたしは、このご両人にあったことがあるが、中尾さんの天才的な勘と鋭い舌鋒、独創的な論理化の筋道は、麻井さんとは異質。(参考:『中尾佐助著作集』1・2、北海道大学出版会)むしろ、おおらかで親切、啓発的な石毛さんに近い印象をうけた。
それにしても、啓発的な名著『比較ワイン文化考』に、「ワインの本質」という言葉が頻出しますが、それが麻井さんの発想のパターンなのです。たぶん、そういう発想法を、麻井さんは論理的だと考えたのでしょうが、いかにも講談師の名調子のように響きかねません。が、どんな結論であっても「本質は…です」と断定できる便利な論法は、一種の〈決めつけ〉なのであって、あまり生産的ではありません。ワインのもつ複雑で多様な可能性を矮小化し、ア・プリオリにひとつの型に押し込めかねないのです。
3)今回の定義の試み
そこで、本質という言葉を敬遠しながら、ワインのありかを探りつづけると、前回までとは異なる定義も可能だと気づきました。それは、
「ワインは、生物と無生物のあいだにある、生命を宿したものである」
です。いささか福岡伸一さん好みの命題ですがね。
それでは、なぜ、このようなあいまいな表現をするのでしょうか。トートロジーのようですが、〈ワインには生命が宿っている〉と、日ごろわたしは感じているからです。
むろん問題は、生物ではなくて、生命あるいは生命現象にあります。生命は、生物学や科学だけではなくて、哲学や人文科学でも、難しい問題の筆頭格にあります。いわば、うっかりワインという藪をつついて、いきなり生命という蛇が出てきたようなもの。こんな難問中の難問に、わたしごときが答えられるわけがありません。というわけで、以下は、その場しのぎの中間レポートめいたものと、お心得ください。
「生命とは何か」を問う、王道の3編
そこで、「生命とはなにか」という大問題に正面から取り組んだ、志のたかい同名の雄編を見ることからはじめましょう。
a) シュレーディンガー『生命とは何か』“What is Life?” 1944
(岡小天・鎮目恭男訳、岩波文庫、2008。なお両氏初訳の岩波新書版は1951・刊)
b) リン・マーギュリス、ドリオン・セーガン『生命とはなにか』“What Is Life?”1995
(池田信夫訳、せりか書房、1998)
c) 金子邦彦『生命とは何か』
(東京大学出版会、2003)
*
a) シュレーディンガー『生命とは何か』
副題は「物理的に見た生細胞」。量子力学の創始者で波動方程式の創案者シュレーディンガーの手になる、新たな生命科学の提唱。同名の書物を著したリン・マーギュリスと金子邦彦がともに著者に大いなる敬意を払うのは当然としても、J.B.S.ホールデインやフランシス・クリックなどの大御所が、こぞって本書から影響をうけています(ロジャー・ペンローズのケンブリッジ大学出版部“Canto CLASSICS”序文より)。なお、シュレーディンガーの『精神と物質』などの哲学書も興味深いが、東西の哲学に明るい湯川秀樹はあまり評価していないのが面白い。
同書について、b) リン・マーギュリス、ドリオン・セーガンによる要約を引けば
「生命を定義することは『明らかに不可能』であるが、それは最終的には物理学や化学によって説明されるであろう。生命は結晶―奇妙な『非周期性結晶』―のように成長しながら、その構造を反復してゆく、と彼は主張した」(p.15)とあります(注)。
(注)「生命を定義することは明らかに不可能」とされているが、ケンブリッジ版の英文に該当箇所は見当たらず、岩波文庫版でも次のような訳文しか見つからない。
シュレーディンガー自身によれば、彼が本書で解こうとした疑問は、「「生きている生物体の空間的境界の内部で起こる時間・空間的事象(引用者注:いわゆる生命現象)は、物理学と化学によってどのように説明されるか?」です。(…が)「今日の物理学と化学とが、このような事象を説明する力を明らかにもっていないからといって、これらの科学がそれを説明できないのではないか、と考えてはならないのです。」
したがって、シュレーディンガーは、生命の定義は不可能とは述べておらず、当座のところは説明できない、としか言っていません。
なお、著者の「非周期的結晶」そのものは認知されていないにしても、「(人体の大きさと細胞数の多さに対して)原子はなぜそんなに小さいのか」という章は、とても説得力があって、物理学に無知なわたしですら納得せざるを得ませんでした。
b) リン・マーギュリス、ドリオン・セーガン『生命とはなにか』
リン・マーギュリス女史は、真核細胞内にあって、その細胞と生命体全体にエネルギーを供給するという大役を担うミトコンドリアは、バクテリア=細菌に由来する、という連続細胞内共生説(SET)の提唱者として名高い。なお共著者のドリオン・セーガンは、リンの前夫だった天文学者カール・セーガンとリンとの間の子息で、サイエンス・ライター。
おまけに翻訳書の訳者は、多芸なブロギストで、論理明晰な経済学者でかつ経済評論家の池田信夫さん。生物学の専門家ではないにしても、内容の把握が論理的で正確だから、安心して読む楽しみにひたることができます。
