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エッセイ:Vol.103 皮膚、肌と表情

皮膚から肌へ

 「皮膚—もう一つの脳」という前回の走り書きをもとに、さらに考えを進めて、話題を中立的な皮膚から、感覚的な肌へと転じよう。

 自分の肌はむろんのこと、自分でも他人でも見ることができる視覚の対象物であるが、また触覚に深くかかわっている。肌は触覚のやどる感覚器官でもあれば、他人が(場合によっては)触れることのできる対象でもある。そのように視覚と触覚の双方にかかわる、人体で最大部分を占める表層器官だから、肌という言葉はいやおうなく官能的な実感をおびて、映画や小説の表題にもよく登場する。日本の官能小説や例のフィルムはいうまでもないが、フランスの芸術作品でもたとえば、わがひいき筋のフランソワ・トリュフォー監督『柔らかい肌』“La Peau douce”(主演女優は、カトリーヌ・ドヌーヴの姉で早世したフランソワーズ・ドルレアック) とか、バルザックの小説『あら皮』“La Peau de Chagrin”(同名の難しい漢字を用いる高級ステーキ・レストランは、この小説名に由来する)があげられる。ちなみに『あら皮』の原語は熟語であって、原義は当今の銀行預金のように「だんだんと残額も価値も少なくなっていく」という寂しい状況を指すよしで、なにか皮肉な親近感がうまれる(が、その店にいくと預金残高が減る、という意味でではない)。

 

ワインの肌合い(テクスチュア)

 実感性をおびる「肌」の関連語が、「肌理」(きめ)という質感の高い言葉である。いうまでもなく、肌理にあたる英語は“texture”だから、ここでワインのテクスチュアに触れるのが当然だろう。

 ワインのテクスチュアには、香りと味に複雑で重層的な翳り(かげり)を与えるという、とびきり重要な役割がある。というより、テクスチュアは風味の基盤を形づくっているといっても、過言ではない。風味の印象はストレートで誰にとってもわかりやすいが、ともすれば人工的な印象を与えがちな、表層的あるいは二次的な事象でもある。

 それに対して、テクスチュアという質感は、そのワインをともに飲み味わっている人たちにとっては、共通の場ですぐに直覚できるものだが、これを言葉でもって他人に説明するのは厄介である。テクスチュアは、《美味―不味》という単純な次元をこえた領域にあって、文化の深奥から発する悦びの源泉でもあれば、ときに生命に対する危険信号にもなる。というわけで、古来より人間にそなわるほとんど原始的な感覚や本能にもかかわっている。それだけに誤魔化しがきかないテクスチュアは、飲食物がそなえるべき重要至極な要素であるが、これを人工的に付与することもまた難しい。

 好ましいテクスチュアが伴わない風味は味覚の幻影にすぎず、立体感を失った二次元的な存在、本体のない影のようなしろものである。

 とすれば、ここからは再説になるが、表面的なワインの味と香りについて、ワイン教室あるいはソムリエ風に、形容する言葉をあれこれ言いたてるのは、ワインの本質とはあまりかかわりのない、無駄ごとにすぎない。が、かといってワインのテクスチュアについて、もっともらしい物理学的な用語をつかうのも考えもので、比喩に酔えば結果は自家中毒におちいるだけ。誤った用語を比喩として用いるのはコケオドカシであって、ワインの悦びとは無縁なだけでなく、科学の素養のないことの証しでしかない、と知るべきだろう。

 

余談 —— 触覚的価値について

 このエッセイは全編が余談のようなものなのに、こと新しく余談と断るのは屋上屋を重ねるたぐいで、我ながらおかしい。けれども、触覚の大切さを論ずるさい、「触覚(的)価値」あるいは「触覚値」をもって、美術作品のもっとも重要な判断基準とする考え方について、触れずにすますわけにはいかない。

 イタリアのルネッサンス美術に関心が深い方ならば、バーナード・ベレンソン(愛称BB)の名に聞き覚えがあるだろう。著作のうち、大冊の『ルネッサンスのイタリア画家』(矢代幸雄監訳、新潮社、1961)、『美学と歴史』(島本融・訳、みすず書房、1975)と自伝は邦訳されているし、本人の許しを得ないで書かれた内幕ものの評伝(未訳)もある。それらの一部に目をとおした記憶があるが、前衛作家ガートルード・スタインの『パリ・フランス 個人的回想』(和田旦・本間満男訳、みすず書房、1977)にも登場して、鮮やかな印象が残っている。

