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エッセイ:Vol.84 味覚の共和国

公開日: : 最終更新日:2014/12/26 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

あるインポーターの世界

所有という幻想

 ヒトがモノを所有することはできるだろうか? これについてはかつて論じたことがあるが、結論は単純。ヒトとモノ(物体)というたがいに異次元にある存在について、モノをヒト扱いすれば物心崇拝やフェティシスムに通じるし、ヒトをモノ扱いや奴隷視するのは、差別思想にすぎず、どちらも見方が転倒している。

 が、ヒトを中心としてモノを服属視し、所有物扱いするのは、思い上がった人間中心主義でないとすれば、幻想にすぎない。冷静に見れば、両者のあいだにあるのは特殊な関係であり、所有という間柄は《専有関係》を指しているだけのこと。だいいち、死後にまでモノやカネを抱えていくことはできない仕儀なのだ。

 市場で販売される商品は、金銭を媒介とする購入=販売行動によって、法的に認められた「所有権」が移転する。けれども、その意味することは、「所有者」=対価支払者なるものが、その品物を排他的かつ無制限に使用・損傷・遺棄できる権利(占有権)を有するというだけ。しょせんヒトはモノを所有できないとすれば、モノの所有とは幻想にすぎない。じつは、モノについての所有観念が、多くのヒトを支配しているのだね。おっと、ここで「支配」というもう一つのキーワードがでてきました。

 それにつけても、5ケタの蔵書の山に埋もれて暮らす私が、このように所有という観念を原理的に否定するとは、矛盾もいいところ。いくら読みもしない本と親密な雑居生活を送ったところで、それらの著書物の背後にある深遠な知識や高級な思考方法はいっこうに身につかず、かえって書物の内容や著者の知的水準に圧倒されるだけなのに。まあ、書物の共和国を夢想して、仲間入りでもしているつもりなのだろうね。

 

身体の所有者は、いるのか?

 さて、無論のこと、奴隷制社会でもないかぎり、ヒトはヒトを所有することができません。もちろん、キミ(ボク)はボク(キミ)のモノ、なんて軽率に言ってはいけません。しょせん、所有は幻想にすぎないのだから。

 ひるがえって考えれば、自身(の肉体)の所有者は、誰あるいは何だろうか。必ずしも、自分は自分の主ではないのです。養老孟司さんも最近著のなかで、「自分の体は、自分だけのものではない」と述べている由です。

 キリスト教では、ヒトの造作者はカミとされるけれど、カミはヒトを支配しこそすれ、所有しているわけではあるまい。が、ここで、支配関係は事実上の所有関係として機能すると見れば、ヒトはカミのものだということになる。カミに服従しない者からすれば、オールマイティーなカミは、なんと欲が深くて、ディマンディングなのだろうか。

 

精神と物質

 それでは、別の質問。はたしてヒト(の身体、肉体)は物質なのか。唯物論者はヒトを有機体の物質だとみなすようだが、精神を宿す特殊な生命体だから単なる物質ではないとする考えもある。これは、「肉体(物質)と精神」二元論の問題であり、いちおうデカルトを奉じるとしても、物質である肉体とは別にあるとされる精神や霊魂が、肉体を支配するだけでなく、所有するとまで考えるとしたら、滑稽だろう。相互依存または規定関係にある精神と肉体について、精神は肉体によって規定されるという肉体還元論と、精神が肉体を支配すると仮定する精神主義者(観念論者)の、どちらが正しいのだろうか。容易に答えは出ない問題だが、考えてみるのは楽しい。

(なお、ワインという物質のなかにエネルギーがこもり、精神が息づいているかどうかは、一考に値する問題であるから、いずれ別稿でとりあげたい。)

 

脳はアールマイティ?

 ユニークで説得力ある養老孟司さんの『唯脳論』によれば、脳が身体を支配しており、しかも脳に精神があるとすれば、精神が肉体を支配していることになる。ここで、先にのべたとおり、支配関係は事実上の所有関係として機能すると見れば、脳というパーツが脳以外の身体を所有しているに等しい。

 とはいえ、身体の一部にすぎない脳が、実質的に身体を所有しているという強弁には、やや無理がありそうだ。だいいち、ヒトは脳機能のごく一部しか使いこなしていないし、脳は自分の属する身体すら、思うにまかせないではないか。とすれば、脳をふくむ身体は、自律性のある総体=コスモスであるとしか、いいようがない。

 

食品はモノ?

