ドイツワイン通信 Vol. 34
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最終更新日:2014/12/26
北嶋 裕の連載コラム, ライブラリー, 新・連載エッセイ
ドイツワインとゲルマン魂
サッカーワールドカップブラジル大会はドイツの優勝で幕を閉じた。1990年以来24年振り、東西ドイツ統一以来初の栄冠である。私がトリーアに住んでいた1998年からの13年間は、毎回準決勝か決勝まで勝ち進んでもあと一歩のところで敗退していたので、優勝に沸くドイツを体験することは出来なかった。しかし歓喜に酔いしれた人々が道路にあふれ、ドイツ国旗を振る車の列が深夜まで勝利を祝いクラクションを鳴らし続いたであろうことは想像に難くない。日本では決勝の試合開始が深夜午前4時であったにもかかわらず、熱心なドイツファンはゲーテインスティトゥートのホールやドイツレストランに集まって観戦し、リアルタイムで興奮を分かち合ったという。ラシーヌのHさんもその一人で、新宿のドイツレストランで大判のドイツ国旗を身にまといながら観戦し、翌月曜にそのまま出社すると「ドイツが優勝したら社員全員の頬にドイツ国旗を描きます!」という予告を実行し、記念写真を撮影してフェイスブックにアップすると同時にドイツ優勝おめでとうフェアを告知していた。その様子はさながら準決勝のブラジル戦でドイツチームが見せた立て続けのシュート攻勢のようであり、私には彼女がヴァーグナーの歌劇に出てくるヴァルキューレと重なって見えた。
ところで、ドイツ優勝に関連して日本のメディアで時折出てきた「ゲルマン魂」という言葉が少しばかり気になった。準決勝後のインタヴューの字幕にもこの言葉が表れたが、FWのミュラーが語っていたのは「規律とチームワークで次の試合も全力を尽くす」といった内容だったと記憶している。そもそも、ドイツをゲルマンと同一視することは、現在のドイツの多元的文化的状況とは相容れない。ドイツ代表の主要選手達がトルコ、ポーランド、ガーナ、チュニジアからの移民やその子孫であることはつとに知られている。しかしこうした状況が成立する前提条件が整ったのはそれほど昔ではない。1999年の国籍法改正で「血統主義」から「出生地主義」をとることになり、ドイツで生まれた人は自動的にドイツ国籍を取得出来るようになった。1950年代以来大量に受け入れてきた外国人労働者達の二世達が、ドイツ社会で差別を受けることなく生活出来るようにする必要を認めた為である。紛争地域からの難民が増えると2005年には定住を前提とした移民の受け入れを認めた移民法が施行され、2006年には「一般平等待遇法」もしくは「反差別法」と呼ばれる人種、民族、性別、宗教、障害、年齢、性的指向を理由とした差別を禁じる法律が施行された。それは長年抱えてきた移民問題に対する前向きで現実的な解決策であり、差別禁止に関するEU法のドイツ国内への適用という側面もあったが、いずれにしても、ゲルマンという民族意識とつながった枠組みを安易にドイツに適用することは避けたほうが良い。
とはいうものの、ひとつ肩の力を抜いてドイツワインを「ゲルマン的な」ワインと仮定した場合、もっとも相応しいのはやはりリースリングだろう。リースリングを擬人化した場合どんなイメージが思い浮かぶだろうか。金髪で背が高く背筋が伸びているが、その足取りは軽やかでワルツを踊るようであり、語る言葉は知性的だが時に辛辣で切れ味が鋭い。これは辛口系の場合。甘口は幾分ふくよかで女性的な趣が加わった、金髪で碧眼の色白な美人といったところか。「アナと雪の女王」ならアナではなくエルサのほう。しかし、アナと雪の女王の舞台として構想されたのはドイツかもしれないが、デンマークやノルウェー、スウェーデンかもしれない。もともとゲルマン人はガイウス・ユリウス・カエサル4世が紀元前50年頃に記したガリア戦記の中での記述と、紀元98年にローマの歴史家タキトゥスが『ゲルマーニア』の中で描写した、北方のゲルマニア地方に居住する複数の民族を指していた。しかし1871年にプロイセン王国主導でドイツ統一がなされた際、それまでオーストリア帝国に服属していた35の領邦国家と4つの帝国自由都市国家をとりまとめ、一つの国家としてのアイデンティティを確立するために、ローマ時代に当該地域に居住していた諸民族を「ゲルマン民族」という一つの民族共同体に仕立てて、我々はもともと一つの民族であったと主張された。これがやがてナチスのアーリア人優越説とホロコーストに利用されることになる。つまり、「ゲルマン魂」や「ゲルマン民族」を現在のドイツに適用することは、プロイセン王国やナチスのプロパガンダを無批判かつ無邪気に受け入れることに他ならない。
