エッセイ:Vol.107 わたしのワイン原論 [1]
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定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
(1)ワインの定義の試み
はじめに
これからしばらく、ワインについて考えてみよう。といっても、深遠な考察をしようというつもりはないし、そんなことはわたしの手に負えない。肩の力を抜いていただいて、結構ですよ。どだい、余計なところに力をいれて「力む」のは、身体に悪いものね。
考えるプロセスの文章化
さて、考えるということは、言葉を素材にして自分の論理を組み立てることである。そこで、なにかについて考えるとき、それにもちいた言葉を、考えたプロセスにしたがって文字に移せば、おのずと文章になっても不思議ではない――というのが、わたしの素朴な文章理論です。(うまくいけば、ご喝采!)
ただし、この前提として、「正しい思考法の場合は」という但し書きがつきます。なにか、トートロジーめきますが、しょせん「科学の定理の体系とは、公理を前提としたトートロジーにすぎない」(池田清彦)ということですから、トートロジーをあまり気にすることはないでしょう。
定義と問題意識―どちらが先か
それでは、どこから始めましょうか。語りはじめるときのやり方に、二とおりの方法がありますね。自分の問題意識からはじめるか、なにかについての定義からはじめるか、です。もちろん、定義のなかには当然、論者の問題意識が反映されるはずですから、通常は定義からはじめるのが、定石。でも、学問ならしかたないけれど、とかく定義は堅苦しく、ときに優等生的あるいは官僚的になりがちで、つまらない。だから、「定義とは死である」(スピノザ)といういい方には、半面の真理があります。つまり、下手に定義をすると、その対象となるものごとをとらえ損ねたあげく、間違った概念形成が不毛な論を招きかねない危険性があるのです。【注】
【注】丸山真男さんは、日本のナショナリズムを論じるに当たって、たしか「ナショナリズムとは、あるネーションの統一・独立・発展をめざす、イデオロギーおよび運動である」と定義してから、犀利な分析に移った。そういえば、座談の席でも丸山さんは、自分でつかう言葉をその場で定義して、議論をはじめるのが常だった。けれども、そのような芸当がわたしにできるわけはない。
問題意識あるいは発想―ワインにロジックを!
かといって、わたしに問題意識があるとして、それをこの場で開陳するのも大仰すぎて、気恥ずかしい。ならば、問題意識などという堅苦しい言葉をつかわずに、発想とでもいいかえましょうか。あるワインを素晴らしいと思ったとき、なぜそういう実感が生まれるのかを自分に納得させられるような、論理の組み立てがしたいなあ、という願望が発想のもとにあるのですね。これを「ワインのロジック」といってもいい。
昨年、ブルゴーニュにベッキー・ワッサーマン=ホーンさん、愛称ベッキーを訪ねたとき、例によってワインブック談義になった。マット・クレイマーには見事な論理があるといったら、ベッキーはうなずきながらこういった。「そういえば、“Wine Tasters’ Logic”という素晴らしい本があるわ」。えっ、知らないなあ。「ええ、あまり知られていないけど」。やにわに席を立ち、一冊のペーパーバックを手にして戻った。「わたしはこの本が大好き。インターネットで見つけたら、いつも買っておくの。ちょっと古いけど、これ、あげるわ」なんとも気風がいい。お礼を言ったら、「いいのよ。ただ、読んだら感想を言ってね」とだけ。さて、これが感想になるだろうか。
著者はパット・サイモン(MW, 1920-2008)で、わたしには未知の人だったが、とにかくタイトルからして切り口がよろしい。そして、その第一章が“Defining and Refining”。以下に“TASTE”“WINE”“GRAPEVINES”“WINE-MAKING”“WINE-DRINKING”“WINE-TASTING”“LOGIC”“TO TASTE”…と用語が続き、風味の軸となる言葉がならぶ仕掛け。
なんとも頭が良いなあ、と感嘆した。まず、韻を踏んだ章名“Defining and Refining”(定義と、それをいっそう洗練させること、という意味合い)が、いかにも楽しげ。そこで同書から、「ワイン」の洗練された定義を引用しよう。
パット・サイモンによるワインの定義
「ワイン:ワインは、ひとつの逆説(的な存在)である。ナチュラルな製品(natural product)なのに、自然に出来るわけではない。ワインはまた、腐敗しやすいが、保存によって向上もしうる。ワインと称する多種の飲料のうち、ここではワインを、ブドウ果(ワイン用ブドウの果実)の果汁を発酵させてつくったものに、限定する」(Pat Simon“Wine-Tasters’ Logic”, faber&faber,2000,P.3)
「ワインは、ひとつのパラドックスである」にはじまる前半のパラグラフは、G.K.チェスタトンもどきで、わくわくする。パラドックスは、ダイナミックな価値の転換を内包するという、エネルギーをふくんでいるから、いかにもワインにはふさわしい。
ついでに、“Logic”(論理)に下したパットの定義をみるとしよう。
「誰かがなにかをテイスティングすることができるとしたら、しかるべき理由があるべきである。本書は、“Wine Tasters’s Logic”が実際にありえるという仮説を、実地に試みることになろう」。この意味をくむと、書名は『ワイン―テイスティングの論理作法』とでも訳したらいいだろう。
ワインの定義の試み
逆説好きなわたしは同書に力を得て、いくつかの定義もどきを試みた。定義というよりは、英語でいう“working hypothesis”「作業仮説」にちかい。作業仮説というよりも、幾何学でいう補助線であろうか。ワインの世界の見晴らしがよくなるような、すっきりした補助線がうまく引けるだろうか。ともかく、いくつかの定義の試みによって、ワインを見る視点を定めよう、という福沢諭吉もどきの心づもりである。
試み①
ワインとは、ブドウ樹と人間が自然環境のなかで共働作業をした結果から生まれた、文明の産物である。[自然環境との共生を意識した、エコロジカルで文明論的な定義]
試み②
ワインとは、飲み手の魂を映し出す鏡である。人はそこに自分の求めるものと、自分の似姿を見出すことが出来る。[精神分析的な定義]
試み③
ワインは官能に訴えかける、主観的な存在であるが、そのクオリティは各人がテイスティングによって判断できる。問題は、判断の尺度である。[心理学的な定義]
試み④
ワインとは、生まれた特定の場所(=テロワール)を体現すべきもので、その意味で個性をもった作品である。[フランス型定義]
試み⑤
ワインとは、「ビンに詰められた謎である」だけでなく、永遠にとけない謎であり、無限の悦びである。[文学的な定義]
どれもあまりすっきりした出来栄えではないが、わたしは試み①が気に入らないでもない。麻井宇介さんの『比較ワイン文化考』では、スノッブを敵視しながら、文化人類学的な装いをまとって、ワインが定義されてゆくので、比較するのも一興だろう。
さて、切れ味が良くて、環境との共生という切実な問題意識に裏打ちされた、現代におけるワインの定義を、引き続き探していきたいものである。(了)
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