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『ラシーヌ便り』no. 106

公開日: : 最終更新日:2014/12/26 定番エッセイ, 合田 泰子のラシーヌ便り, ライブラリー

no. 106

 7月には、トルコ・カッパドキアへの出張と、帰国後まもなくティエリー・ピュズラ&ピエール=オリヴィエ・ボノムが来日するという、二大行事がありましたが、どちらも大きな発見と喜びを感じた月でした。 カッパドキア地方には、過去にジョージア(ちかぢか日本政府も、グルジアではなく、ジョージアと呼称変更する方針だそうです)とは異なった方法でのアンフォラで醸造されてきた歴史があります。が、その地で最近ウド・ヒルシュによって復活された、素晴らしいアンフォラによるワイン造りの現場を訪れることができました。遺跡が点在する空間に、今なお人々が生活を続ける古い街は、地震にみまわれたことがなく、300年ほど前に建てられた石造りの家並みが続いていました。

 ジョージアもトルコも共に黒海に接し、ウクライナ、イラク、シリアの隣国です。地図をじっくりとみて、こんな間近に、今なお戦争で苦しんでいる人々がいることに胸が痛みます。平和を祈らずにいられません。

トルコ・カッパドキアの地を訪問して

―Gelveri Ltd.ゲルヴェリ醸造所/ウド・ヒルシュ―

 6月29日成田を22時10分に発ち、トルコ航空でイスタンブルからカッパドキアのあるネヴシェヒール空港に朝8時過ぎに到着。陽射しが強く、標高1000mとは思えない厳しい暑さでしたが、石の建物の中に入るとひんやりとした冷気を感じました。

 ホテルの入り口やレストランのテーブル脇には、美術館にあってもおかしくない見事なアンフォラが、むぞうさに置いてあるのに驚きました。「ローマ時代、およそ2000年まえのもの」と聞いてさらに驚き、アナトリアの地にアンフォラが大きな役割をはたしてきたと実感しました。かなり厚いアンフォラで、美しい装飾がほどこされています。

見事な模様のアンフォラ

 先月号のラシーヌ便りにご紹介しましたが、自然保護運動家ウド・ヒルシュ(72歳)は、ドイツに生まれ、35年以上にわたり、様々な国で世界野生生物基金WWFの仕事に携わってきた志の人です。彼の最初のトルコ訪問は1969年、アナトリア地方で絶滅に瀕していた鳥の生息地を見つけ、保護するためでした。以来訪問を重ねるにしたがって、この地の他に類をみない樹齢の高いブドウの価値が誰も気づいておらず、古木のブドウが失われていくことを見てきました。トルコには1200以上のブドウ品種があり、世界有数のブドウ産地なのですが、その全てがワイン醸造に向いているわけではありません。ワイン、干しブドウ、シロップに加工されたり、生食用に流通しています。

 トルコで仕事を続けるうちにウドさんは、西アナトリア地方のGüzelyurt にある250年前に建てられたTas Mahal(石の家の意)という住居を、ギリシャ人の聖職者から譲り受けました。1997年のことです。地下は350年から450年前のもので3階まであり、今は閉じられている壁の向こうは、敵が侵入してきたときに逃げるための、10kmに及ぶ迷路が続いています。テラスからは、すぐそばに遺跡が見わたせ、そこにはつい10年前まで人が住んでいたと聞きました。

Tas Mahal

 地下セラーの冷涼な環境があまりに理想的であり、地元に樹齢何百年ものブドウが残っているので、ワインを造ろうと思いたったとか。ですが、どのブドウがワインに適しているか、どのような味になるのか、何の資料もないので、計画的に様々な地元のブドウ品種をつかって実験を始めました。その際、味覚にニュートラルなガラス製バルーンで醸造し、ワイン醸造に向いていると判明した3種類の地元の品種と、隣接する地域の3種類の品種を選びました。醸造は、始めからアンフォラで造ることしか考えなく、様々なアンフォラを試した結果、古いアンフォラが最もいい結果を得ることができました。2001年に87ℓと182ℓのアンフォラを用いて最初の醸造をし、その後実際にワインに使われていたことが確実な、古いワイン用アンフォラを探しました。やがて4~12世紀に造られた3つの「ビザンツ式」アンフォラ(カッパドキアの修道院のものだった)と、18~19世紀に造られた4つの「オスマン式」アンフォラを入手しました。

地下セラー

 アンフォラを使った伝統的なワイン醸造には、一つの目標がありました。市場のニーズに迎合した工業的なワインばかりが増えているなかで、その地の歴史と伝統をふまえたワイン造りに回帰すること。いいかえれば、1200種類以上にのぼるブドウ品種の遺伝子的多様性を守ることへ貢献しようとする試みです。小規模生産者による、伝統的ながら簡単、エコロジカルかつ経済的で、持続可能な経営形態を提示する試みです。

 ウド・ヒルシュのワイン造りは、自身の利益を追求するというビジネス目的ではありません。ブドウ品種の保護と伝統を遺し、ブドウのままではただ同然で無価値なものから、クオリティ・ワインを造ることにより、地元の若い世代に収入の道を導くためのプロジェクトの一つなのです。大義のためのワイン造りと言えるでしょう。

  一方、独立後のジョージア政府の要請で、ウドは1990年に新生ジョージア国の建国プログラムともいうべきプロジェクトに加わりました。ジョージアの国家建設のヴィジョン造りに、自然保護の観点からの専門家として、参画したのです。その間、ジョージアでのクヴェヴリ醸造の見聞を広げました。

