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エッセイ:Vol.91三酔人架空ワイン問答(2)

公開日: : 最終更新日:2015/02/03 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

ワイン批評家(A)、ワイン雑誌編集者(B)、ワイン・インポーター(C)

が寄り集い、ワイングラス片手に忌憚のないところを語りあうという想定で、もめながら話は続く……

B:(話が途切れたので、繕うように)
 こういう異質なワイン関係者があつまれば、ふつう無難な内輪話やゴシップの交換になりがちですが、なぜか議論が昂ぶっているようですね。職業的なプライドが高いせいか、それとも、編集業の私は別として、顔をそろえた方々の個性が強いせいでしょうか。

A:
 もとはといえば、これはCさんが自分で土俵を設定して、議論を仕掛けたせいじゃありませんか。それにしては、争点がぼんやりしているけれど。いずれにせよ、各自の意見や主張があるはずだから、大いに論じあいませんか。

C:
 仕切り直しですか、まあ、それもいいでしょう。ならば本腰を入れて、――環境設定ではなく――土俵の再設定をするとしましょうか。それぞれの業界に通有な視点があるとすると、私の考えでは、役割論がそれです。つまり、ワイン批評・ワイン雑誌(または、ワイン・ジャーナリズム)・ワインインポーターの、それぞれの役どころは何か、という問題です。どのみち私たちはみなワインの利害関係者ですが、こういう視点なら誰にとっても公平で、恨みっこなしでしょう? 

B:
 おっと、すごい問題が勢ぞろいしましたね。ちょいと三題話めいていますが、たしかに面白いテーマです。けれども、これらを議論できるだけの用意がいま、あるのでしょうか。少なくとも私にはそれだけの準備が整っていない、と言わざるをえません。日々の取材や誌面づくりに追われて、自分の属する業界全体を視野に収めるだけの余裕がなかったと、反省しています。

A:
 ずいぶんと早手回しの白旗というか、率直な認識のようですが、まさか、議論からの脱退宣言ではないでしょうね。私からは、ワイン・ジャーナリズムについて、言いたいことが山ほどあるので、この問題を俎上に上せないのは、惜しすぎます。

C:
 自分でいうのもおかしいけれど、各テーマにはそれぞれ意味があるから、ゆっくり検討したいですね。それに、私たちは各業界の代表者ではありませんが、それぞれが業界で長く、ある意味では深く、仕事に携わっているし、同業者と国際的なお付き合いもある。そういう視点もまじえながら、さまざまな観点から検討できるはずです。

 ただ、プラグマティックにいえば、時間の制約もあるので、これらの問題を今日すべて議論しつくすことは不可能。だとしたら、どれかひとつのテーマに絞りませんか。

A:
 それなら、インポーター稼業、もとい、インポーター・ビジネスを取り上げるべきではありませんか。ワインとの関係でいえば、生産者と販売業者や飲食提供業者をのぞけば、流通業者はワインといちばん深くかかわっていますし、どの国でも輸入ワイン業の使命と役割はとてつもなく大きいはずです。

C:
 危ない、危ない。またしても「胴上げ落し」という魂胆ですね。たしかあなたは、本気でいいと思っているかどうかは知りませんが、日本ワインも持ち上げていたはずなのに。あれは、リップ・サーヴィスなのですか? おっと、個人的なことに口をはさむべきではありませんね、それもお仕事のうちなのでしょうから。

B:
 皮肉や嫌味をいうのは、インポーターの仕事とは思えないから、あなたの趣味なのでしょうね。あまりいい趣味とはいえませんが。ともかくインポーター本来の役割とはなにかを、徹底的に論じるべきです。たとえば、アメリカのさるインポーターは、“We import passion”、つまり「私たちは(生産者の)情熱を輸入している」というスローガンを掲げていますよね。日本でも、そのくらいの見識と覚悟をもって、仕事をしている真面目なインポーターがいるのでしょうか? 

C:
 なしくずしにインポーターを論じようという寸法でしょうが、その手は食いませんよ。一般的にいえば、どこの国であろうと、標語はしょせん言葉にすぎません。「言葉、言葉、言葉」というシェークスピアのセリフじゃありませんが、言葉を鵜呑みにしてはならないことは、批評家のあなたがいちばんよく知っているはずでしょう。事実と言葉とは、そもそも無関係なのです。ところが、日本でもどこでも、事実に根ざさない言葉やワイン用語が横行していて、ワイン界と消費者を混乱させている……

A:
 おっと、そういいながら、批評論をしようとしているのは、狡いじゃないですか。はやくテーマを決めましょうよ。 

B:
 ジャーナリズム論を取り下げていただいたようですから、私としてはせめてもの罪滅ぼしに、ジャーナリズムと本質的につながっている批評の役割を、論じていただきたい、いや、論じたいですね。

A:
 つい、編集者の発想が出てしまいましたね。それにしても、二対一じゃ衆寡敵せず。仕方ない、ここは、批評の役割というテーマでいくとしますか。

C:
 これは珍しい、あなたが妥協するとは。たぶん、内心は批評のありかたを論じたいのではありませんか。

A:
 忖度はご無用に。早速、本論に入りましょう。Cさん、口切りのテーマ演説をお願いします。

 

批評の役割?

