『ラシーヌ便り』no. 123
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定番エッセイ, 合田 泰子のラシーヌ便り, ライブラリー
no. 123
ヨーロッパでも暖冬から一転して、1月下旬から寒波に覆われています。各地から急に寒波がやってきたと連絡がきています。 シャンパーニュのラエルトから、霜に覆われた畑の写真がとどきました。 厳しい寒さをこえなければ、その年のブドウの成育期に病害が蔓延するため、造り手たちは、この寒さを歓迎しています。
* スぺインの新規取り扱い
Esencia Rural エセンシア・ルラル/Castilla La Manchaカスティーリャ・ラ・マンチャ
最近取引を始めたスペインの造り手の中で、大きな反響をいただいているエセンシア・ルラル。2014年にヴィラ・ファヴォリータで出会い、味わいのよさで選んだのですが、価格表を見て、あまりのお手頃さにびっくりしました。
昨年12月に訪問をしました。村に近づくにつれ、見渡す限りの平野に古いブドウ畑が延々とつづきます。大量生産の安酒のイメージが強いラ・マンチャ州。その理由は、いわゆる銘醸地のような丘がなく、気候が乾燥していて、栽培が容易なためです。年降水量は300-400mmとスペイン国内のワイン産地の中でも少なく、年日照時間は約3,000時間と多い。平野で作業がしやすい上に病気も少ないから、ブドウの栽培コストが大変安いのです。他の農作物も、スペインで一番安価な地方です。
エセンシア・ルラルは何世代にも渡り、ブドウ栽培とワイン醸造を行ってきました。地元マーケット向けにブレンド・ワインを造ってきましたが、1994年より輸出用にワインを造り始め、2002年にはより個性のあるワイン造りをめざすため、エセンシア・ルラルを設立。 醸造責任者ラファエル・ルセンドは、醸造学と化学を専攻しました。他方、栽培責任者のフリアン・ルイスは、代々続く伝統的な栽培法を実践しながら、生態系に配慮したビオディナミや自然農法を、複数の場所で学びました。ここでは人の手を極力加えない農法でワインや農作物を造り出すことを大切にし、ECOCERTとSOHISCERT(スペイン、トレド地方におけるオーガニック農法での農産物を認定する機関)の認証を取得しています。およそ150haの農地を所有し、そのうち50haが石灰の石が埋まった広大な畑で、丈が低く切りつめられた樹齢の高い自根ブドウが、ゴブレで仕立てられています。
村には1800年代中ごろに建てられた、巨大なセラーが二棟も残っており、200hlのコンクリート・タンクが120基も並んでいます。フランスがフィロキセラ禍にみまわれた時、この村には鉄道がワイナリーの側に敷設され、大量のワインが輸出されました。土壁で出来ていて、昔の人は知ってか知らずか、セラーとしての重要な要素が備わっています。昔はいくつもこの規模のセラーがあったとは驚きですが、村では現在このセラーを残してほとんど解体されてしまったそうです。50haのブドウ畑を所有しているエセンシア・ルラルでも、このセラーの容量を使い切るには程遠いですから、150年前は途方もない莫大な量のワインが生産され消費されていたのです。さぞかしおいしかったことでしょうね。
現在ご紹介しているのは、2014年産のアイレン・エコとナチュレルの2種類とテンプラニーニョ2種類。いずれもベーシックのキュヴェで、ステンレス・タンクで発酵・醸造されています。 ところがフリアン・ルイスは、2015年の収穫から自根ブドウを、長年の夢であった200hlのコンクリート・タンクで醸造を始めました。今後、写真のようなティナハで醸造されたり、コンクリート・タンクで醸造された、各種のキュヴェがリリースされます。どのようなワインが生まれるか、とても楽しみです。
1865年築のセラー、話に聞いては聞いていましたが、実際に見てみると巨大。どうやって作業をするのでしょうか。1800年代、フィロキセラ禍でフランスが壊滅的打撃を受けた当時、この地域からワインが大量に出荷されました。フル稼働で輸送するために、村には貨物車駅が敷設されました。120hlタンクが120基、もちろん今はこのうちの6基のみで醸造しています。 |
マドリード唯一のヴァン・ナチュール・バー「プティビストロ」の閉店について尋ねたところ、「ソロウーヴァという名前で移転したんだよ。マドリードで唯一、ヴィーノ・ナトゥラーレの理解者だ。マドリードでうちの取引先は、2-3軒かな?スペインはカタルーニャがヴィーノ・ナトゥラーレの聖地だね」 とフリアン・ルイス
当時としては近代的な施設でしたが、今から考えれば、コンクリート・タンクは、ティナハに近い形状で、建物は地元の土で建てられ、セラーの壁は厚くて涼しい。ちなみにラシーヌは3年前にこの地域で別のボデガと取引したところ、プレハブのセラーは温度管理が悪く、届いたワインは液漏れをしていました。大規模生産で、個性とクオリティを実現するのに、これ以上の理想的環境はあるでしょうか?