  「ジョージアでは、見聞を広めた。そこは今日に至るまで大きな、しかし非常に薄手な素焼きの容器でもってワインが造られている。ジョージアはセラーがないワイン文化なので、陶製容器(クヴェヴリ)は全体を地中に埋める。他方、アナトリアでは、非常にしっかりとした厚手の古い瓶(Küpキュプ)を地上に立てて置くことが多いが、そのごく一部を地中に埋めて安定させることもある。」

キュプ

  1200年前のキュプ1992ℓ、キュプに触れると、不思議な感覚がする。発酵中は、キュプがワインと一緒に呼吸して、命の交換をしているのを感じる、とウドさん。

  ウドさんの古代キュプによるワイン醸造は、一つ一つが理にかなっていて、本当にすごい。現在となっては、1200年-400 年前の1000ℓを超えるキュプが、当前ながら大変少なくなっている。ときに、使われないで放置されていることもある。ウドさんは、そのような古い大型キュプを譲り受けた。厳重に梱包し、家の近くの広い道路でトラックから下して、そこからは家の前までの15mの路地を、6時間かけて運んだ。村じゅうが、何事がおきているかと、見守ったとか。

 古いキュプを再使用する際には、衛生状態が問題なので、徹底的に加熱消毒する必要がある。そこで、注意深く温度を上げて行き、大きいものは240度で、小さいものは140度で内側を焼いて、消毒した。その後、温水でしっかり洗い、木のブラシでこすって洗い流し、さらに灰汁で洗ったうえ蜜蝋を塗る。蜜蝋でもって小さな穴を塞ぎ、表面の蜜蝋は磨いて半分ぐらい取り除いてから、いよいよ醸造にとりかかる。「これで、カビ対策は万全だ。」そのうえ、赤ワインと白ワインは、同一施設内でもセラーが離れて設けられており、全工程が本当に納得できる。

 「伝統は使われなくなったら消えてしまい、その民族の伝統でなくなる。失われゆく伝統を、よりよく残していくために、情報を共有して、クオリティの高いものを作っていかなくてはいけない。」「カッパドキアの洞窟には10年前まで人が住んでいた。今もそこでワインを作っている。でも、酢になったようなワインだ。他の国でもアンフォラでワインが作られているが、質が低いものがたくさんある。多くの人は、クオリティを考えない。」

カッパドキアにある醸造跡

  照りつく陽射しの中、畑を歩いた。Hsan Dag山のすぐ下、約1500mの標高にある畑だ。砂質凝灰岩土壌と特殊な気候のため、有害なフィロキセラは繁殖できない。「この樹は何年くらいですか?」「500年かそれ以上かもしれない。」ウドさんの話には、驚くばかり。樹勢が強く、とてもそんなに樹齢が高いとは思えない。でも、低い幹は見たこともないほど太く、ねじ曲がっている。冬は氷点下25度にも下がり、夏は厳しい陽のために乾燥する。気候的には栽培可能限界にある。標高1540mの地は、日中は暑く夜は本当に涼しい。これがワインのアロマ形成を促進する。

ウドさんの畑のブドウ樹

  冬季は極寒から守るために、根元が土で覆われる。3月に覆土を取り除き、5月はじめに30cmの深さまで掘り下げられる。その際、凝灰岩土壌の中に数ヶ月前に生えてきた小さな根に陽射しが当たり、細かい根は数週間で乾燥する。こうして主根は下方に伸びるよう強制される。地表から50cm下には、冬の雨季の水分がたっぷりある。新しく植えた樹も、最初の1年で2mもまっすぐに深く根をはることができる。5月中に樹のまわりの土は再び戻され、夏の暑さから守られる。

  Hsan Dag山のふもとの村には現在、60haの畑がある。「何百年もこうして栽培が継承されて来たのですね。おそらく、昔は一面がブドウでおおわれていたのでしょうね」「2000年前のローマ時代の古文書によれば、兵士たちは闘いに移動する時、アナトリアにやって来る時にはワインを運ばなかった。なぜなら、この地にはワインがあったから。カッパドキアの洞窟の地下(いわゆるアンダーグラウンド・シティ)では、ワインが作られていた。」WWFのフリーランスの研究者として、世界中を旅してきたウドさんは、ブドウ栽培の起源と言われる古代オリエント「肥沃な三日月地帯」だけでなく、アルメニアやジョージアの発掘現場を訪れ、また考古学的な発掘記録や考古学者たちとの意見交換を重ねて、知見を深めてきた。そこで得られたファインディングスをもとにしてウドさんは、ブドウ栽培とワインの歴史について、熱心に「講義」を受けた二日間でした。

 地震がないこの地方で、洞窟に広がる地下都市では8層にまで深く掘られ、キリスト教の礼拝室のすぐそばに、アンフォラが立てられていた跡が残っている。特に地下では真夏でも大変涼しいため、アンフォラは地中に埋められることはなかった。ブドウを潰し、果汁をアンフォラに流した溝、古代文明のたくさんの遺構が、ワイン造りが盛んだったことを伝えている。

 「世界中でワイン醸造の起源はどこか、断定することは難しい。まず、ブドウ栽培がどこで始まったのかを、ワイン醸造とわけて考えること。古代では、干しブドウの役割も大きかったし、ブドウシロップは、ワインより早く作られていたはず。シロップは保存がきくし、重要な栄養源だった。アンフォラだけでは、その地でワインが醸造保存されていた証拠にはならない。醸造した形跡を見きわめるのは難しいが、アンフォラの形から、ジュース用か、ワイン用かがわかることもある。

 宗教との繋がりからして、ビールの方がワインよりも歴史が古い。祭礼の1週間前に作り始めれば、儀式に出来たてのビールを用意できた。ワインは、長くは保存できなかっただろう。」

こんなウドさんが、なぜ、カッパドキアの近郊でワインを作ることになったのか、話は尽きない。

 
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