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エッセイ:Vol.108 わたしのワイン原論 [2]

 今回は、まずワインブックのあり方を示唆する本を取りあげたあと、ワインの定義に再挑戦し、わたしの定義らしきものを提出します。長いけれど、お付き合いのほどを。

 

 Ⅰ.あらまほしきワインブック

  「ゲス・フー」ゲーム:著者は、だれ?

 ワインについて、つぎのような《知られざる名著》があります。さて、だれが書いたでしょうか、当ててみてください。そのタイトルは、『ワインの物語』です。

 それでは、「はじめに」の冒頭、第一パラグラフから見てみましょう。

 「はじめに」から

 “ワインという心惹かれる不思議な世界を前にして、道案内のようなものが欲しいと思っている人は少なくない。私はそんな読者に向けてこの本を書いた。初めてこの世界に足を踏み入れた人でも、この見取図があれば、細かいことは気にせずに全体を見渡すことができるだろう。この本を読めば、もっと本格的なワインブックに出てくる、いろんな名前や時代や様式(スタイル)を、わかりやすく整理できるようになり、専門書に当たってみるだけの力も身につくと思う。

 この本を書きながら私がとくに念頭に置いていたのは、ワインの世界を自分で発見したばかりの十代の読者だった。しかし、若者向けの本だからといって、大人向けのものと書き方を変える必要など、まったくない。若者こそもっとも厳しい批評家であって、えらそうな言い回しをしたり、わざとらしく感心してみせたりすれば、たちまちソッポを向かれてしまう。

 私自身の経験から言っても、そういう書き方をされると、読者はこれから一生、ワイン書を信用しなくなるだろう。だから、私は、気軽な素人くさい本と思われるのも覚悟のうえで、平易な言葉を使うよう心がけ、なんとしても大げさな表現にならないように気をつけた。

 しかし、内容的にむずかしい問題を避けたわけではない。ワインの専門用語をなるたけ使わないようにしたからといって、私が読者を「見下している」などと思わないでほしい。読者をワインの世界に導くことを忘れ、「学問的」な言葉を連発して読者を威圧するような人こそ、「見下して話す」雲の上の人ではないだろうか。”

 さてと、無くもがなの、引用者注を。以上は読みやすくするために行替えをほどこしてありますが、「はじめに」の第一パラグラフのすべてであり、「はじめに」の12、3%程度にすぎません。けれども、自信にみちながらも読者の希求をふまえた堂々たる立論であり、みごとな正論です。たとえ若者向けであろうと妥協せず、啓蒙書としてあるべき姿勢を明確に打ち出した作であり、手練れの文章家の筆になることはまちがいありません。しかも、翻訳文としてこなれがいい。これは、はやく本文が読んでみたいという気持ちにさせる、達意の文章としか言いようがありません。

 

「序章」から

 それでは、お待ちかねの本論に入りたいところですが、その前に見取り図としてまとまりのよい「序章 ワインとその作り手たち」が置かれています。せっかくですから、「はじめに」にならって、やはりその冒頭のパラグラフをご紹介しましょう。

 “これこそがワインだというものが存在するわけではない。作り手たちが存在するだけだ。

 (…)人はいろんなものを作ってきたし、いまも作っている。そういう活動をみんなワインと呼ぶのなら、さしつかえはない。ワインといっても、時と所によってさまざまだということを忘れてはならない。普遍的な「ワイン」が存在するわけではないのだ。

 ところが、いまや「ワイン」が怪物のようにのさばり、盲目的な崇拝の対象になっている。だから、ある作り手をつかまえて、あなたの作っているものはすばらしい、でも「ワイン」ではない、と言ったら肝をつぶすかもしれない。またワインを飲んで楽しんでいる人に、あなたの好きなのは「ワイン」ではなく、なにか別のものなのだ、と言ったら面食らってしまうだろう。”

 このような調子ですが、章をあらためて第一章からはじまる本文は、のべ480ページも続くうえ、本文とほぼ同量の「図版」と、充実した「参考文献について」が30ページも付せられています。現在入手しやすいポケット版(113×186cm)では、索引を含めると1050ページ弱という、質量ともに充実した大作なのです。

 