C:
 そんな用意はありませんが、雑談としてお聞きください。

  実は昨年欧米のワイン界で、ブログや雑誌をにぎわせたのが、ワイン批評の役割という話題でした。いちいち丹念にフォローはしていませんが、なかでも私がつねづね敬意を払っている二人が、見識あふれる意見を発表していました。エリック・アシモフとアンドリュー・ジェフォードです。それに、マット・クレイマーの文章を付け加えたいのですが、クレイマーの視点はすこしひねったもので、正面からこの問題を論じたものではありません。が、それにしても、欧米を代表するワイン界の論客がそろってワイン批評(wine criticism)を論じているのですから、壮観でした。

 参考までに、それぞれの原題と仮の訳を添えれば、こうなります。

 ①マット・クレイマー“We’re Not Going Anywhere” 「私たちは不動です」(“Wine Spectator”, Drinking Out Loud, 2014.12.02)。副題は、「アルゴリズム(馬鹿者という意味もある)は、批評家にとって代われるかだって? 考えなおしたまえ」。

 ②エリック・アシモフ“A Wine Critic’s Realm Isn’t a Democracy”「ワイン批評の分野にデモクラシーなし」(『ニューヨーク・タイムズ』掲載ブログ“The Pour”2014.04.21)

 ③アンドリュー・ジェフォード“Whither Tasting Notes?”「テイスティング・ノートよ、いずこへ?」(“Decanter” 2014.04.08)

いまは各記事の論旨をたどる余裕が無いので、概略だけを紹介しておきます。

 ①『ワイン・スペクテイター』に拠り、今回は軽いノリで書いているクレイマーの要旨は、《あなたの個人的な嗜好を熟知し、反映させると称するスマートフォーンのアプリは、ワイン批評家がいかに主観的で当てにならないとはいえ、その代役にはならない。》カスタマイズド・サーヴィスをすると称する石頭のアプリをからかい、批評家一般とワイン批評の意義を高らかに称揚する。が、自分にしか関心がないワインオタクのたぐいを返す刀で切り捨てるという二枚腰ぶりも鮮やか。常に新鮮な関心を保ち続ける知性派の面目躍如たるところがあります。

 NYタイムズのアシモフは、「ワイン・クリティック(批評家)は、個人的な好みを彼らの批評的見解で彩るべきなのか?」という問題に対して、賛成。しょせん中立(ニュートラル)は偽装にすぎず、ワインのスタイルという問題について、批評家は積極的に自分の考えを述べ、ワインの世界観を明かすべし。消費者が真に求め、その助けになることを批評家が提供し、消費者の判断を助け促すようなガイド役に徹すべきだとしています。

 ディカンター誌のジェフォードは、ワイン・ライティング(面白くてためになり、ワインの文化的な深みまで視野に収める)と、ワイン批評(消費者サーヴィス、個別ワインの叙述と評価にもかかわる)を峻別しています。評価点数は添え物で、批評の眼目はテイスティング・ノートにあり、これが批評家の名声を築きあげる。《出来のよいテイスティング・ノートには実用的な価値があり、官能的な経験をメタファーと分析の力を借り、その経験を適切な文脈の中に落とし込むことによって、伝達する。読者にとって、これがワイン造りの達成点を評価し、ワインに付けられた価格と対比してその真価を測るさいの、手助けになる。》

 

A:
 紹介はそのくらいにして、批評家の役割をどのようにとらえるべきなのか、あなたの考えを聞かせてください。

C:
 折角だから、彼ら3名の説をふまえながら整理してみましょう。

仮説a) ソーシャル・メディアやブログの浸透と活動により、情報があふれるインターネット時代には、かたやアプリの充実もあって、ワイン批評の役割は減る。ワイン批評は衰えゆく技法であり、批評家は不要になる。

