合田玲英のフィールド・ノートVol.24
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最終更新日:2014/12/26
ライブラリー, 新・連載エッセイ, 合田 玲英のフィールドノート
Vol.24
9月も残すところ少なくなり、北半球のワイン生産地では収穫が本格的に始まっています。
さて、先だって日本に入荷したばかりで、すでに多方面の関心を呼んでいる、トルコのワイナリー 《ゲルヴェリ》。今回は、ここでの収穫の様子と、醸造家ウド・ヒルシュをご紹介します。また、僕自身も話に聞くまで全く知らなかったトルコの一面に触れてみます。
2014年は7月から全く雨が降らず、例年より3週間も早く収穫を始め、9月24日の時点でほぼ終わりました。収穫を始めた中ごろから雨が降り始め、これも例年より3週間ほど早いそうです。標高の高さから来る日差しの強さのせいか、果皮の色の濃い赤ワイン用品種の方が早く糖度が上がったので、僕がトルコに到着した9月17日には赤品種の収穫は終わっていました。
《 トルコ? トルコワイン? カッパドキア? 》
見聞きした限りの印象では、トルコの人がワインを飲む習慣はほとんど無いようで、トルコ国内で生産されるワインのほとんどが輸出されています。食事中にお酒を飲む光景も全く見られません(イスタンブルやアンカラではなく、田舎の話です)。がトルコは伝統的に、イスラム教の国の中でも規制は緩い方だそうです。酒税が高いだけでなく、2010年にはアルコール飲料の広告が禁止されたりしましたが、モスクの真横でブドウを潰している光景を目にしたこともありました。ただし、ブドウの用途としては、ワイン用よりも、ペクメスと呼ばれるブドウ果汁を煮詰めたシロップにしたり生食用にする方が、はるかに多いのですが。
良く飲まれる飲料はもっぱらお茶(チャイ)で、濃く渋く入れたものをお湯で割って楽しんでいます。ウドによると、田舎では昔から人の多くいるところではチャイを飲んでいるけど、みんな家のなかではワインを飲んできたそうです。ウドのワイナリーでも、半分以上の売り先は地元民やトルコ人観光客です。ワインの文化は昔からあるけれど、国としては飲んでほしくない、という感じです。長らく首相だった現大統領の親イスラム政策の影響なのでしょうか。
カッパドキアとは、中央アナトリア地方にある複数の火山が時代を分けて噴火し、一帯に火山灰や火山岩が降り積もった地域を指すとのことですが、かなり広範囲に広がっています。降り積もった灰や岩は厚いところでは52mにも達し、それが風雨で削られてよく観光写真で見る奇妙な形になっています。火山灰の土壌は植物の生育には向かず、飛行機からカッパドキアのネヴシェヒル空港に着いた時には、あっけにとられるほど殺風景な光景が広がっていました。有名な地下都市は観光用の大規模のものでなくても、2000年ころまでは実際に住居として使われていました。現在は危険だからという理由で、地上に建てられた家に住むことが義務付けられています。
《 ゲルヴェリ・マニュファクチャー 》
ウドのワイナリーは、カッパドキアの南西部のアクサライ県ギュゼルユルト村にあります。ワイナリーの名は、正式には《ゲルヴェリ・マニュファクチャー》。ワインだけでなく、チーズをつくり、ウドのパートナーであるハジェルさんの仕事である陶芸のアトリエでもあるからです。ゲルヴェリは、オスマン帝国時代からギュゼルユルト村の呼び名。ですから、現在でもゲルヴェリと呼ぶ人は多くいますが、公式にはギュゼルユルトです。町の風景は電線を除けば古色を帯び、何百年前の石の家が朽ちているところもありますが、この2,3年の間に観光客が訪れて賑わうようになりました。ウドの購入した醸造所も400年前に建てられたものとみられ、堅固な石造りで地下は3階まで掘られています。本当はそれ以下の階層もあるのですが、ふさがれています。
ポートレート 《 ウド・ヒルシュ 》
ドイツのアール地方に生まれ、WWF(世界自然保護基金)の調査員として長年世界各地(中東、中国、ジョージア、マダガスカルなど)で活動してきました。国立公園管理の仕事をしていた父親の影響で小さな頃から自然に関心がありましたが、長年にわたるWWF活動をつうじて出会ったトルコとシリア国境の村のシャーマンやチベットの山寺の高僧など、様々な生き方と文化に触れたことが、今日のウドを形づくっており、根源的なものごとの追求心(深さ)と非常に広い視野(広さ)とを持つに至った背景なのでしょう。