『タイムズ文芸付録』の書評

 ちなみに訳書の見返しには、ゆきとどいた書評がいくつも添えられています。その典型を紹介しましょう。

 “この本はきっと広い読者を獲得し、新しい時代の思想に影響を与えずにはいないだろう。作者は親しく話しかけるように語っている。彼の学識の深さはワインの関係者なら誰でも認めるところだが、それが強くおもてにでてくることはなく、しかも、どんな話題に関しても新しい考え方が示される。彼はわずかな言葉で一時代の全体的空気をうかびあがらせる力をもっている。”『タイムズ文芸付録』1950年1月27日(初版本の書評)

  そこで、質問。格式の高い『タイムズ文芸付録』で、しかも1950年に絶賛されるようなワインブックの初版が、はたしてあったのでしょうか? (わたしは見栄を張って、一年間もこの高級な書評紙をイギリスから取り寄せたことがあります。が、しゃれたタイトル名と読者投稿の欄を別とすれば、浅学なわたし風情には面白がって読めるような代物ではなく、購読を諦めました。ちなみに、『ニューヨークタイムズ』の書評版は、まだしも歯が立たないことはないのですが、それでも相当むずかしかったと記憶しています。)

 本題に戻るとして、さてこのワインブックの著者はだれでしょうか。題名が、ワインの歴史をたどったヒュー・ジョンソンの作品に似ている、ですって? いかにも。でも、残念でした。たぶん、博識な名文家のヒューが、この名著のタイトルをもじったのでしょう。ちなみに、“Story of ~” というぐあいに、「ストーリー」を歴史(ヒストリー)という意味のタイトルに使うことは、英語では珍しくありません。

 

正解は?

 では、そろそろ種明かしをしましょうか。E.H.ゴンブリッチです。「えっ、あの美術史家のゴンブリッチが、そんなワインブックを書いていましたっけ。そんなわけ、ないでしょう」というあなたの疑問は、正しいのです。

 高踏的なイコノロジー研究で世界をリードしたのが、ウォーバーク研究所(ロンドン大学付属機関)。その長で、創意にとむ多くの研究実績を残した故ゴンブリッチは、一般読者向けに『美術の物語』(“Story of Art”、ファイドン社、翻訳版も同社刊)を著して、世界中から好評を博しました。著者が最後に増補改訂したその美しい大冊の全面カラー版(第16版)は、その後2006年にポケット版になり、2011年にその翻訳版が日本に登場しました。

 さてと、お騒がせして、ごめんなさい。エルンスト・ゴンブリッチ卿の熱狂的な愛読者であったわたしは、つい悪戯心をおこして同訳書のなかで、「美術(史)」をワイン、「美術書」をワインブック、「作る人」を作り手、「絵を見て楽しむ」を、ワインを飲んで楽しむと置きかえて戯文化し、あえてここに紹介したのです。

 

その心は―

 それでは、なぜ、わたしは、このような悪戯心をおこしたのでしょうか。いささか弁解めきますが、バランスのとれた、明晰で知的なワイン入門書が、内外にもほとんど見当たらず、はては、「読者を見下ろして…威圧する」ような、尊大なワイン書までが世に出まわっているのに業を煮やしたからなのです。

 だとしたら、ワインブックのありかたを示唆するような、予見的な本はないのか。わたしにとってそのような役割をするお手本が、歴史に残るゴンブリッチの傑出した美術史だったのです。

 本書の「はじめに」の出だしは、リットン・ストレイチーの『フランス文学みちしるべ』(筑摩叢書)や、ノイマン『現代史―未来への道標―』(岩波書店)という両名著を思いおこさせます。未来に向けて読者とともに歩むことは、言うはやすく行うはかたし、です。  

 専門家ぶって知っていることを知識として振りかざしたり、本来ワインとは関係のない知識をひけらかしたりして、読者を煙に巻くことはいとも容易。ですが、読者の興味を奮い立たせることはできず、かえって読者を本題のワインから遠ざけてしまいがち。なぜなら、そこには自分自身の「なぜ」がなくて、(他人による)謎さぐりの楽しみと労苦、果てしない思索や探索の旅の結果だけが、漫然と載っているからです。