 かつてBBは、この分野で世界中から最高権威とうたわれ、原作者不明な作品の帰属を(しばしば間違ったが)自信をもって断定し、はてはアメリカの美術館が傑作を蒐集するさいのアドヴァイス(じつはアルバイト)までしていたユダヤ人美術史家であった。ボッティチェルリ研究で国際的な名声を博した、故・矢代幸雄さんが師事したことでも知られている。

 この美術史家BBにとって、触覚価値“tactile value”こそ、「動き」とならぶ、最重要な判断基準なのであった。以下、要約をまじえながら、やや長い引用をする(『美学と歴史』p.63-64)。

 ベルクソン哲学(『道徳と宗教との二源泉』)をふまえたBBは、「生を力づけること」をなによりも重んじ、美術作品は人間の存在の全体に対して訴えかけるものでなければならない、とした。すなわち、人間の感覚・神経・筋肉・内臓に対して、また、方向感覚と平衡感覚、緊張と対抗緊張の感覚、身体的な自律性に求められる最小限の空間などのための感覚に対して、訴えかけなければならない。芸術としての作品だけが、この生を力づけるものとなりうるし、工芸品は形態の表現につきるのではなく、触覚値と動きとをもってはじめて生を力づけるものとなる、とBBは確信していた。

 その触覚値とは、「想像をかき立てて対象の嵩を感じさせ、おもさをはからせ、内にひそむ抵抗力のほどをひしひしと感じさせ、われわれから離れているその距離をおしはからせるようなぐあいに、またあくまで想像のうえのことであるが、それに身近かに触れに行ってみたい、つかんでみたい、抱擁してみたい、周囲を歩きまわってみたいという気持ちをひき起こすようなぐあいに」伝達されるときに生まれる、とされる。

 以上のような考え方のうち、特に前半の感覚的な訴求力の例と考え方は、現代にも通用する視点であって、なかなか面白い。触覚値とは心理学的な性格をもち、優れた芸術作品には量感をもってなまなましく迫ってくる気迫や気合がそなわっていなければならないという所説には、共感せざるをえない。

 けれども、個々の作品に対して触覚値を判断基準とするというだけでは具体性に欠け、恣意的な判断になりかねない。事実、神ならぬBBはしばしば誤審したのだから、われわれ凡人が触覚値なるものをもてあそぶのは、心しなければならない。

 

ワインの表情とは

 思うに、優れたワインには、BBのいう触覚値に類するような性格があるようである。ワインはとうてい単純な物質にとどまるものではなく、なにがしか生命力を感じさせる。飲み手に感覚的な働きかけをするだけでなく、時間とともに姿を変えながら、感情ゆたかに語りかけてくるとおもわせる。ワインがそのような作用をするとき、ワインに「表情がある」といってもよい。

 それでは、表情とはなんだろうか。むろん、動物にも表情らしきものはあり、古くはチャールズ・ダーウィンに、『人及び動物の表情について』(浜中浜太郎・訳、岩波文庫、原著1872)なる仮説と考察があるが、ひとまず人間の表情について考えるとしよう。

 人間の顔面の表層が、表情を形づくっているのだが、表情の裏には30種類以上におよぶとされる(眼輪筋、口輪筋、鼻根筋などの)表情筋がある。これらが骨と皮膚につながっているため、目・口・鼻などを動かすだけでなく、複雑でデリケートな表情を作り出すことができる。

 この表情を“facial expression”(顔面の表現)と言いかえるとき、表情の背後に主体である「顔の持ち主」の意思を込めた、一方向的なコミュニケーションが想定されている。が、造り方表情を特定の時間と空間における双方向的な共感作用あるいは出来事ととらえるとき、ワインの表情のもつ飲み手との共感作用が浮かび上がってくる。(*末尾の注、参照)

 

表情という時間的な出来事

 ところで、『顔の現象学 みられることの権利』(鷲田清一、講談社学術文庫、原本出版は1995)は、いかにも鷲田さんらしい知的な刺戟にみちて、読み手を挑発する。氏は考察に値するユニークな顔論を幅ひろく見わたしたうえで自身の論を展開するから、たとえ本書の議論の内容や結論がやや分かりにくいにしても、門外漢には面白い部分があって役にたつ。顔の表情論はこの本の主題ではないが、私のワイン表情論を後押ししてくれる気の利いた一節があるので、ここに引きたい。

