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エッセイ:Vol.99-2 おーい安倍くん、ありがとう

公開日: : 最終更新日:2015/10/06 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

戦後日本をつうじて未曽有の難技を放ったわれらの首相を、

 個人的な親愛の情をこめて君づけし、キミ呼ばわりすることを許してほしい。安倍くんよ、いとも大切で基本的な事柄を、こんなにも矢継ぎばやに思い起させてくれたキミに、一市民として感謝している。  

 キミは稀代の悪役を入魂の技でもって演じ、民主主義への意識を覚醒させた。言葉が事実よりも大事だという逆説に気づかせたキミは、単なるレトリック上手どころか、言葉の魔術師、現代のジョージ・オーウェルだ(注1)。戦争を平和と呼んで、本来とは正反対の意味を盛り込むという離れ技を苦もなくやってのけた。平和島を戦争島、平和記念公園を戦争記念公園などと呼び変えるのはいささか億劫だけど。本当のところ、ボクラのような戦争好きでも、戦争という言葉だけは露骨すぎて使いたくないんだ。

 だが、言葉の背後にある事実関係と真実のありかを、キミは身をもって指し示してくれた、わざわざヤジまで飛ばしながら丁寧に。キミの議論のしかたは例によって舌足らずで性急なものだから、キミの意図が善意から出ていて、裏などありようがないのに、妙に勘ぐられてしまった(注2)。

 たしかに、具体的な目的(平和)と手段(戦争)の関係(注3)や、形式(法律)と中身(軍事行動の要件)の関係についてやや判然としなかったのは、キミがわざとぼかしたのではなくて、キミの論理と心理(注4)がわかりにくかったからだろう。

 口べたなキミの代わりに説明すれば、キミの暗黙の論理はこうだ。「自分は正しい。ゆえに、正しい自分がすることはすべて正しい。」こう口に出すのは誤解を招きかねないので具合が悪いけれど、じつに単純明快な循環論法なんだ。知ってのとおり、正義は独占できない。にしても、正義の所有者はなにをしてもよいし、なにごとも許される――というキミの信念は正しい、なにが正しいかを別とすれば。

 でも、法案の審議をつうじて、国民大衆に危険そうな雰囲気を察知させ、民心をして慄然とせしめ(注5)、言外の意味をくみ取る知恵を授けることができた。今にして思えば、あれは国民を自発的に考えて行動させるための、ブレヒト流の高等戦略だった(注6)。

 結果的に、キミの独特な語法と議会やマスコミの統制作戦が奏功し、法律面での戦争準備態勢はできた。なにしろこの国は法治国家ですからね。でも、あとは条件が整いしだい実動に移るのみと安心するのは早計だと、老爺心から忠告しておこう。

 

 政治の世界(注7)では、なにごとも争点を避けてとおれないが、安保法案は平和ボケ、いや戦争ボケした大衆の眠気を覚ます効果ばつぐん。争点があることは価値観が多様なことの証しであり、憲法の存在そのものが戦後の一大争点だった。が、憲法の目的が政治の暴走を防ぐことにあり、憲法は市民を政治から守るための手段になるという革命の原理を宿していることまで、キミはあえて教えてくれた。おかげでいまや、安保法が憲法違反だと大半の国民が知っている、いや、思っている。キミにとって現行憲法など、改正すべき対象であって、どうでもいいものだけれど。

 ともかくキミは、眠れる国民を啓発するために憲法を否定してみせるようなそぶりは、もう必要ない。「憲法とはなにか。言葉だ。言葉とはなにか。空気だ。空気なんか吹き飛ばしてしまえ」と、フォルスタッフばりの空元気(注8)をみせるまでもない。空気の振動にすぎない言葉でもって組み立てた憲法を棚上げするのは、そもそも自民党のお家芸じゃないか。目に見えない高尚な理念など、犬にでも食わせておけばいい(注9)。キミにとっての具体的な利害関係だけを見ればいい、という原則あるいは本音は語るべきではなくて、実戦いや実践あるのみ。