 どのような分野であっても、思索中の著者とともに考えながら謎を解くこと。これこそが読書の醍醐味なのです。なぜなら、謎解きに立ち会うことで、読者は著者と共感(共犯?)関係になりえるし、同時に知的な営為にもなるのです。

 だとすれば、ワインというモノのなかに知性が潜んでいるのではありません。ワインの味わい方のなかに、知性をたゆたわせることができる。その意味で、ワインを楽しむことが知的な作業にもなるのです。

 ワインを説くのに、ワインの専門家である必要はありません。ひたすら好奇心がうごめき、人間味があふれ、ワインという謎をいっしょに解いていこうという著者の姿勢が、なによりも大切なのです。まさに、ゴンブリッチに学ぶべし、です。(注)

(注)ちなみにわたしがゴンブリッチの名を知ったのは、半世紀も前のこと。三田で開かれていた慶応大学・思想史研究会で、白面の貴公子のごとき由良君美先生が、縦横無尽にミルを論じたのを拝聴した時のことです。当時“Story of Art”には、誤訳にみちた上下二巻本の訳書『美術の歩み』(美術出版社刊)しかなかったけれども、現在はファイドン社から最新の増補改訂版による、カラー印刷も興をそそる立派な翻訳が出ていますから、ぜひご覧ください。ワインを飲むよりも楽しい、とまでは言いませんが、知的な読者ならばゾクゾクするような感興がえられること、請け合いです。

 

作り手という触媒

 また、本論の出だしである「これこそがワインだというものが存在するわけではない。作り手たちが存在するだけだ」は、まさしく卓見で、わが意を得たりです。

 作り手抜きの(手抜きの、ではありませんが、手抜きした)ワイン論は、いかにワインを持ち上げていようとも、ワインをモノとしか見ていない、ワインおたくに特有なフェティシズムである、と断言できます。作り手という触媒が有効に作用しないかぎり、優れたワインは存在しようがないし、可能性としてしか存在しないアペラシオンやテロワールを解釈して、現実のワインに転化結実させるのは、作り手という人間存在なのです。

 そういえば数年前のこと、現在はブーム的な絶賛を博している、ある日本の生産者のワインを試飲して、「あなたのワインは、ワインになっていない」という、不遜な感想を述べたことがあります。ところがその生産者は予想に反して、「じつは麻井宇介先生からも、そのような指摘を受けたことがあります」と謙虚に受け止められたので、かえって恐縮してしまいました。

 が、いずれにしろ、ヨーロッパのクオリティワインを毎日飲み味わっているわたしの「ベンチマーク」(判断基準、パット・サイモンの言葉)は、それらのワインなのであって、今なお「ワイン以前のワイン」が日本にあるとしたら、それは驚異としか思えません。

 

Ⅱ.ワインを定義する試み()

  ところで前回は、パット・サイモンの『ワイン・テイスティングの論理』(2000、faber and faber、未訳)から、パット流のワインとワイン関連語の定義を引用しながら、ワインの定義を試みました。しかし、「定義は続く、どこまでも」なのです。定義については聞きあきた、などとおっしゃらずに、考えつづけてみようではありませんか。

 

1.『オクスフォード版ワイン事典』より

 およそワインに関わるものごとについて、まじめに、あるいは、オーソドックスに考えようとすれば、なによりもまず、ジャンシス・ロビンソンが編んだ労作『オクスフォード版ワイン事典(第4版、2015)』“The Oxford Companion to Wine, Edited by Jancis Robinson )を参照することからはじまります。(注)

(注)原題をそのまま訳せば『オクスフォード・ワイン必携』だが、意味が汲みとりにくい。表紙カバーには、ジャンシスと並んでジューリア・ハーディングの名が、小さな級数で印刷されている。が、本文の扉には正式名称として、引用どおりのタイトルが記され、副編集長としてジューリアが特記されている。もちろん、出版社名は「オクスフォード大学出版局」。そこで、内容が事典であることから、わたしは訳書名を《ジャンシス・ロビンソン編『オクスフォード版ワイン事典』》と呼ぶことにしています。