仮説b)ワインライターもワイン批評家も、ライターとして経済的に自立し、生産者や輸入・販売・サーヴィス業者から独立して生計を立てるのは、(英語圏における一部プロの例外を除けば)至難。別の本業がなく、多少ともワインビジネスのパラサイト(寄生)化せざるを得ないとすれば、ライター業は中立性を装うにしろ、スポンサード・ビジネスにならざるを得ない。これは、ワイン・ジャーナリズムも同じである。

仮説c) 情報化社会の進展、ワイン生産の変化、ワイン業界の多様化・進化・複雑化により、ワイン批評の使命は高まる一方である。映画や音楽、書物の批評と同じく、わけても経験と知識の蓄積を要するワイン批評は、あくまでも消費者の判断を間接的に支える実用的なガイド役になるべきである。実戦記録である良質なテイスティング・ノートを通じて、それは可能である。

仮説d) ワイン批評よりも、ワイン・ライティングを上位概念とし、個別ワインのテイスティング・ノートという各論よりも、ワイン一般に対する態度や見方、すなわち価値判断の基準・質と内容を重視する考え方。批評(家)という美名よりも、ライターその人の思考作業に重きを置いてワインの見方を培い、業界と消費者すべてを啓発すべきである(その手本は、マット・クレイマー)。

 

B:
 なにか、壮大な見取り図めいていますが、他人の説に名を借りただけで、ワイン・ジャーナリズムには好意的でない仮説が散見されるようですね。いったい、なにが言いたいのでしょうか? ワインには未来があるけれど、ワインライターやワイン批評家とワイン・ジャーナリズムには、未来がないというのは、それはあなたの独りよがりではありませんか。

C:
 なかなか鋭い意見ですが、やや見当違いのようです。たしかにワインに――すべてのワインにではありませんが――未来はあると思っていますが、ワイン関連業界は玉石混交だから、そのなかの珠玉を選んで議論しなくてはいけませんね。

 また、ワイン生産の方向性次第で、その従属変数であるワイン関連業界も変わっていくはずですが、生産界も世界の消費者界の動向をにらんでいるから、その中を取り持つのが、無数のブログをふくむ、広義のワイン・ジャーナリズムかもしれない。

仮説a)~d)は、面白半分に作っただけで、参考までにという代物なので、歯牙にかけなくて結構。私の説よりも本当は、この3人組の記事を読んでいただきたかったまでです。

B:
 形勢不利とみて仮説を引っ込めながら、ワイン・ジャーナリズムを持ち上げた気配がありますね。まさかCさんは、オポチュニストではないでしょうね。

C:(むきになりながら)
 私はラディカルであるとしても、日和見主義者ではありません。ただ、世界の情勢は流動的だから、固定して受け身に捉えずに、その可能性と動態を考えに入れたいだけのことです。
 評判の悪そうなわが仮説については、ちなみに自分の仮説支持率を図示すれば、

  1. a) ×、b)△~○、c)○~△、d)○~?となります。

a)は、すでにクレイマーによって論破されていますが、仮説のバランスをとるために入れただけのこと。
b)のパラサイト仮説は、かつてジャンシス自身が述べたもので、少なくとも本人は意識していること、間違いありません。パラサイト化が程度の問題で済めばいいのですが。ライターのメンタリティと志しだいという面もありますね。
c)のテイスティング・ノート重視説は、良質な書評と違って、あまり良質なワイン・ノートに出会いにくいので、あえて△を付け加えましたが、本当はあなた同様にその出現と成長を期待したいところです。   
d)は、まだ仮説として熟していないので、「?」を加えましたが、「上質のワインライター、出でよ」というのが年来の希望です。

A:
 なんだ、自分で点数をつけちゃったようなものじゃ、ないですか。評価点には信頼をおいていないくせに。まあ、やれやれで、私の出番がなくてよかった。
ちなみに、あなたが課している批評家の役割を、現実のワインライターはどの程度、実現していると評価しますか?

