*

エッセイ:vol.82 よいワインとはなにか?

公開日: : 最終更新日:2014/12/17 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

―難問への愚答、あるいは冗談―

愚問か、難問か

 「よいワインとは?」と問われたとき、あなたならばどのように答えるだろうか。 ワインについての見方は人によって違うから、客観的に、あるいは万人にとって「よいワイン」はありえない、と木で鼻をくくったように答えることもできる。つまり、正答はないどころか、あり得ないという立場に居直る姿勢である。その拠り所は、ワインの世界は広大無辺で常に変化しているのにたいして、人はそれぞれ限られた経験と、古くて偏った情報しかもっていないし、どのみち味わいは主観的にしか論じることができないから、客観的でオールラウンドな判断ができるわけがない――という前提で、問答無用と切り捨てるわけである。 たしかに、こういう論の立て方は一見まともで論理的には可能だが、およそ人間と文化にかかわるすべてのことに妥当する一般論でもあるから、ワインの世界になにもつけ加えるところがないという意味では、不毛な議論の仕方でもある。 そこで、一歩引いて考えてみよう。よいワインとはと質した問者は、あなたに正答あるいは正解を求めてはいないかもしれない、と。単に「あなたにとってよいワインとは?」というだけのことだったかもしれない。しかし、この問いを発した御仁が、鋭い論客でとおるワイン批評家の田中克幸さんとくれば、ことは一筋縄ではいかない。ひょっとしたら、この問いの裏になにかが潜んでいるのかもしれない。たぶん、すでに問者の答えが用意されているはずである。すくなくとも、問われたものの答えが採点の対象になること、間違いない。なにやら、相手の意図を察するところから始まる言語ゲーム、あるいはその場に即した言葉を用いれば、パーティ・ゲームを仕掛けられたようでもある。だとすれば、正しさよりも、効果を狙った奇矯な回答や機智のほうが、ふさわしいかもしれない。

 戯答―ワインのトリレンマ

 というわけで、田中さんの執筆30年パーティの席上で指名されたとき、準備してきた「よいワインとはなにか? ―お遊びとして―」と題する戯文を読み上げた。戯れである以上、それを再掲することは遠慮したい。が、要は「よいワイン」「好きなワイン」「真正なワイン」という三つの言葉が、経済学でいうところのトリレンマの関係にあって、ワインの世界で「よい」「好き」「真正」のうち二者が同時に成立することはあっても、三者が同時に成立することは(観念の上ではありえても、事実の世界では)ありえない、という珍説を披露した。けれどもパーティ・ジョークにしてはいささか大仕掛けで場違いな冗談だったとみえて、笑いを呼ぶにはいたらなかった。

 視点の選択―誰にとってよいワインか

 冗談はさておくとして、いずれにしても《誰にとって》と《どのように》という問題を抜きにして、よいワインを語ることはできない。かりに「あなたにとってよいワインとは?」という軽い質問だったとしても、さて「あなた」とは誰で、あなたはどういう立場を選んで答えるべきだろうか。 ここは、立場と視点の選択が肝心ということにしておこう。たとえば、①《ワインの造り手》という生産者視点をとるのか。ないしは、②《インポーター、流通販売業者、飲食業/ワインバー、ソムリエ》などの業界視点をとるのか。あるいは③《ワイン・ジャーナリストやワイン評論家》というライター視点をとるのか。さもなければ、いちばん大事な④《最終消費者》の立場を選ぶか、である。 かりに①生産者の視点に立つとすれば、自分の造ったワインは我が子のように愛おしいから、どれも立派に巣立ってくれて売れ残らないことが、経済的な理想かもしれない。だとしたら、皮肉にいえば「よく売れるワイン=よいワイン」ということになる。これは、一部あるいは大部分の販売関係者(②)にとっても、お題目こそ異なれ、当てはまりそうである。より端的にいえば、「儲かるワイン=よいワイン」と思っている業界関係者が少なからずいるように見うけられる。③のワインについての売文業者にとっては、ジャーナリスティックな価値と、自分の価値を高められるワインが、よいワインかもしれない。それにたいして、④の消費者の立場は、おそろしく多種多様でありうる。もしかしたら、ヴェブレンが見事に抉りだしてみせた「見せびらかしの消費」(conspicuous consumption)向きのワイン、たとえばシャンパーニュなどが一部の消費者にとっては、よいワインなのだろうか。あるいは、内心は安くて酔えるワインがそれなのかもしれない。ちなみにわたしは、多少はワイン造りにも関与しているインポーターで、ワインの著述にも従事するワイン常飲者であるから、いわば四者兼任であって、特定の立場には与しにくい。