 それでは、“wine”の項目(p.817)の内容を見てみましょう。

 「ワインとは、果実またはベリー類の果汁を発酵させて作られたアルコール飲料である。広義では、このかなり一般的な定義には、花やハーブ類で風味づけされた、糖分溶液の醗酵物が含まれるが、オオムギ澱粉を加水分解して醸造したもの(ビールやエール類)と、蒸留用の糖分含有液の醗酵品は、ともに除外される。なお、ミード(原料:ハチミツ)・シードル(同、リンゴ)・ペアワイン(同、洋ナシ)などのある種のドリンク類は、アルコール含有量は醗酵させる糖分の量(糖度)に応じるが、歴史的な理由から、それぞれ別の名称を有する。

 しかし、狭義では、本書にも適用され、ヨーロッパ中で認められているとおり、ワインとは『新鮮なまま集荷されたブドウの果汁を醗酵させて得られるアルコール飲料であり、醗酵自体は地域的な伝統や慣行によって定められたオリジナルな地域内でおこなわれる』とされる。これは、他地域から輸入された濃縮ブドウ果汁から作られたアルコール飲料(ヨーロッパでは「加工(メイド)・ワイン」でとおる)から、『正しい(プロパー)』ワインを区別するための、定義法である。メイド・ワインには、『ブリティッシュ・メイド・ワイン』や、『自家ワイン醸造(ホーム・ワイン・ブルーイング)』で作られた飲料の大部分が該当する。新世界でのワインの定義は、最後の条項(醗酵の場所についての限定)が削除される点を除けば同様であり、同地でワインは数百マイルも離れた地域で栽培されたブドウを混ぜて作られることがある。』(以下、語源の項目になり、わたしには興味深い内容なのですが、割愛します。)

 ご覧のとおり、いかにも正確で、無駄や隙のない文章です。(たとえば、すべてのMWがこういう文章が書けるわけではないことは、ご存知のとおり。ワインと文章は、どちらも資格[アペラシオンやMWなど]がものをいうのではなく、人―作り手と書き手―が鍵なのです)。

 たしかにこの定義は、事実を正確に知るためには参考になりますが、あえていえば、事実を知ったうえで、情報を意味に仕立てて自分の考えをまとめるのが、本来ワインのライターやブロギストの仕事なのですね。

 

2.ワインは「魂の交流の場」

 『ワインの精神性』The Spirituality of Wine”という、最近ジゼラ・クレグリンガーGisela H. Kreglinger女史が著した本があります。「ザ・グレイ・レポート」というブログ記事(2016.06.28)によれば、著者はドイツのフランコニア生まれで、ワイン醸造家の家庭に育ち、歴史神学を学び、キリスト教精神を教えている方だとか。その本のなかで著者は、何人かの元キリスト教徒だったワインメーカー(「スィドゥリ」のアダム・リー、「カーライル・ワイン・セラーズ」のマイク・オフィサーなど)にインタビューしている由です。が、なかでもオレゴン「アイリー・ヴィンヤード」のジェイソン・レットの次のような記事が、ブロギストの心を動かしたのです。

 「ジェイソン・レットは、ワインを試飲する時はノートをとるのを控えた。上出来のワインを飲んでいる際の経験を、言葉に移しかえるのは難しいものです。ジェイソンが良いピノ・ノワールを味わっているとき、自分でわかっていることがあります。良いワインを飲んでいると、会話のエネルギーが上がり、ワインが会話を勢いづかせるのだと。ワインの作り手がワインに向かう心的姿勢(アティテュード)を、ワインはつかんで体現し、そのワインは作り手の心的姿勢を、今度は飲み手に伝えることができる、とジャイソンは信じています。これは、音楽とよく似たコミュニケーションの一形態です。音楽は、直接的に情緒を表現することなく、情緒的な反応をおこさせるのです。ワインも、同じように作用するのです。」

(“Jason believes a wine picks up and reflects the attitude of the people who craft it, and the wine can transmit that attitude to those who drink it.”)

 ジェイソン・レットはワインの神髄をつかんでいる、とわたしには思えます。ワインに向かう際に、作り手の心のありようが上出来のワインに伝わり、今度はワインがその思いを飲み手に伝えることが出来る。だとすれば、ワインは心と魂にとっての媒体になる、ということになります。

 良いワインは、たんに美味しいという域をこえ、作り手と飲み手との間をとりもって、たがいに共鳴・共感させることが出来る―この共鳴共感理論こそ、わたしのワイン観の根底にある考え方です。(了)


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