ウドのトルコへの取り組みは、大きな意味での環境保護活動と、それに並行しておこなったキリム絨毯の調査に始まります。キリムはアナトリア文化圏では広く作られてきた歴史があり、地方というより村ごとに模様が違っているというように、大きな文化圏の中での共通点と同時に、村ごとの個性があります。実際には、キリムを織る女性にだけ、その詳細が伝えられていたそうです。キリムは亡くなった村人を包んでモスクへ運ぶために使われ、そのキリムはモスクへの御供え物となり、遺族はモスクへ行ってキリムを眺めては故人を偲びました。たしかにウドから見せられた白黒写真は、遺体をキリムにくるんで運ぶ様子でしたが、なんとジョージアのものでした。
8年間の調査から、ウドは模様を見ればどこの村のキリムか分かるほどになりました。これまでにも出版活動やシンポジウムに携わってきましたが、調査後いまなお原稿を執筆中で、キリムを輸出するトルコの会社数社による機関紙の創刊号に載る予定です。その編集者は、機関紙を編集するかたわら村々で買い付けたキリムを輸出しているのですが、ウドほどキリムに造詣が深い人は珍しいと語っていました。キリムの買い付けは難しくないが、非常にデリケートさを要するとか。ワインの買い付けと似たようなところがあり、素性の知れない者に相手は売ってくれません。村の女性たちをこちら側に引き入れるのではなく、こちらから彼女らの考え方や文化に入りこめるようにしなければいけない、という商人=編集者の言葉が印象的でした。
ウドがキリムの調査をしていた時も、初めは外国人のしかも男性に対して口を開いてくれる女性はいなかったそうです。知識が増えるにつれウドが話をふくらませるられるようになると、女性の織り手側も、それならこれは知っているかという風に少しずつ話をしてくれるようになりました。
キリムの調査をつうじてウドは、アナトリアにある素晴らしいワイン文化が危機的状況にあると気づき、何とかこのワイン文化を残せないものかと考え始めます。当初はトルコ人に、ワイン造りに適した当地で、トルコ人自身がワインを造るよう口説きましたが、失敗。ならばウド自身が買いブドウでワインを造ってみずからワインを売ってみせ、小規模なワイン生産でも生計がたてられることを証明しようと思い立ちました。ささやかなワイン造りが、古いブドウ樹と、甕の文化と、ワイン文化を守ることにつながると信じ、試行錯誤のすえ2008年にワイン醸造の許可が下りました。ウドは醸造学こそ学んではいませんが、クヴェヴリ(素焼きの甕)で造るジョージアの生産者とも交流が深いし、必用ならば醸造学の本を読みます。
トルコでの調査と並行してウドは、ジョージアでも環境保全にのっとった開発プログラム作りにかかわりました。もともと歴史にも興味があったウドは、ジョージアよりさらにワインの歴史が古い可能性があるトルコやその東方諸国のワイン文化についても、知識を深めていきます。ウドは考古学者たちとも知己の関係があり、いつか考古学的な事実と知見にもとづいたワインの歴史をまとめたいと言っていました。
《 古いブドウ畑 》
畑は、村から車で45分ほど離れた休火山(B.C7200年に噴火)、ハッサン山の麓にあります。ブドウの栽培者はこの畑を何世代にわたって所有している一家で、ウドが本格的にワイン醸造を考え始めた2006年に出会いました。火山灰土壌と斜面がブドウ栽培の適地だと知っていたウドは、必然的にこの山の周辺にブドウ畑を求めて来ました。ブドウの購入自体の話は割と簡単にすすみましたが、高品質なブドウが欲しいことを理解してもらうのは大変だったとか。自分のワイン造りには高品質なブドウが必要で、この土地にはその可能性があると説明。ブドウの収量では買わず、毎年決まった金額を畑に対して支払うことで、ブドウの品質を確保することができ、栽培者との信頼関係も確立しました。
麓一帯に植わっている品種がどれも土着品種で、様々な品種が少量ずつ植わっていたことは、ウドにとって幸運です。1品種が大量に植わっていたら、大きな国営ワイナリーに買い占められていたところでした。そして少量ずつ多品種を栽培することは伝統でもあるらしく、畑に植わる異なった品種を同じ割合で醸造することが常だったそうです。ヨーロッパのワイン産地でも、昔は混栽・混醸だったという話をよく耳にします。