さて、リン母子による共著は、第一章「生命―永遠の謎」で明言するとおり、「科学性を犠牲にすることなく生命の全体像を描くことによって、シュレーディンガーの本の題名だけでなく、その精神をもよみがえらそうとするものである。私たちは生物学に生命をとり戻したいのである」(p.14) 。まことに意気軒昂で、問題意識も論理も明快なうえ、生命と生物学についてすばらしく見晴らしがよい。
たとえば、生命とはなにかについて、次のようにトーマス・マンの『魔の山』を的確に引証しています。
「生命とは何であろうか? それはだれにもわからない。生命は、疑いもなく、生命になった瞬間から自分を意識しているのだが、しかし、自分が何であるのかを知らない……生命は物質でもないし、魂でもない。それは、物質と魂の中間にあるもので、滝にかかる虹のように、また炎のように、物質によって生み出された一現象である。しかし生命は物質ではないとはいいながら、快感や嫌悪を感じさせるほど官能的なもので、自分自身を感じうるほど敏感になった物質の淫蕩な姿、存在のみだらな形式である(以下、略)。」
また、生命の定義という観点からとても興味深いのは、1~8章それぞれの内容をふまえて、各章の末尾に、「それでは生命とはなにか?」をのせ、多面的に生命現象をとらえようとしていることです。
*生命は「芸術的にコントロールされたカオスであり、驚異的に複雑な一連の化学反応である」(第1章「生命―永遠の謎」)
*「生命とは宇宙が人間という形で自分自身に提示した疑問である」(第2章「失われた魂」)
*「生命は、共生によって進化した個体の奇妙に新しい果実である。(…」生命は多くの偶然を利用する巧妙な仕組みである。)(第5章「永遠の合体」
そのうえ、「感覚のシンフォニー」と銘打たれた第9章は、生命とはなにかを再考したうえで、たんなる進化論の説明に堕さず、ダーウィンとサミュエル・バトラーの確執を深く論じていて、英文学愛好家にとっても興味津々です。
なお、リン・マーギュリスには母子共作が多い。けれども、たとえばリンの単独著作『強制生命体の30億年』“Symbiotic Planet”1999 (中村桂子訳、草思社、2000)には歯切れの良い主張と、勢いのある論理があって、一気に読ませる力があるので、ぜひ一読することをお勧めします。
c) 金子邦彦『生命とは何か』
「複雑系生命論序説」と副題された本書は、複雑系の方法論にのっとり、「生命の力学的モデル」を採って生命現象の総体にたいして分析をくわえた野心作で、現代の科学的な精神のありかを示す仰天の快著です。わたしのような「生物科学の素人」にも、著者の心意気と、狙った高みがひしと伝わってきて、心地よい緊張感と刺激が味わえます。
俊英、金子さんの大著の冒頭は、「生命とは何か――この問いは誰しも一度は抱き、そしてなかなか決定的に答えられないでいるにちがいない」とあります。賢明にも著者は、「(DNAなどの)分子の性質に帰着させずに、生命の条件を定義しなければならない」としたうえで、「生命システムに共通に成り立つ性質」がなぜ生じるのか、(…)どのような条件で生じうるかを理解するのが、『生命とは何か』に答える第一歩になるだろう」と、見通しをたてます。
本書について、現代の生命科学と生命哲学に明るい出口裕之さんは、「生命の認識」(金森修編『エピステモロジーの現在』、2008、慶応義塾大学出版)のなかで、「金子さんらの「生命現象を熱学的によって理解しようとする発想は、じつはシュレーディンガーの『生命とはなにか』にさかのぼる発想である」と評しています(注)。
(注)ただし、出口さんはシュレーディンガーについて、彼が「展開した議論のほとんどは結局のところ間違いであった」と、否定的である。(同書、P296)
本書の全編を通じて、生命システムは「よくできた機械」としてではなく、「いいかげんで複雑なダイナミクスから現れた増殖しうるシステムのもつ、普遍的構造としてとらえる見方」が提示され、「細胞システムのやわらかさ」が議論され、示唆するところ大です。
が、提示された中心概念は、〈同一多様化、同的共固定化、上体管の遍歴、少数コントロール〉という4つの性質と、「内部状態をもった増殖系」という、縦横の組み合わせ。なので、「生命とはなにか」について単純な答えを求めるむきには、隔靴掻痒のうらみなしとしません。
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以上、生命とはなにかについて、本格的な問いかけをした著作3点の周辺をうろついてみましたが、最初からの予測どおり、また、問いの性格と生命現象の奥深さからして、単純明快な答えは得られませんでした。とはいえ、生命を理解することは難しいけれども、生命について考えることの楽しさも、いくらかは味わえました。
そのような思索的な味わいと、ワインの味わいとは、はたして関係があるのでしょうか。ワインは味わいがすべてではない、ということだけ記して、今回の探索を終えたいと思います。
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