エッセイ:Vol.101 ほんきのきほん その1
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定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
考える手続き、あるいは人間的要素について
独創という幻想
なにごとも、オリジナルに考えたいものである。ただ、ここで、オリジナルとは必ずしも独創的という意味ではないことに注意。オリジナルとは、いわば〈自力で考え抜いたあげくに得た自家製産物〉あるいは〈ホームメード〉というような意味合いであって、他とまったく異なるかどうかは、目的でも目安でもない。多かれ少なかれ人は似たものどうしで、似たような考え方をするものだから、古今東西のアイディアやプランなどの思考結果をあまねく検討するとしたら、必ずや類似物があるはず。花田清輝が言い放ったように、比類を絶したほんものの独創など、ほとんど夢想に近い稀有なものであるならば、これを狙うなど途方もない企図とあきらめた方が利口。とはいえ、損得勘定だけでものごとを考えるのもまた、愚の骨頂。
状況的思考法
それはともかく、ここで考えるとは「問題を有効に解くプロセスである」と再定義したい。とすれば思考には、目の前にある(あるいは投げつけられた)具体的な問題や問題的な状況を、独力で素早く解きほぐす、という実用的な解法としての有効性が問われるから、さしあたって独創性は要件ではない。要するに、考えることには、本質的に“situational thinking”という要素があって、その特質は、状況に応じた、その人らしい問題解決能力の発揮法にあるらしいのだ。おまけに、ユニークなアイディアや解法が結果的に誕生したとすれば、それはそれで、なんとも結構じゃ、ありませんか。
事実を追う
このように割りきれば、創造性という重しがとれて、のびのびとした自由な発想に切り替えられる。さて、考える作業は論理的にみると、前半は問題を正確に見つめ、後半は問題を解きほぐすという二段にわかれる。が、実際には前半と後半が入り混じり、問題を立て直しながら解法を案じるという終わりなきプロセスを演じがちとなる。そのような悪循環を断つには、どうしたらよいか。ここで、効果的な思考の踏み台となるのが、〈事実がなんであるのか〉、という追求である。
利益の二重性
わたしたちにとって現実の問題は、さまざまな利害状況のなかで立ち現れるし、正確な認識を妨げるのは利害関係と利害心が常。とかく自分本位に解し、自分にとっての利益をあたかも一般的な利益と差しかえしがちだから、我利など棚上げにして、できるだけ事実を裸にし、冷厳かつ正確に見すえる訓練をしよう。これを、〈心の中立〉といってもよいが、ことは心だけの問題ではない。別の言葉でいえば、距離感覚、つまり“sense of distance”を養うこと。この感覚こそ、偉大なるイギリスのユーモア感覚“English sense of humour”の生みの親なのだ。とはいえ、利害“interest”は〈関心〉という心の持ち方“attitude”でもあるから、これをまったく抜き取ろうとすることは不可能であるだけでなく、無意味ですらある。そういえば誰かさんも、〈無関心は敵だ〉と言っていたではないか。なぜなら、関心は好奇心の別名でもあるからなので。むしろ必要なのは、正当な関心をもつ自分を、もう一人の自分が眺めるといった風情だろうか。
見えないものを見よう
その際、見えないものを見る、という視点が欠かせない。とかく日本人は、目に見えないものは存在しない、と思いこみがちのようだが、問題が目に見える形をとっているとはかぎらない。かりに氷山を問題だとすれば、水面下で氷山を支える氷塊を思い描くこと。それが構造の推定に通じるのであり、もしかしたら問題の全体像への接近法なのかもしれない。ここが、イマジネーション(想像作用)の出番である。イマジネーションとは、文学が独り占めすべき性格のものではなくて、健全な市民(がいるとしてのはなし)に必須の、文化的な賜物なのだ。
考えるというプロセスの三要素
以上のような見通しと心構えをもちながら、考えるというプロセスを正確で論理的に進めようとすれば、考える人に必要なものは、
①問題意識―なにを問題とし、どのように解こうとするのか
②考えるための素材(food for thought)―適切な材料と資料/テキスト
③イマジネーション(想像作用)―現実と不即不離に戯れることができる遊戯ごころ
――であろうか。
①と③については、なにがしか部分的にでも触れたから、ここでは主として②について記そう。すべてについて当てはまることは、ワインについても同じことがいえる、というのが前提である。
思考実験のカギは構想力
さて、アイディアを模索するのは一種の思考実験だが、その基礎として欠かせないのが、深くて正しい経験と、多角的で正確な情報。であるにしても、最後の切り札は、それらの素材を選びぬいて論理によって巧妙かつ強靭につなげる、構想力である。が、結論を下すのはまだ早すぎる。
読書を疑似体験に
書物から人は、読みようによっては貴重な疑似体験が得られ、ときに著者の優れた能力の働きを、共感作用をつうじて体得する(と誤解する)ことができる。人はすべてを経験し、味わって身につけることができない以上、他人の経験から学ぶしかないではないか。まして、世に絶する優れた思考のプロセスすら感じとれ、追思考できるとすれば、これほど有り難いことはない。でも、有益な経験と思考を書物のなかに読みとるには、工夫がいる。まず、どのような書物を選んだらよいかであるが、これについては前に触れた記憶があるが、あえて再説しよう。