テオバルド・カッペッラーノの思い出と作品
2月になると、テオバルドのことを思いだします。テオバルドが2009年2月19日に亡くなり、早や7年になります。アルザスのシュレールを訪問していた時、ブルーノから「テオバルドが亡くなった」と聞き、急遽予定を変更。最寄りの空港からトリノに出て、ご葬儀に参列しました。この30年近くたくさんの造り手と共に仕事をさせていただいてきましたが、彼と過ごしたわずかな時間は、宝物のように貴重です。「ワインは、味わいにその作り手の考え方、人となりを映し出す」としばしば言われますが、高いクオリティと強烈な個性を備えた特別なワインは、造り手の生き様まで感じさせてくれることがあります。私にとってテオバルドとそのワインは、まさに稀有な存在でした。
テオバルドが遺したワインのありようを確認すべく、昨年12月3日にオフィスでワインを開けました。
ドルチェット2006 のグラスを近づける瞬時に、初めて彼のワインを味わった時が蘇ります。バルベラ・ダルバ・ガブッティ2004、バローロ・ネビオーリ2000、バローロ・ミケ2000。どのワインも口に含んだとき、ふわっと広がるピエモンテの香りに包まれ、ほのかな甘い風味が余韻となって続きます。その場にいた誰もが、フィネスに満たされた味わいに全身がつつまれました。
初めてカッペッラーノを訪問したとき、まず最初にドルチェット2003年の一杯を驚きと共に味わい、イタリアワインの不思議さと面白さをあらためて確認。すっかり、優雅なる熱情の産物の虜になりました。「このようなワインがあったのか」と、言葉をなくしました。
それから毎年、秋になるとテオバルドを訪ねるのは、一年で最大の楽しみでした。テオバルドはいつも冗談ばかり言っているのですが、じつは大変深く考え、正義を貫く人でした。カッペッラーノ家は19世紀末、ピエモンテ随一を誇った名家だったのですが、戦後に荒廃し、1970年代にはワイナリーはなくなっていました。エチオピアから戻ってきたテオバルドは別の畑を買い直し、小さなカンティーナをセッラルンガに再興し、あらためて名声を築きあげました。知性にあふれておおらかで、おだやかな微笑みをたやさない人ですが、内奥に秘める深い人間性を、ワインをとおして感じずにはおられませんでした。
彼は、これまで私が出会った、いかなる造り手とも違っていました。生きることを楽しみ、自分で考え行動することをモットーとし、何ものからも自由であることを尊び、また正義のために敢然と戦う人であったように思います。イタリアのヴィーノ・ナトゥラーレを造る人々は団結すべきだという大義を説き、そのために自分の貴重な時間を惜しみなく費やしただけに、その分裂を残念がっていました。日本では事実と別のことが伝えられていますが、その分裂の音頭をとった一人、ガンベラーラの造り手アンジョリーノ・マウレとテオバルドは、何度も話し合いを試みました。
テオバルドとの出会いは、私たちにとって、まさに「大事件」であり、ワインの仕入れにかかわる仕事の中で、これほど驚きと感激を感じたことはないと思いました。ラシーヌが大切に保管してまいりましたテオバルドの時代の在庫も終わりを告げました。テオバルドの遺した言葉を、ここにあらためてご紹介するとともに、皆様からテオバルドのワインを愛していただいたことに感謝申し上げます。
テオバルド・カッペッラーノ語る
「ワインを造ること、バローロを造ることは芸術だ。なぜならば、人に快楽をもたらす事物はすべからく芸術といえるのだから。ワインは快楽を与えるものなのだ。バローロ オティン・フィオリン ピエ・フランコ=ミケを味わってごらん。アメリカ産品種の台木に接ぎ木していないネッビオーロの苗木を、私が自分で畑に植えて造ったバローロだ。この柔らかさには、他のバローロでは決して出会えないだろう。私は自分に問いかけてみる。『昔のワインは、今のワインよりも柔らかかっただろうか?』と。現代は100年前より良い物を食べているのかどうか? これもよくよく考えなければわからないことだ。フランス革命やロシア革命の後もそうだったように、急激な変革のあとに復古の時期が訪れる。革命と違って、伝統は物事をゆっくりと少しずつ変えていく。馬に代わる動力としてエンジンを備えた自動車も、その概念自体は馬車とたいして変わらないのだ。」
合田泰子
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