 「だれかの顔を写したごくふつうの一枚のスナップ写真を想像してみよう。(…)この顔は表情ではない。あるいはほんとうはだれかの表面ですらない。固有の時間を奪われているからだ。表情は、純粋な可視的像としてより、むしろ時間現象として現われる。表情はたえず移ろい、揺れ動いているもの、またわたしがその前にいれば、わたしのそれとシンクロナイズするかたちで、噛みあったり反撥しあったりするものである。(…)〈顔〉という現象は何よりもまず時間的な出来事ではないのか?」(同書p.20、下線は引用者)

 

交差する眼差しの磁力

 それから鷲田さんは、詩人で名翻訳家の多田智満子さんによる『鏡のテオーリア』(大和書房、1985、ちくま学芸文庫・所収)を引きながら、《眼の表情》と《まなざしの交差とかちあい》にまで説き及び、「自分をまなざす他者の視線を感じるということ、そしてその視線に、まるでとりもちにとらえられたかのように引き寄せられるということ」に着目する。「自他のまなざしが否応もなく一つの磁力圏へと引き入れられ、シンクロナイズさせられるのであって、自他はともに一つの共通の〈現在〉に引きずり込まれ、そこから任意に退去することができない。」

 表情の中心にある眼から放たれる、視線の吸引するような魔力については、これ以上論じるまでもない。顔をワインに置きかえれば、その引きずり込むような魔力がワインの表情にやどされて磁力圏がうまれ、飲み手の視線との交差をつうじて共通の現在という共感の時空が現出する、といってもよい。ワインの表情という妖しい魅力を解き明かすのは無理としても、ワインとの共感共振関係を保てるような、柔軟で想像力と、積極的な感応力を涵養したい。さて、あなたは、ワインからのまなざしを感じとっていますか?(本文、了)

 

 予告 なお、ワインを単なる物質にとどまらないと位置づけるからには、《精神と物質》、《精神と身体》の間柄という根本的な問題について、わたしの見解を明らかにしなくてはなるまい。これについては常々考えてきたが、今回はすでに触れる余裕がないので、稿をあらためて論じたい。

 

注(*)

  • ワインの表情を論じることは困難

 人間のばあい、特定の感情の表出法は文化的なフレーム(慣習)に規定されるにしても、感情と表情筋の抑制による表現の意識的な修正などがあるから、表情の読みは一義的にはできず、解釈の余地が多い。

 まして、ワインの表情の読み取り方は、飲み手の文化と個人の感性に依存する面がつよいし、読みとった顔つきの意味を飲み手が表現しようとするとき、文化によって表現方法(語彙)を異にするから、表情の解釈を伝達しあって共通の理解に達することは容易でない。とすれば、ワインの表情について、厳密で詳細な議論をするのは、共通の文化とワイン体験を持つ者どうしでないと無理があることになる。とはいえ、ワインの表情を論じることが、ワインの感情内容の推測に堕して、ひと場の座興に終わるならば、あまりにも惜しい。

 

②ワインに知性は感じとれるか

 植物に知性が認められるとしたら、ワインにはいっそうの知性が認められてよいかもしれない。また、ワインは造り手の人柄、資質や性格を、多少の差はあれ、体現していると考えられる。だとすれば、少なくとも知性的な造り手のワインには、知性の名残が感じとれてよいはずで、それは表情に出ているに違いない。

 それにしても、知性が感じとれるワインは、あまりにも少なすぎるのではないか。それとも、わたしはワインに知性を求めすぎているのだろうか(冗談)。

 

おまけ 前回の皮膚についての参考文献のうち、特別な参照に値する知的労作を挙げるのを怠っていたので、付記する。

谷川渥『鏡と皮膚』(ちくま学芸文庫、2001。初出はポーラ文化研究所・刊1994)である。これは、傅田光洋さんの身体論的な「皮膚=脳」という立論とは対極にある、形而上学的な皮膚論である。そのことは、序章のタイトル「表層のバロック的遁走」という凝った文辞からもうかがわれるだろう。序の冒頭に明言されているとおり、本書は「二つの表層」である鏡(前半の主題)と皮膚(後半の主題)という両面から、神話を題材にして芸術を語る、というハイブラウな力技であり、知的な興趣がつきない。また、後半の皮膚論を飾る第6章「マルシュアスの皮剥ぎ」は、精神分析学者ディディエ・アンジューの立論とも重なるところがある。しかもこの文庫版には、美学を専攻する著者と、これまた博学な哲学者の鷲田清一さんとの、高邁にして縦横無尽な対談が、解説がわりに付されているから、見逃せない。


 
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