 タベモノは、摂取されれば人体を通過する際、栄養分が吸収されて一定期間だけ身体の一部やエネルギー源になるが、それも新陳代謝の結果、いずれは老廃物と化して体外に出されるか、消滅してしまう。とすれば、タベモノは他のモノとは性質が異り、ヒトに同化された所有物(ヒト自体)になりうる。つまり、肉体が所有・同化できる本物のモノなのだ。

 ワインもまた、タベモノと同類項だが、とくに精神に対する影響力が強い(そのヒトに精神があるとすれば)。なので、ワインは精神と肉体の双方に作用する、ヒトの所有対象物質ということになる―当りまえだけど。その意味でワインは、モノであってモノでない、ひとかどの存在である。だからして、ワインを「精神のタベモノ」とか「思考の糧(かて)」と英語では呼ぶのだろうね。

 

インポーターの仕事と世界

 ようやくワインが登場したが、ここまでが長い前置きである。

 さて、インポーターにとって、扱っているワインとその生産者は、どういう意味があるのだろうか? 「仕入れている商品とその生産者は、販売の糧に決まっている」というのが、大方のインポーターの本音にちかいかもしれない。じゃあ、売れるのがいい商品で、それを作るのがいい生産者なのだろうか。マーケティング・コストの観点からすれば、手間がかからずに売りやすく、それでいて利益率が高くて儲かる商品ほど、優等生にちがいない。  

 それじゃ、そういうワインは、美味しくて品質が高いのだろうか、という視点を持ち出すのは、そういうマーケティング志向型インポーターにとっては、余計なお世話というもの。なぜなら、売れるということは、結果的に購入者がくだした評価であって、そういうワインが受け入れられている状況が、そのような人々にとっては望ましいのだ。からして、美味しさや品質など、問題外であったとしても不思議ではない――もっとも、口には出さないだろうけど。売りにくい時にだけ、本当は美味しくて品質が高いとのに、とボヤクかもしれないが。

 しかし、まあ、そんなことはどうでもよい。我が道を往けばいいだけじゃないか、ですって? もちろん、そのとおり。それでは、ラシーヌというより、私の個人的な意見を言おうか。私にとって、現在取り扱わせていただいているワインの生産者は、決して少ない数ではない。けれども幸いなことに、彼らの作品ともいうべきワインを、私は誇りに思うだけでなく、毎日飲んではしんそこ楽しんでいる。いわば、自分が飲みたいワインを仕事のタネにしているわけで、また、そういうワインだけを探し歩いているともいえる。

 かつて、自分が読みたいワインブックだけを選んで翻訳するという、贅沢をしていたことがある。そのワイン版にあたるのが、わがインポーター業である。書物がワインに代わったというだけのことなのだ。

 

味覚の共和国

 それでは、そういうお気に入りのワイン生産者は、自分にとってどのような意味を持つのだろうか? それも、書物の項で述べたとおり。高雅で知的な感興にとむ書物の著者たちに取り囲まれているさまを、私は「精神の共和国」にたとえた。偏愛している個性的なワインの生産者たちが、身の周りに一団となって平和共存しているさまは、いわば味覚の共和国を形づくっているようなもの。

 一団の生産者がつくりだしている各ワインには、どこか共通する味わいがあっても不思議ではないし、現実によくそのような指摘をうける。たしかに、このような味覚のアイデンティティが、共和国を裏支えしているのだろう。なお、それらの生産者の手掛けたワインを購入し、飲用される方々は、この味覚の共和国の拡大メンバーでないとすれば、共和国のゲストないし旅行者として歓迎される。

 ときに、ラシーヌ版「味覚の共和国」から外にでていく生産者や、新たに加わる生産者がいるのは世の常であるにしても、それは共和国の共同運営にあたっている私たち、合田と塚原の責任と好みである。そういう動きはこれからも続くことは間違いないので、当共和国を愛してくださる方々には、あらかじめ告げておかなくてはならない。どうぞ、新しい仲間もまた楽しみにしていてくださいな、と。

 

 

 
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