忘れられた国歌
ところでドイツ国歌の二番をご存じだろうか。ハイドンによる弦楽四重奏曲77番第二楽章の旋律にホフマン・フォン・ファラースレーベンが詩をつけて1841年にオーストリア皇帝フランツ二世に献呈したものだが、ヴァイマール共和国時代から第二次大戦終戦まで一番が、1949年にドイツ連邦共和国が成立してからは三番がドイツ国歌として歌われている。二番は国歌として歌われたことはないけれど、歌詞の中にドイツワインが出てくる。
Deutsche Frauen, deutsche Treue,
Uns zu edler Tat begeistern Deutsche Frauen, deutsche Treue, |
ドイツの女性、ドイツの忠誠、 古の美しき響きを 生涯を通じ我らを 高貴なる行いへと奮起せしめん ドイツの女性、ドイツの忠誠、 |
ドイツ文学の教授で詩人でもあったファラースレーベンが、中世の吟遊詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(1170頃~1230頃)の歌にインスピレーションを受けて作詞したと言われる。元になったフォーゲルヴァイデの詩『皆様方ようこそ』(Ir sult sprechen willekomen)の中で、詩人である私は各地を旅して多くの高貴な人々と出会ったが、ドイツの女性は容姿も振る舞いもどこの女性よりも素晴らしく、あたかも天使のようであり、男達は礼儀正しく育ちが良い、と歌っている。それが恐らくファラースレーベンの詩に反映されているのだが、フォーゲルヴァイデはワインについては言及していない。あるいはマルティン・ルターの「ワイン、女そして歌を愛さない者は、生涯愚か者にとどまる」という有名な言葉(実は18世紀末に初めて世に知られた句で、本当にルターが言ったという証拠は無いのだが)から発想を得たのかもしれない。さらにこの二番には「フラウエンFrauen – ヴァインWein」「サングSang – クラングKlang – ラングlang」「ベハルテンbehalten – ベガイステルンbegeistern」と韻を踏んだ語呂合わせが多く、世界に冠たるドイツを讃えた一番や、統一と正義と自由と祖国への誇りを讃える三番とは異なる趣があり、おおらかで優雅な印象を受ける。ここで歌われているドイツの女性をメルヒェンの姫君、忠誠を中世の家臣や騎士達の徳目、歌とはミンネ(騎士道的な求愛)の歌であるとしたならば、そこにキリスト教的な信仰と愛を象徴し、かつ宮廷の晩餐には欠かすことの出来なかったワインが登場するのは必然的な成り行きであると言えよう。
もしも二番が正式な国歌と認めていたなら、ドイツのイメージも大いに違っていたことだろう。女とワインと歌をこよなく愛する民族として、フランスやイタリアに近い印象を与えていたのではないだろうか。実際彼らがそうであることは、決勝戦でアルゼンチンに勝利した直後から選手達の美しき伴侶達がピッチに大勢出現した時の様子や、ドイツの町中にあふれたであろう歓喜の歌声と、際限なく空けられたであろう祝杯(おそらくビールだが、それはともかく)が証明している。
ともあれ、ドイツ=ゲルマンという単細胞な図式はいい加減に克服されなければならない。ドイツとドイツワインを理解するにはナチスのプロパガンダ以前の、19世紀以来の状況を視野に入れておく必要がある。一方で多民族国家として多様な価値観を受け入れている現代的状況は、スイス出身のモーゼルの生産者ダニエル・フォレンヴァイダーや、ゴー・ミヨのドイツワインガイドの編集長でアメリカ人のジョエル・ペイン、イギリス出身のワインジャーナリストでベルリン在住のストゥアート・ピゴットらに反映されており、非ドイツ在住者でもドイツワインに熱心に取り組むワイン商やライターを考えたら枚挙に暇が無い。それが今のドイツワインをとりまく環境であり、リースリング・ルネッサンスをもたらした原動力なのである。
(以上)
北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」 (http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。
2010年トリーア大学中世史学科で論 文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会 員。
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