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エッセイ:Vol.100 機中つれづれ

公開日: : 最終更新日:2015/11/05 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

   このたびは、エッセイには手つかずのまま、

 恒例の秋季出張に突入してしまい、やむをえずパリに向かった。機内でその準備をするしかないが、機内ではいまやルーティン化した生活パターンがあるから、それをおいそれと破るわけにはいかない。なにしろ12時間あまり幽閉されるのだから、身体と精神にあまり無理をさせず、快適とまではいかずとも、せめて楽しみたいものである。そこで、参考になるかどうかは別にして、わたしの機内生活ルールを記してみよう。

 1.環境の最適化。機内には電磁波が飛び交い、電動式の座席にはモーターが組み込まれているから、乗り込んだらまずおもむろに、身の回りの環境設定をはじめる。ここは、軽量でいくらでも持ち込みのきく、コルクの出番である。環境の三次元設定など難しいことはいわず、自分の座席周辺でとくに金属が用いられているところを重点にしてポイントを選び、使い古したコルクを適当に置くだけだから、いとも簡単。揺れる機内ゆえ、丸くて転がりやすいコルクは見失いがちなので、往復と旅行中での使用と紛失に備え、多めに用意することが肝心である。「ブショネ・コルク」、つまりはTCA などの汚染源をかかえたコルクであっても、機内の環境設定には役立つから、日ごろから集めておいて損はない。あなたの鼻が過敏すぎないかぎり、問題にはならない。なお、少しでも散逸や消失を防ぐため、コルクの底部を平らにしてカマボコ形にするなど、工夫をしてもよい。

 わたしの場合、この単純な環境設定だけで頭痛や足腰の痛みから解放される。タクシーなどの客席でもこの手法は有効とくるから、コルクは旅や移動のよき友である。コルクの用法に習熟すれば、旅行中に空けたワインのボトルからまめにコルクを回収することが、旅行術のひとつとなる。それに、コルクを回収するために、栓を開けるという口実にもなる(冗談)。ともかく、コルクの意義に注目するだけでなく、コルクの力を発揮させる工夫と術を身につけるように努めることが大切です。

 2.情報蒐集。長い機内幽閉というしばりの中で、いわば禍を転じて福と為す方法のひとつが、本や新聞からの情報蒐集である。これまたわたしの場合、フライト中は本と新聞を読むことに集中できる絶好の機会なので、機内では音楽や映画をさけることにしている。コルクの例と同じく、日ごろから機内読書用に(とはかぎらないが) 娯楽書とやや難しい本格的な書物を集めておき、新聞は切り抜き作業のコツを体得しておくことが欠かせない。問題は機内の照度不足にあるが、エアラインに多くは望めないから、目が疲れすぎたら止めて適当なワインなどの飲み物に手を出し、気分転換をはかるにしくはない。

 さて、今回読書用に選んだのは、出発の前日にたまたま入手した『細胞の誕生―生命の「基(もとい)」発見と展開―』(ヘンリー・ハリス著、荒木文枝訳、ニュートンプレス刊。原著は1999年、訳書は2000年の発行)。著者は、オックスフォード大学で欽定講座を担当する名誉教授で、長らく病理学校の校長を務めたよし。最先端の研究をふまえながら、たとえば17世紀以来の研究や発表論文などの原文をくまなく捜索し、すべて一次資料にあたるという原則を貫くだけでなく、重要な引用箇所は原文まで添えてあるという具合。興味深いテーマについて学術的な考察を加えた、正確で信頼できる良書である。

 実はこのところ、『大学用生物学の教科書』(訳書は講談社ブルーバックス刊、全3巻)などを読んでいるところなので、この本との出会いはうれしかった。なにしろ、細胞(セル)という用語は、ロバート・フックが原始的な顕微鏡でもってコルクの切片の中にはじめて発見して「セル」と命名したものであり、細胞説は『ミクログラフィア』に1665年に発表されたのである。この訳書にもフックによるコルク薄片の拡大断面図が転載されていて、興趣が尽きない。つまりわたしは、コルクにひかれて細胞学の一端と歴史を繙いているにすぎない、というオチである。

 なお、機内でわたしが読む新聞は朝日新聞と日本経済新聞、海外版はフィナンシャル・タイムズ(日曜版)とニューヨーク・タイムズを、できたらつまみ読みする。フィナンシャル・タイムズの日曜版を指定するのは、もちろんジャンシス・ロビンソンの連載記事がお目当てであって、英国発の経済情報を探るのが目的ではない。ついでに言えば、ニューヨーク・タイムズではポール・クルーグマンの経済エッセイが載っていれば読む。この経済学者はいつも気が利いた文章を書くし、鋭い共和党政策批判がおもしろい(朝日新聞に論旨が要約されることもあるから、だれでも楽しめます)。

3.機内飲食。これは、あまり選択の余地がないから、せめてメニューの原文などを読みながら、味わいを推測するしかない。ちなみにエールフランス機内のワイン選択は、世界ソムリエ・コンテストで首位となったパオロ・バッソと、ベタンヌ&ドゥソーヴ組によるのだから、いくらかあてになる。

 しかも、パオロ・バッソには縁がある。東京で行われた世界コンテストにそなえて、その前日にラシーヌ・オフィスの試飲室に選り抜きの候補者たちが集った。その際にブラインドで供されたのが、ギリシャのサントリーニ島・クレタ島・ナウサ、スパインのビエルソ、オーストリアのバッハウ、イタリアはチンクエ・テッレなどからの、珍しいタイプのワイン。このブラインド試飲で、抜群の正解率でもって他の候補者を圧倒したのが、パオロ・バッソであった。というわけで、わたしにとってパオロは尊敬すべき「仲間」のようなものでもある。

 けれども、今回のワインリストは、期待したほどではなかったことを、正直に付け加えておこう。そもそも最初にウェルカム・ドリンクとして供されたシャンパーニュ(造り手の名は伏せる)は、明らかにブショネだったので、少し間をおいて別のボトルからのグラスに代えてもらって、事なきを得た。おいしく楽しもうと思ったら、やはりふだんのテイスティング態度が大事なのですね。

 
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