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合田玲英のフィールド・ノートVol.27

Vol.27

 チリへやってくる前のチリ観は、ざっと次のようなものでした― 〝気候のおかげで、ブドウの病気がない。19世紀後半にフィロキセラもやってこなかったため、ブドウ樹は自根でどれも古い。それゆえワイン生産者にとってはまさに楽園″。実像もまた、ほぼイメージどおりでしたが、今回訪問したワイナリー、アグリコーラ・リュイット・リミタダ社のルイ=アントワーヌ・リュイットの活動を通してみると、また違った姿が見えてきます。

《 チリ 》
 チリは南北に4600㎞伸び、地域ごとに生活様式が全く違い、栽培されているものも違います。ブドウ畑が広がるのは大体南緯30~40度の間で、いちばんブドウ栽培の盛んなマウレ・ヴァレーは、南緯35度のあたりにあります。ちなみに南北の垣根をはずすと、北緯35度は地中海ではモロッコやアルジェリア、チュニジアの辺り。ヨーロッパでは、ギリシャのクレタ島やキプロスに当たり、かなり緯度が低いことが分かります。ちなみに東京も北緯35度なのだそう。
 ルイ=アントワーヌが活動しているマウレ、イタタ、ビオビオの3つの谷は、15~16世紀にかけてスペインの侵略初期にブドウの栽培が始められた場所で、その時に現在も古木として残っているパイス種(北米のミッションと同じ)などが持ち込まれました。気候は地中海性気候で、地中海諸地域のように冬が多雨で、夏は乾燥します。チリの場合は、雨が半年間ほとんど降らないことも珍しくありません。昼夜の寒暖差も大きく、冬至を過ぎたクリスマス前の現在も、日差しは強く乾燥していますが、日が落ちると同時に急速に冷え込んでくる。やはりブドウの生育に適しているのだなぁ、と思います。

 

《 フィロキセラ・古木 》
 上記の3地域の土壌は、マグネシウムや鉄の金属を豊富に含んだ赤土や、花崗岩が多い。ですが、どうやらフィロキセラを寄せ付けない土壌というわけではないらしい。チリの地理的特徴として、北には世界一乾燥しているアタカマ砂漠、東にはアンデス山脈、南部の氷雪地帯に、西の太平洋に囲まれた陸の孤島といわれています。
 それのおかげでフィロキセラがやってこなかったのだとしても、本当はただやってこなかったというだけのこと。万一やって来てしまったら、大変な被害が出る可能性があるそうで、そうならないよう祈るばかりです。そのためチリでは、フィロキセラ対策としてだけでなく、動植物一般の出入りに関しては特に厳しいとか。そういわれてみると、空港でも一回余計に手荷物検査がありました。それでも3年前、ヨーロッパから中古で購入した収穫機の中の残留物に、ブドウの病気がついてきていたけれども、問題なく処理が出来たそうですが、こういうことがあるとやはり不安になります。
 フィロキセラやうどんこ病、べト病は、アメリカ発でヨーロッパへ海を越えて襲来したのだから、「いつかは」と思ってしまいます。どうかチリだけはこのまま無事でいてほしいものです。ただチリも全てのブドウ畑が自根というわけではなく、土地特性や適応する栽培法、目的の収量に合わせて台木を使うこともよくあるそう。だからフィロキセラでチリのブドウ農家が壊滅してしまう、ということはないのかもしれません。ルイが共に働いているような昔ながらの小規模生産者たちは、その限りではありませんが。
 高齢のブドウ樹の条件はフィロキセラ無しだけではないようで、アグリコーラ・リュイット・リミタダで契約している古い畑の多くはパイスです。若いと言っても樹齢60歳や70歳のサンソーやカリニャンの株が、まだまだたくさんの実をつけてはいます。ルイによると、マルベックやセミヨン、メルローなどの古木が残っている可能性はあるそうですが、まだ発見には至っていないとか。その他にも2014年に醸造した白ワイン用品種の、モスカート・ディ・アレクサントリア種などの古いブドウ株が残っています。が、250歳や300歳を超えるようなものとなると、パイスが多いように思います。それらのパイスの古木も品種のせいなのか土地のせいなのか、樹勢が物凄い。何か月も雨が降っていないのに、どうしてこうも青々とした枝が無数に生えるのか、と圧倒されます。
 収穫量については、チリでは一般的となっている灌漑をしなくても、南仏のナチュラルワイン生産者の収量よりも多く、品種が土地と気候に良く適応していることが分かります。特にルイが契約している農家では、―雨が降らないのに水はけも何もないような気がしますが―ブドウは斜面に植わっています。日照時間は、平野でも申し分がないはずだとしたら、チリにやってきたヨーロッパ人は、なぜ丘にブドウを植えたのでしょうか。
 近年ブドウの多くは平野に植えられていて、機械化がさらに進んでいます。驚くことに数年前まで、安い労賃金のため大ワイナリーでも収穫を手作業で行うことが多かったとか。ですが、ここ2、3年で収穫機の導入がさらに進んでいるもようです。そのため、古いブドウ樹は山の厳しい斜面にしか残っていません。が、それさえも平地産の安く作られるブドウとの価格競争には勝てないため、政府の指導もあって、2000年前後に多くの古い畑が、材木用のモミ林や麦畑へと変わっていきました。現在畑を管理しているブドウ栽培農民はのきなみ高齢で、ブドウ以外にも鶏や野菜を育てて自給自足していますが、ご多分にもれず子供たちは街へ出ていき、跡継ぎがいない状況です。ちなみにピレン・アルトという地域の集落には家が4軒しかなく、電気と電話線が通っているだけで、(お前が住んでみろと言われてしまいそうですが)、インターネットがあっても寂しそうです。
サンタ・フアナのサラとルイ=アントワヌピレン・アルトのマルガリータとルイ=アントワヌ