最初に著者ありき
まず、テキストの文章でなく、著者の妥当性から検討すること。書かれた文章が、その著者による記述だとすれば、文章の出来不出来はべつとしても、書き手の力量が多かれ少なかれ文章に反映されているはずだからだ。(代理人がゴーストライターで書いている場合もあるから、念のため注意すること。ミステリー翻訳の「田村隆一」訳のようなことが、ないとはいいきれない。参考:ねじめ正一『荒地の恋』文春文庫)。
むろん文章と内容の検討を経ずして著者の優劣を論じることなど、論理的に不可能だから、文章そのものに目を通すべきなのだが、その経験をつうじて作品よりも著者の質を「格付け」することが眼目である。ワインよりもワインの造り手が肝心ということに共通していますよね。
ワインライターの資質を問う
ワイン文献ならば、まず著者が(人間としてはともかく)ワインについての書き手としての資質をそなえ、信頼できるかどうかを判断してから、思考の素材に提供することにしよう。あまりワインを嗜まない人、たとえば故・辻静雄さんを例にとると、料理の研究実践と料理書の蒐集や読み込みについては敬服すべきであっても、ワインについては氏の古い伝聞情報や読書がもとになっていたから、ほとんど実用の参考にならなかった。おもうに料理とおなじで、たとえ料理上手であろうと、不適切な土地やいいかげんな農法からできた食材でもって、まともでおいしい料理ができるわけがない。
経験の質
次に、著者の経験の質を、推しはかろう。もとより経験は、量より質がかんじん。質が低い経験とは、たとえばオリジナルからほど遠い劣悪なコンディションのワインを、ひたすら有り難がって飲むこと。1950年代や60年代に(あるいはそれ以降でも多くの)日本に輸入されたワインは、およそオリジナルとはかけ離れ、とても良好なコンディションとはいえない代物が多かった。とすれば、そのようなワインにもとづく体験は、間違った印象を植え付ける役にしか立たなかったと推定すべし。
ワインの理論信仰
逆に、頭でっかちもまた困りもの。たとえば、「この地層で、この品種からは、こういう味わいができるはず」というたぐいの知識や思いこみ。あるいは、特定の素材・製法・形状・サイズの容器を、どこにどのように設置するのが適切か、などについてのご高説など、である。とかく先入観は、著者の味覚をふくむあらゆる感覚と認識を染めかねない。期待と思いこみは、事実の敵であると思うべし。
理論信仰とは、理論を事実と短絡的に結びつけ、理論の絶対化をはかろうとする思考パターンであるが、その間違いには2タイプある。理論が誤っていたり、理論化が未熟で一般論の域に達していないという「公式の誤り」と、正しい理論が具体的なケースに間違って適用されるという「適用の誤り」であり、へたをすると両方とも間違っている惧れすらある。理論家タイプのワイン論は、強力な論理性があるかのように偽装されているから、眉にツバをつけてかからなくてはいけない。もちろん、ここでのわたしの議論など、まず眉ツバものの筆頭かもしれないから、ご注意あれ。
ワインの人間的要素
いうまでもなく、ワイン造りには媒介者として人間が必要不可欠であり、可変的で具体的な状況のなかでどのような判断と行動をするかは、その人しだい。だとすれば、「ワインづくりの環境によってワインが規定される」というような基底還元主義は、書き手の頭のなかで自家中毒を起こさせるだけでしかない。表面的あるいは機械的なワイン観を垂れ流す著者やワイン教室には要注意。
どうやら触媒としての人間は、目に見えない作用をワインと人に与えるらしい。知らず識らずのあいだに著述家が読者にたいして作用を及ぼすことは、ある程度避けられないから、怪しい書き手は避けるにこしたことはない。ことに、催眠術にかかりやすいタイプの人は、自戒されたい。
翻訳も要注意
さて、著者と著者が拠りどころにする材料(たとえば経験)の質の問題が、いちおうクリアーされたとしよう。ならば、「正しい経験」に恵まれる機会が多い、海外の高名なワイン専門家の著作なら信頼できるかといえば、これまた早合点は禁物。仮に上記のような難点をクリアーしたとしていたとしても、油断できない。翻訳の問題があるからだ。原著者の信頼性が高いとしてのはなし、訳者の力量をあらかじめ考慮にいれて訳書を忖度しなければならない。もっとも20~30年以上も前の翻訳のなかには、たとえば石川民三氏の訳文のように「誤訳の巣窟」もあったが、その点では最近の訳はレヴェルが相対的に上がっているから、ひとまず安心してよいだろう。
だが、まんいち引用するばあいには、念を入れてオリジナル・テキストを傍らにおき、原文を確認することが必要である。かつて麻井宇介さんが引用された箇所が、どうみても原著者の考え方とは思えなかったことがある。そこで原文と照らし合わせたところ、明らかな誤訳の引用であったと判かり、麻井さんにはこの旨をお知らせした。
翻訳に誤訳が付きものであることは、名翻訳者とうたわれる中野好夫さん自身のエッセイを引くまでもない。中野さんのあとで例にあげるのは憚られるが、わたしもまた翻訳めいたことに手を染めていたので、誤りの惧れをおおいに自覚している。それはともかく、訳者名には注意しすぎることはなく、瑕瑾なき名訳などありえないと胸に刻んでおいて損はない。なお、解説の名に値しない解説文は、たとえ著名なワイン人の手になろうとも、けっして鵜呑みしないこと。快刀乱麻とはほど遠い、お茶をにごしたような「解説」は、無くもがなの蛇足にすぎない。
おっと、またしても勢いあまって余計なことを言い募ってしまった。恐惶謹言。
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