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社員リレー・エッセイ ⑤安西 涼子 (営業部)

「 ワインとヨーガ 」

 小柄でキュートなボクサー馬場さんからバトンを受け取りました、営業部の安西涼子です。私がラシーヌに入社したのは2011年8月ですが、2012年8月~2013年9月まで病欠し、2013年10月から在宅勤務の営業職として復職して現在3年目です。横浜在住、小学5年生の一人娘と夫、猫2匹と暮らしています。社内でもBIBの消費量は1番だと自負しています。(あまり自慢できませんが)

  ヨーガと私

 入社してちょうど1年たった頃、1年以上も休みが必要なほどの病気をしました。たいした根拠もなく自分は丈夫だ(肝臓も)と思って39年間生きてきた私にとって、自分の死が近いうちに数パーセントでも現実となる可能性があるとわかった時は、まさに青天の霹靂。足元がガラガラと崩れ去っていくような気分になりました。

 当然ながら生き物にとって死はいつも隣り合わせにあるのですが、その時は恐怖と絶望感で不安定な精神状態になりました。そんな治療後の、体調があまりすぐれなかったとき、ふとヨーガを始めてみようと思い立ちました。それまでヨーガはスポーツクラブで少し体験したことがあるくらいでしたが、あまり激しい動きではなく、体に良さそうなリラックスできるエクササイズ、といったイメージでした。さっそく近所に教室を見つけ、週3~4回通ううち、最初の期待以上に、凝り固まった歪んだ体が徐々にほぐれて整っていくような心地よい感覚がありました。

 そこで、『そもそもヨーガってなんだろう?』という素朴な疑問を持ちました。古代インドが発祥らしく、ストレッチの原型のような動き(ポーズ)にはサンスクリット語の名前があり、身体を動かすだけでなく呼吸法や瞑想もあり、何やら奥が深そうな感じがしました。ヨーガという言葉は「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という語源を持ち、“結びつける”という意味があるそうです。

 ネットで検索してみると色々な情報がありましたが、最も本質・ルーツに近いところを知りたいと思い、サンスクリット語で書かれたヨーガの教典『ヨーガ・スートラ』(正しい発音はヨガではない!)を現代のインド人ヨーガの師が解説している『インテグラル・ヨーガ』(スワミ・サッチダーナンダ著)という本を手に取りました。

 冒頭部分からして、目からウロコの連続でした。曰く、“ヨーガの本当の意味は心の科学である”(・・・身体の健康が目的ではなく、心の科学とは?!)。第1章2節目のスートラはずばり本質をついており、“心の作用を止滅することが、ヨーガである”。

 なるほど、身体のヨーガは、心を制するために編み出された手段なのでした。サンスクリット語を直訳したスートラはさすがに難解ですが、師は現代の私たちの生活に即したわかりやすい例えで易しく解説してくれます。

 さらに読み進めると、すべての苦しみを作り出すあらゆる利己的な欲から離れ(無私、離欲)、他者への献身を徹底的に説き、常に変化する心(感情)の奥にひっそりと存在する真我(真の自分)を見出し、神にすべてを任せることで最終的に悟りに至る・・・とあって、“神”や“悟り“といった言葉がさらっと登場するではありませんか。

 すべての宗教の教えの基ともなるようなその思想は、そこらの自己啓発本など足元にも及ばない真実を含んだ言葉として、ざわざわと乱れていた私の心に清水のようにしみ入りました。宗教ほどウェットではなく、科学と言えるほど明快な教えに魅了されて、その後もヨーガ哲学の本を読み、身体のヨーガも続けています。

 浅はかながら不惑(40歳)になるころ、それまでとは全く違った気持ちで人生に向き合うことができるようになり、ヨーガに出会うためだったとすれば、病気をしたのも悪いことではなかったと思えるようになりました。

 

 ワインとヨーガ

 そして、2013年10月にラシーヌに復職することができました。前例がない在宅勤務という形で迎えてもらえたことには合田さん塚原さんをはじめ、オフィスでサポートしてくださるスタッフのみなさんに今でも感謝の気持ちが絶えません。

 約一年間のブランクを経てラシーヌの扱うワインと向き合うと、新たな喜びが感じられるようになりました。ビオディナミの思想は明快な宇宙の理に即しているし、生産者がひたむきに自然と対峙しワインを造りだす姿はヨーガそのものです。来日した幾人もの生産者のお話を聞きましたが、自然と真摯に向き合い、ブドウ(大地)の力を引き出すことに徹している様子がうかがえました。そこには“私”は存在せず、自分の利益や名誉のためにワインを造っているという人は一人もいません。皆、崇高なヨーガ行者(ヨーギー)のように思えます。

 中でも衝撃を受けたのが、ジョージアのワインが2回目に入荷した2014年2月、試飲会用資料の最後に記載されたこの言葉です。

  もとをたどれば、イスラム教徒の侵入に先立つ数千年もまえから、ブドウ栽培は常に、神に至る道であった。神を讃えずに栽培と醸造をすることは、神とは無縁であり、無意味だった。クヴェヴリでさえも、このような神に向かう歩みの一部である。主は、粘土から人間を造り、クヴェヴリも粘土からこしらえられて、首まで大地に埋める。母親が子供に生を授けるのと同じように、クヴェヴリは大地の中で、大地からワインを生むのだ。その生まれた場所で、ワインは年を重ねる、子供とおなじように。(…)果梗と果皮からすぐに別れさせられたワインは、母親がいない子供と同じようなものだ。

ジョージア、アラヴェルディ修道院のダヴィッド司教(醸造家、もと建築家)
[アンドリュー・ジェフォードのエッセイより]

 

 紀元前の時代から人は無私の心でワインを造り、ワインは神と人間をつなぐ道(ヨーガ)だったのです。ワインも人間も元をたどれば同じエネルギーの現れです。来日したジョージアの生産者たちもまた、ワインがつなぐすべての事柄、人や環境に感謝をし、乾杯をささげあっていました。

 そして私もこのようなワインを享受できる幸せを日々感じながら、お客様のために無私の心でせっせと試飲レポートを書いています。BIBのワインも決して自分だけのために飲んでいるのではありませんよ!

 

 次回は2016年5月から私のサポート業務をしてくれている長野県出身の若手、北澤陽平くんにバトンタッチします。

 どうもありがとうございました。

安西 涼子


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