《 ルイ=アントワーヌ・リュイット 》
 フランス人のルイ=アントワーヌがチリへ初めてやってきたのは、1998年(22歳)のこと。チリに魅了されレストランで働くうち、ワインと出会って惹かれていった。あげく2002年と翌3年、フランスのボーヌの醸造学校で醸造を学び、2004年から約8年間フランス、ボジョレーのマルセル・ラピエールの元で働きました。
 と同時に、チリでも古い畑を探すとともに、古い畑の所有者からブドウを買い、毎年醸造をしてきました。現在は年によって変わりますが、上記の3地域の農家から約20ha分のブドウを買っています。最北と最南では、畑の距離が200㎞。それぞれの農家とのコンタクトとワイナリー作業のため、ルイ=アントワーヌは整備されていない山道を車で走り回っています。
 そうしながら少しでも時間があれば違う道をたどって山の斜面に目を凝らし、残っている古い畑を見つけてはその畑への行き方を尋ねながら探し当てる、という地道な作業を現在も続けています。ようやくたどり着いた畑の農民すべてと毎回良い関係が続けられるわけではないけれど、今回案内された先で出会った農家の方々とルイは、親子のように抱き合っていました。同行した僕らを、こんなところまで来てくれてと、満面の笑みで迎えてくれました。「今すぐ数haの自分の畑を入手し、小さなワイナリーでワインを造ることもできる。けれども、今はやるべきことが沢山ある。何十年後かに古い畑を持っているのが自分だけ、何てことになったとしたら、それはただの自己満足だ」そう話して畑に立つルイの目は、キラキラと輝いています。
 アグリコーラ・リュイット・リミタダの販売用の箱にはそれぞれ、フランス語、英語、チリ語(スペイン語)でもって、“100% Raisin de Paysan”“ 100% Farmer Grape”“ 100% Uva Huasa”と書いてあります。それぞれ大体、農家のブドウという意味です。フランス語で“Paysan”ペイザンというとややネガティブな「田舎者」めいたニュアンスもありますが、ルイは本当の田舎の山奥で暮らす人を指す、良い意味でこの言葉を使います。ピレン・アルトの集落に住むアリシア婆さんは、2010年2月の大震災1週間後にルイが駆けつけると、半壊の家をそっちのけで畑で働いていたところだった由です。
 チリで古くから飲まれている「ピペーニョ」と呼ばれるワインがあります。彼女らのような「ペイザン」が育てたブドウを大きな醗酵槽で醸したもので、プリムールのように早飲み型ワインとして親しまれてきました。品種は関係なく、ときには赤と白用品種の混醸だったこともあるそうですが、アグリコーラ・リュイット・リミタダ社のピペーニョは、今なお昔ながらの栽培をされている古いパイスから造られています。また“Huasa”ワッサという言葉は、男性系の“Huaso”ワッソだとカウボーイという意味なのですが、女性形のワッサというと、「僕の作ったこのブドウとワイン」という親しみのこもった意味合いにもなるそうです。
 1月中旬に来日するルイ=アントワーヌ。日本に来ることをとても楽しみにしていて、友人のカメラマンと短いドキュメンタリーを作るほど気合が入っています。ルイ=アントワーヌとペイザンの合作のワッサを是非お楽しみください。
ピレン・アルトのアリシアとルイ=アントワヌピペーニョようの古い大きな開放型のセメント醗酵槽。Coelemuコエレムーの築300年と思われるセラー醸造は2004年ころまでされていたらしい。

 

 

合田 玲英(ごうだ れい)プロフィール
1986年生まれ。東京都出身。≪2007年、2009年≫フランスの造り手(ドメーヌ・レオン・バラル:写真左)で収穫≪2009年秋~2012年2月≫レオン・バラルのもとで研修 ≪2012年2月~2013年2月≫ギリシャ・ケファロニア島の造り手(ドメーヌ・スクラヴォス)のもとで研修 ≪2014年現在≫イタリア・トリノ在住

 
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