 たとえば国際関係。戦争をしてまでも他国の間違いを正す、という過剰なまでの責任感がつよい北米との安保条約や公約を、国内法よりも優先させたのは、おなじく責任感がつよいキミならば当然。キミの岸爺の立派なお手本があるじゃないか。立法後、すぐ退陣してしまったが。

 

 とかく民主主義は効率が悪いのが困った特徴。だから、少数派との合意形成よりも、多数派の意見を尊重してテキパキ決めていく、たとえ国会内だけの多数派であるとしても、という割り切り方はお見事。「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」(注10)なんて説教に耳を傾けてはいられないものね。

 そこで提案。手間がかかる民主主義がキミの苦手ならば、キミたちの党名から民主を外して自由党、自由も邪魔なら「党」とか「わが党」と改称してはいかが。「党」にはちょっと共産党くさいイメージがあるので、やはり「わが党」しかあるまい。それに、羽仁五郎によれば、かつてある自民党議員が、勢いあまってこう演説したとか。「板垣死すとも自由は死せず。自由は死すとも、わが党は死せず。」おもわず真実を告白してしまった名言です。だからキミたちの党名も思いきって「わが党」と改めれば、脱イデオロギーになるし、名が体を表して誤解の余地なし。それにみんなの党はすでに解党してしまったから、どこからも文句は出ないでしょう。

 それにしてもキミの功績は多大。主権者がだれであるかをしっかり教えこむなんて、文部科学省の役人にはマネできない芸(アート)だ。政治は可能性のアート(注11)だとすれば、歴史に残るキミたちのアートを胸(ハート)に刻みつけさせよう。そのために、集団的自衛権を行使可能にする安保法をめでたく成立させた9月19日を国民の祝日(注12)にして、主権者デーと呼んでみてはどうか。むろん、式典にはキミが主賓に招かれ、その労が讃えられるべきだから、辞退することはない。毎年の主権者デーや、毎月19日に、「ケンポー」とか「キュージョー」とはいいながらデモをしたり、片目をつぶって乾杯したりするのは、国民の自由さ、まだ自由が生きているならば。ともかく、必ずや国民はキミの名を思いだすはず。忘れるような非国民、いや国民はいないから、安心したまえ。安倍くんよ。

 

。まず注について。わたしはこれまで面倒臭いので、文章に注をつけず、本文に織り込んできた。そのため、ただでさえややこしい雑文が、いっそう捻じれて読みにくくなってしまった。そこで今回の戯文については、例外的に注を添えることにした。が、ふだんから原文を確かめることをせずに記憶に頼って引用しているので、不正確は覆いがたい。確かめる余裕がないし、教養ある読者には注は邪魔だろう。そこで、最小限度の、おぼめかしめいた注をつけることにした。無視していただいて結構ですが、舞台裏に興味のある方はどうぞご覧ください。

 

注1.ジョージ・オーウェル『1984年』

注2.勘については、戯文1参照。

注3.目的と手段の関係については、オルダス・ハックスレーの名エッセイ『目的と手段』参照

注4.丸山真男『超国家主義の論理と心理』のタイトルを援用したもの。

注5.「民心をして慄然とせしめよ」は、明治の県令・三島通庸の有名な言葉。

注6.ブレヒト流の高等戦略とは、彼の叙事的演劇理論における異化効果作用をさす。

注7.政治の世界は、同名の丸山真男の著作名。岩波文庫。

注8.フォルスタッフの空元気については、シェイクスピア『ヘンリー四世』参照。

注9.「魂など、犬にでもくわせておけ…」は、花田清輝『復興期の精神』(講談社文芸文庫)より。

注10.「権力…」は、政治のダイナミズムと真髄をつくアクトンの名言。

注11.「政治はアートか、科学か」は、丸山真男の問題設定。

注12.国民の祝日を設けることは、予算不要でお手軽な政策であり、ポピュリスト政治の愚民化政策であるという考え方もある。

 
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