 よいワインからクオリティワインへ

 さて、四者いずれの立場も、直接または間接にワインと利害関係にあるから、ワインにとって中立ではないこと、いうまでもない。というより、なにごとにおいてもニュートラル(中立)はありえないから、立場と視点を明確にすべきなのだ。①から④までの立場は、ときに利害をともにし、ときに利害の対立関係にあるから、誰か(あるいは組織)にとって《よいワイン》は、他の誰かにとって《よいワイン》ではありえないという、利害の相反現象が起こりえる。 だが、このような主張は、真実はどこにもないとか、あらゆる説は一面的な真実にすぎない、いう相対主義であって、ワインの全体像をとらえ損ねるのではないか、という健全な危惧の念が起きても不思議ではない。 それでは、①から④、あるいはあらゆる立場の人にとって、共通の《よいワイン》はあるのだろうか。ここで、「よいワイン=クオリティワイン」という限定をつけるとすれば、話はより簡単になる。もちろん、クオリティワインとはなにかという定義が必要になるが、定義をすることがその答になるというわけ。だとすれば、ここは例によってマット・クレイマーの『ワインがわかる』(塚原・阿部訳、白水社版)から引用するのが賢明である。マットはクオリティワインではなくて「ワインの質」“quality of wine”を問題としており、これを備えたワインを「上質ワイン」“fine wine”と言いかえている(注。原文・増補改訂版pp25‐26。なお、ファイン・ワインをよいワインと言いかえることもできるだろう)。 要約すれば、ファイン・ワインの要件は、「複雑さ」「バランス」「プロポーション」「フィネス」であるが、詳しくは同書について見られたい。ファイン・ワインの定義のなかにフィネス(finesse:ファインネスfinenessという英語がややフランス語流になまったもので、もともとはほぼ同義とされる)という言葉を使うのは、同義反復と思われるかもしれない。いかにも、ワイン用語としてのフィネスは、マットのいうように「いちだんと輪郭のたどりにくい概念」だが、「偉大なワインであるためにどうしても欠かせないのがフィネスという資質」であることは、疑いをいれない。

 基本の六語

 ちなみにマットは、昨年『ワイン・スペクテイター』のオン・ライン版“Drinking Out Loud”コラム(2013年8月6日付)でもって、より進化した議論をしているので紹介しておこう。題して「六つのワイン基本用語」で、その副題は「言葉は無用か? もちろん有用」。要するに、 ワイン・テイスティングは、難しくない。その本来の目的があるとしたら、ブラインドでワイン名を当ててみせるような児戯ではなくて、よりよいクオリティワインとより劣ったものとの差を識別することだが、これまた案外そう難しくはない。が、テイスティングの真の課題は、ワインを言葉に移すこと。その際、どのような言葉を用いたらよいか。言葉こそワインに生命を吹き込むものであり、ワイン―もちろんクオリティワインでなくてはならない―がコメントを呼び込むだけでなく、希求しているのに近いのだ。その言葉の数は、たった6語で充分。ワインに関する風味用語のたぐいは念頭から追い払うこと。 その重要な言葉とは、 ①   フィネス“finesse”:今日フィネスは、単に荒々しくないとか田舎臭くないというだけでない。クオリティはワイン自身に備わっているものとして、クオリティのあなたへの伝わり方のなかにフィネスがあるし、この伝わり方に、どこか重さ・気難しさ・バラバラ感があれば、そのワインにはフィネスがない。フィネスに欠けるワインは、すぐに人を疲れさせ、飽きてしまうというだけでも、劣等ワインということになる。 ②    ハーモニー(「バランス」は近年ハイ・アルコール度のワインを擁護するのに用いられがちなので避けたいし、ハーモニーは単なるバランスをはるかに超えている。ハーモニーのあるワインは、ワインにある果実味・タニン・酸味・甘味・アルコールなどの諸要素を閉じ込めて効果的に調和したもの。ハーモニーは微妙だが強力な評価用語。偉大なワインには、自在感があり、風味はくっきりと美しいが混然一体とし、果実味と酸は完全な均衡状態にあり、優雅な浮遊感が伴う。) ③   複層感(“layers”):複雑さ“complexty”でも構わないが、複層感のほうがワインの良し悪しを判別しやすい。複雑さは、えてして香りや味が弾けるくらいの単純な過剰感に通じる。偉大きわまるワインにある複雑=複層感は、潜水する際に深く潜るにつれて、様々な層を通り抜けるのに、底が見えないほどの深遠さがあり、層を潜り抜けるにつれて新たな異なる発見がある。 ④   細部“detail”:多様な風味やニュアンスは複雑さや複層感を構成するが、それらの各要素の輪郭が細部までくっきりと描き出され、かつ判別しやすくなくてはならない。 ⑤   疲労感“fatigue”:奇異にひびく用語だが、疲労というレンズを通してみると、真のファイン・ワインとファイン・ワイン気取りとを別かつ、クオリティや欠陥を識別するのに役立つ。偉大なワインは、繰り返し香りを嗅いで味わっても、人を疲れさせたり、退屈がらせることはない。これは、上記の①~⑤の属性が組み合わさったものである。 ⑥   驚き“surprise”:これはオリジナリティと同義。興味深いワインは、予想しない驚きを与え、偉大なワインには間違いなくその感覚を与える。偉大なブルゴーニュやバローロを幾度試飲しても、必ず驚きをともなう。かくも深遠にして完璧な感覚は、複雑さに由来するのではなくて、新しい発見という感動から来る。驚きこそ、世界中でもっとも称賛に値するワインの有する、秘密の成分といってもよい。 ――と、まことにユニークな見解にあふれ、いかにも興味深いではないか。米国のあるオン・ライン読者は、これまでマットの著したもののなかで最高傑作、とまで絶賛しているくらい。それにしても、思考の力を感じさせる、叡智に溢れた文章であって、偉大なワインを飲んだときに劣らない感興をよびおこしてやまない。いや、それを上まわるかもしれない。   さて、以上が、よいワインをめぐる愚考に、マット・クレイマーの賢察を加えたものである。が、これだけで議論が深まったとは思えず、逆に混乱を招いただけかもしれない。わたしは、視点を明確にしてマットに拠りながら交通整理を試みただけだが、ワインの「利害得失」ではなくて「軽重是非」を問うという目的、すなわち「議論の本位を定める」(福沢諭吉『文明論の概略』)ために、少しでも役立てれば幸いである。


PAGE TOP ↑