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エッセイ:Vol.95 読まない、書かない

公開日: : 最終更新日:2015/07/01 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

いつもながら書くことに窮して、

 存在しないものに魅かれ、根も葉もないおとぎ話や空想談義にふけりだしたら、架空の書物について架空の書評をするといった高級芸や、架空の伝記集など往時の記憶が、ふとよみがえった。まあ、ここまでくれば、いっそのこと、思いきりハイブラウな世界に浸るのも悪くないかもしれない。そこで、この度は題して、「読まない、書かない」。いささか対比列伝風の構想である。

 とはじめれば、勘のよい読者ならば、すぐにその先が読めるだろう。ここに登場するはずの、とびきり高雅な書物、というより雅趣をただよわせる著者は、夷斎・石川淳先生と学匠ジョージ・スタイナー。種本は、「読まれそこなひの本」(『夷斎遊戯』、増補・石川淳全集 第12巻所収、筑摩書房)と、スタイナーの『私の書かなかった本』(伊藤誓・磯山甚一・大島由紀夫共訳、みすず書房、2009)である。

 が、帰国直後で頭があまりはたらかず、時間のゆとりもない私には、今回ここで存分に取り上げることができない。ここは例によって、雑談でお茶を濁すとしよう。

 「精神の冒険家」石川淳は、銀座の粋なレストラン『胡椒亭』でその姿を見かけたことがある。これまた雲散霧消した、12人のワイン狂からなる「ワイン・クレージー・クラブ」の月例定例会で、シャトー・ムートン・ロッチルドのヴァーティカル・テイスティングを、胡椒亭で開いた。当月の幹事役だった私が用意したワインの点数は無慮10数本。今となっては不可能な企画である。当時の私は、まだ30代の半ば。会場内で張り切ってワインの準備をしていたら、店の常連だった石川さんから、通りがかりにジロリと睨まれた。生意気な若造が、上等なワインをもてあそんでいる、と言わんばかりの冷たい眼差しを浴びせられ、身が縮んだ思いがしたものである。小柄な石川さんから発する気はすさまじく、有名な罵詈酔言よりもこたえた。今にして思えば、私がその会に用意したワインは、いずれもコンディションが不十分であったように思える。

 思えば胡椒亭では、店の「精神的パトロン」である吉田健一さんや河上徹太郎さんによく出くわし、カウンター席で横並びに座ったものである。河上さんには、慶応大学・小泉信三記念講座で、連続講義「日本のアウトサイダー」の講筵に連なったことがあるから、わが師と呼べなくもなかったが、恐れ多くて声をかける勇気はなかった。吉田さんは河上先生と仲よく連れ立って姿を現し、カウンター席では朗らかな陽気な笑い声をひびかせていた。というより、笑いながらときに話し、ワイングラスを傾けるという風情。笑談の雄という趣きがあった。ただ、これらのお三方が同時に姿を現したことはなかったように記憶する。

 さて、石川淳。このエッセイ「読まれそこなひの本」は、読者の想像に反して、読まれなかった本という意味ではなく、本には読み頃がある、という趣旨であった。フランソワ・モーリアックの“Mémoires intérieurs”(内面の記憶)によると、モーリアックは大冊のトロツキー自伝をテーブルの上に置いたまま、二年間ものぞかなかったが、「スターリンたたき出し」(フルシチョフによる糾弾開始?)という状況変化の中で、読む気になったとか。ちなみに石川淳は、「ひいき役者」であったブハーリンの読み頃は、1923年前後の数年であったとする。

 著者によれば、「一般に本はいつ読んでも構わないはずのものである。(…)しかし、まともな本のことにして、これを読むにおのずから適切な時期があり、その時期をえなくしては先入観を排して正確に読みとれないような本が世の中にある」とのこと。

 同エッセイによれば、本居宣長が読まれるのに適切な時期は、日本精神が横行した戦時中ではなく、負け戦の直後何年かのあいだにあった」とか。時代が求める書物があるというのは、卓見である。思うに石川は、小林秀雄の大作など、白眼視したのではなかろうか。

 石川のいう本の読み頃とは、ワインの飲み頃(製造して何年後)とは違い、書き手の問題意識と読み手のおかれた時代環境とのあいだに、適切な交感関係がある時代、という意味なのだろう。 特定のジャンルのワインは、特定の時代精神、一時期の風潮を映し出していることはたしかである。けれども、ワインの飲み頃を選ぶのは別の話で、マット・クレイマーも否定したように、ワインにピーク曲線を想定するのは、分かりやすいが誤解を招きやすい発想でもあることに、注意が必要だ。

 

 話はかわって、スタイナー。この著者による何冊かの邦訳は、わが書庫の奥深くに眠っているが、なぜか手強そうで、あまり食欲をそそられなかった。けれども、『私の書かなかった本』“My Unwritten Books”というひねった書名には、思わず飛びついてしまった。自分が書かなかった本について、内容のある本を著すとは、矛盾した表現なのだから、執筆の準備作業だけでなく、よほどの知性と文章力(芸)が伴わなくては、書きようがないはずだ。じっさい、本書に付せられた短い序文が言いきっているように、「以下の七つの章のひとつひとつが、書きたかったが書けなかった一冊のほんについて語っている。これらの章はその理由を説明しようとしている」が、じじつ、その意図は成功している。

 章立ての一部「中国趣味について」「妬みについて」「エロスの舌技」「ユダヤ人について」「論点回避」だけをみても、興味を引かれる。第一章の中国趣味論では、超大作『中国の科学と文明』を著した科学史家の巨人ジョゼフ・ニーダムの人間性に迫り、徹底的にその虚言癖をあばく。ニーダムとのインタヴューのなかで、嘘を感じとったときのスタイナーは、デリケートな喩えをする。「訓練を受けた耳の持ち主は、クリスタルグラスの縁にそって指をすべらせれば、それだけで微小な傷の存在にきづくそうである」なんていう見逃せない表現は、ワイン好きにはうれしい。

 終章の「論点回避」“Begging the Question”は、スタイナーの「政治的見解」や「本当の立場」にかんする質問への、「プラトン主義的アナーキスト」からの、よく練られた答えである。が、タイトルからしてじつに洒落ていて、訳注をそのまま引けば「証明すべきことを初めに真とかていして論じる」こととされる。カール・マルクスを引用しながらスタイナーは、「人間は、すでに解答をもっている、あるいは、もつであろう問題だけを提起する」と述べる。このように、言葉と精神、つまりは人間に対する深くて複雑な理解のしかたが、本書への信頼を深めるだけでなく、現代と生きている意味の再考察へと導いてくれる。

 同じ綴り字Steinerであっても、ジョージ・スタイナーは、ルドルフ・シュタイナーよりも、現代の知性と感性に対する、刺戟と啓発に満ちている。

 さて、これで、読まないことと書かないことへの考察が終わっただろうか。じつはご覧のとおり、ここに紹介したのは、才能と知性の冒険心あふれた文章家による、「いつの時代に何をどのように読むか」という示唆と、「書かなかったことを、いかに思慮深く、かつ人間的に考察できるか」という、知的作業の楽しいお手本がある。つまりは、読まない・書かないという短絡した思考とは無縁なのである。「読まず」「書かず」は「考えず」にしか通じないのだ。(了)

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