赤ワイン用品種であるオークスギュズとボガスケレの対等ブレンドは、トルコ国内でもよく見られます。オークスギュズは軽めで香りが華やかで、ボガスケレは味わいがしっかりしていて酸が低目です。他にも赤ワイン用品種ではカレチ・カラス、白ワイン用品種ではケテン・ギュムレック、ハッサン・デーダなどの土着品種が栽培されています。
トルコ国内では上記のような土着品種が30種類ほどは栽培され、ワインが造られているそうですが、国際品種も沢山植えられています。ウドの現在の目標は、土着品種ですでにワイン用と認知されているものからワインを造りつつ、まだ良い醸造法どころか正式名称すら確立されていない希少品種のなかから、ワインの好適品種を選んで認知させることで、保護していくことにあります。白用品種のケテン・ギュムレックもその1つです。
《 ゲルヴェリでの醸造 》
現在ワイナリーにしているウド宅にはもともと醸造設備が整っていなかったので、ウドは各地で見つけた甕を買ってきては設置し、今では約4500L分の甕を所有しています。赤ワインは屋外(屋根付きで扉なし)で醸造し、白ワインは家畜の飼料置き場だった場所に甕を設置し醸造しています。亜硫酸の添加は基本的に行わず、白ワインのみ瓶詰前のトータル量が15㎎/L以下ならば添加します。
赤・白ワインとも機械で除梗し、味を見ながら取り除いた茎をマストに戻しています。果汁の醗酵は、赤ワインのばあい外気が温かければ1週間ほどで終わり、その後30%ほどの果皮を残し長期の熟成に入ります。
《 伝統の守り方 》
伝統と文化、自然保護に現地で取り組んで来たウドの話には、現場体験にもとづく説得力があります。実際にワイナリーを立ち上げ、伝統を守るには、ビジネスとして存続することも重要だ、というのがウドの考え方。ですが、伝統あるいは慣習がはじめて異質な外界に触れたとき、拒否反応や変化がおこります。例えば上述したキリム。村の女性のあいだにのみ受け継がれてきた伝統的な作品が、高額で輸出されると分かると機械が導入され、手作業の織り仕事が無くなりました。技術的には手間と時間さえかければ“高品質”なものができるはずですが、描き出される模様には何の意味も込められていません。
ひるがえって考えれば、ジョージアワインも今そのような危機に直面しているのではないでしょうか。1家族の年間消費量3000Lと言われているジョージアワインは、がんらい家族や来客用に造られてきました。ウドの言葉を借りれば、それらのワインは、時には目に見えないものとの交信用として、時にはワインという“ツール”を皆で囲むということだけに、意義がありました。2年前に初めてジョージアを訪れた際、とある山奥の村に行きました。そこで夕食で出されたワインはプラスチック製のタンク造りで、味もよく覚えていません。が、村の人は喜んで飲む客の姿を見て悦び、祝いの言葉を一人ずつが述べ、ワインを皆で飲むという、セレモニーのようでした。幾多の困難を乗り越えながらそのような文化が保たれ、おそらくは現在もなお原型をとどめ続けてきた、健気なジョージアワイン。ですが、輸出を機に大きな質の変化を起こす恐れがあります。とはいえこれまで様々な試練に打ち勝ってきただけに、ジョージアの生産者たちはきっと、次の段階へともに歩んでいけるものと信じています。
《 収穫 》
トルコでは現在、収穫の真っただ中。僕も醸造を間近で手伝わせてもらえて本当に楽しいですし、初めて見る甕内で醗酵する果汁は何とも原始的で、今となっては幻想的な光景です。
多くの経験をし、常に深く考えて行動しているウドですが、収穫の作業の間は作業に没頭しています。ワインは多くのことを考えさせてくれる飲み物ですが、造る喜びもまたワインを美味しくする大きな要因の一つです。収穫作業もそうです。作業を終え、皆で卓を囲んでワインを飲む瞬間には、特別な雰囲気があります。
でもウドのワインが美味しい一番の理由は、やっぱりパートナーのハジェルのおかげだったりもするわけで、ワインのなかにウドの人生がこもっているのですね。
合田 玲英(ごうだ れい)プロフィール
1986年生まれ。東京都出身。≪2007年、2009年≫フランスの造り手(ドメーヌ・レオン・バラル:写真左)で収穫≪2009年秋~2012年2月≫レオン・バラルのもとで研修 ≪2012年2月~2013年2月≫ギリシャ・ケファロニア島の造り手(ドメーヌ・スクラヴォス)のもとで研修 ≪2014年現在≫イタリア・トリノ在住
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