C:
 やばい質問ですね。あなたはライター業界人だから、ここは評価の対象からはずして、また別の席で述べなければいけませんね。それより、私の意見なんかより、ジェフォードが同じ記事の中で、『ワイン・アドヴォケイト』の執筆陣と、英語圏の著名ワインライターについて、実名をあげて触れていますから、ぜひご覧のほどを。驚くほど率直かつ鋭利な評価を下しています。参考までに、ジャンシス・ロビンソンとスティーヴン・タンザーについては、次のように述べています。
 《ジャンシス・ロビンソンのテイスティング・ノートは、他の分野におけるほど彼女の天賦の才を示していない。最上のワインに対するノートといえども、どこか簡略版じみてスタッカート風な断続音がひびき、ときに気まぐれで、内的一貫性に欠ける。本人がまるでノートを付けるのに退屈気味でじれったさを覚え、早く次のワインへ移りたいと焦っているかのよう。》
 《スティーヴン・タンザーのノートは、綿密正確で信頼性が高く、よく整理されているが、あまりスリリングではない。》
 わけてもジェフォードのジャンシス論は、私の見方とあまりに一致するので驚きました。ジェフォード自身、完璧なワイン批評家はいないと考えている節がありますが、本日の掉尾はジェフォードの言葉で飾らせてください。
 《(省略したライターの名を含めて)わたしは、以上のライター諸氏の労量と洞察に多大な感謝の念を表したい。テイスティング・ノートは、もともと短命なうえ作法(の上達)も難しく、多年の幅広い経験を要するだけでなく、その実行・編集とページやスクリーン製作までに、おびただしい時間と費用、労力がかかる。自分でもっとよくできるとお考えでしたら、どうぞお試しあれ。》

A:
うまく逃げましたね。

C:
 そう言われて、黙っているわけにはいかない。それじゃあ、ライターに注文をだしましょうか。その第一は、当りまえながら、聞き書きはインタヴューではないということ。聞いた言葉の全てあるいは断片を連ねただけでは、論をなしません。語られた言葉が、どの程度、あるいはどのように、事実と重なっているのかを明らかにすることが、ライターたる者の責務ではありませんか。ここで、事実と真実の違いはなにかという基本的な問題があります。たとえばスーザン・ソンタグは『同じ時のなかで』(NTT出版)にふくまれた「言葉たちの良心」というスピーチのなかで、こう語っています。
 《作家の第一の責務は、意見をもつことではなく、真実を語ること…、そして嘘や誤った情報の共犯者になるのを拒絶することだ。作家の職務は、多くの異なる主張、地域、経験が積み込まれた世界を、ありのままに見る目を育てることだ。》
 まるで、ブレヒトもどきの見事な発言ですが、ここで「作家」をスーザンその人のように、「評論家」と言いなおしてもいいでしょう。さて、そこで次の問題がでてきます。何ごとについても意見をお持ちのライターがいますが、同じくスーザンが述べています。
 《みずからが十分な直接的知識をもっていない事柄について自説を公に広めることには、何か卑しさを感じる。自分の知らないこと、あるいは拙速な知識しか持たないことに関して語ることは、コメント屋への堕落だ。(…)意見にまつわるもうひとつの問題。自説に凝り固まるきらいがある点だ。作家がすべきことは、人を自由に放つこと、揺さぶることだ。》
 およそ意見なんて誰でも持てるものだし、ひけらかすための知識は、真実とかかわりがないのなら、単なる字数稼ぎか空白の穴埋めにすぎません。ついでにいえば、違う文脈ですがケネス・バークがいうように、「あらゆる生物は批評家だ――疑似餌から逃れた魚のように」とすれば、誰でも批評家になれるのです。もっとも、批評家を批評する楽しみを、批評家が与えてくれる、と言いなおしてもいいでしょう。

B:
 ひどいなあ、人を魚扱いするとは。同業者に対する侮辱ではありませんか。

C:
 そんなことはない。文章を発表する人は、まな板の上の鯉になることから逃れられない宿命にあるというだけのこと。もっとも、食えない魚があるように、食えない人間もいるからね。

A:
 そういうあなたも食えない人ですね。同類というわけですか。結論が出たようですね。

C:
 おっと、待った。まだ言いたいことがある。およそ誠実なモノ書きが守らなければならないことがあるのではないだろうか。「『誠実』でない研究は何か」(『言葉を大切にしよう―論文・レポート作成の心得』東大大学院人文系研究科文学部、「文学研究の場合」)のなかで、避けるべきこととして次の5点が示されています。
1.怠慢 2.剽窃 3.無視 4.おべっかと罵倒 5.はったりと嘘
 私たちは研究者ではないけれど、これを守るようにすれば、ワイン評論もまた質が向上するのではないでしょうか。

A:
 いやはや、言いたい放題ですね。それじゃあ、私もつけ加えるとしましょうか。引用だけでは文章にならない、と。

C:
 それで一矢報いたつもりならば、大間違い。自分の言葉で語ろうとする前に、よりよく正確に語られた文章や表現を紹介する方が、よほど誠実であることが多いのではないでしょうか。引用しているのに、さも自説であるかのように装う方が、もっと問題だと思いますね

B:
 これは耳が痛いですね、ワイン・ジャーナリズムにとっても。まあ、それくらいで今日のところはご勘弁ください。(終)

 


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