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エッセイ:vol.83 ピュアも良し悪し

公開日: : 最終更新日:2014/12/26 定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム

結論

 純粋という言葉は耳に快い。が、じつは人間は、純粋が苦手なのだ。そもそも純粋な物質など、この世には存在しないということを考えれば、おおよそのことは見当がつくはず。だとすれば、純粋な物質は人間にとって危険だという結論が得られることになる。だが、純粋という観念は、とくに日本人のお気に入りであるらしいが、純粋主義者もまた、危険な存在なこと、間違いない。純粋という観念は、とかく人を小宇宙に導きがちであって、その世界内では論理的な整合性をもつが、内容が貧弱になりがち。むしろ、矛盾を内包する不純ながら活気を帯び、ドラマティックで複雑な世界こそ、豊かさの証しなのではなかろうか。ことは、人間にもワインにも通じるようである。エネルギーに貫かれていて、純粋、複雑にして個性的な味わいこそ、究極の課題なのである。

 まず、水から見てみよう。塩素や放射性物質などの化学成分を含まない純水は、そのままでは飲用に適さず、むしろ人体に有害とされている。前にも書いたことだが私は、福島原発事故このかた無力化した浄水器を排し、逆浸透膜装置を組み合わせた高性能な純粋器を家庭でもオフィスでも重用している。おぞましい放射性物質を除くためである。けれども、その器具から得られた純水に、必ず富士山の溶岩石(「マリモ石」)を加え、ミネラル分を補うようにしている。いわば純水を意図的に不純化しているわけ。ちなみに、エルヴェ・ジェスタンは訪日した折り、このように補正された純水の有するエネルギーを測定した結果、シャンパーニュ製造過程で洗浄などに用いる水よりもはるかに優れていると激賞していた。

アルコール

 次に、アルコール。純度100%のアルコールは通常、蒸留という作業を繰り返して精留しなければ近づけない化学物質であるが、自然界に存在しない純粋な物質は、人間にとって敵である公算が大。純アルコールを飲めばたちまち粘膜がただれ、生命の危険に追いこまれる。だから、まあ、ワインをふくむ酒類をアルコールと呼ぶのはおかしいわけで、ここはかた苦しいながらアルコール飲料と呼ばなくてはいけません。

薬は毒

 近代西洋医学で用いる薬剤は、植物性が多い漢方医薬品と違って、特定器官の障害に対して処方される単一または複合の純粋な化学物質である。ゆえに、多かれ少なかれ副作用が付きものだから、ときに病人にとって危険である。その極端な例が、当今その効用が一部で疑問視されている対ガン処方薬。近藤誠医師によれば、ガンの手術が無用なだけでなく、ガン処方薬も効き目よりは副作用が強すぎて他の健全な臓器と体力を脅かし、免疫力を落しかねないらしい。通説に挑んだ傾聴に値する議論であるが、なにごとも鵜呑みしないことが肝心であろう。

エネルギー、この最大なる危険物

 さて、火力はもとより、電気という純粋なエネルギーもまた、社会的に有用なこと言うまでもないが、エネルギー自体がそもそも危険なうえ、人体はその高エネルギーに耐性がないから、火傷を負ったり、はてはショック死しかねない。だいいち、エネルギー(という物理作用)をコントロールすることが難しいのだ。また、電気エネルギーを調達する手段として原子力発電は、いくら効率的でCO2発生量が少ないとしても、完全なコントロールが難しく、激甚な事故の可能性を湛えていることは、ご承知のとおり。早くも原子物理学理論の創成期から、強力な核反応エネルギーのさまざまな利用可能性が予見されていたが、その危険性もまた予感されていた。
 かつて私も仕事で原子力発電所内に立ち入って、見学したことがある。が、単純な発生原理とコントラストをなす、超大規模な施設と構造には度肝を抜かれ、人力でコントロールすることの至難性が容易に想像できた。施設の内部に入ると、大掛かりな構造物や巨大な装置に比べて人間という存在がちっぽけに見え、ピラネージ描くところの極小な人物像が点在する巨大なローマ廃墟画を思わせるものがあった。ちなみに、このピラネージ作の大型版画の一葉が、カロ作のコメディア・デラルテの小品とならんで、書物に覆われた廃墟ならぬ陋屋を飾っているのだが、これは余談。それどころか、いまや、まさに事故設備と周囲一帯は、廃墟と化しつつあるのではないか。

ワイン

 そこでワインに戻れば、良し悪しは別にして、純粋なワインというものは存在しない。たしかに、ルール上は製造過程で水を加えてはならないという点では、ワインは日本酒よりも純粋かもしれない。が、ブドウ以外の原料を用いないにしても、実際に各地で産するワインはそれぞれ、単にアルコール・水・ミネラル分を組み合わせたものではなく、酵母や細菌に由来するさまざまな香気成分やときに微量の悪臭が伴う、複雑な混合体にちかい。 その点、SO2で殺菌処理したブドウ果やマストに人工酵母を加え、コンピュータで温度管理されたステンレスタンク内で衛生的に量産され、徹底的に清澄濾過された近代的ワインは、味はもちろん画一的で単調だが、成分は純粋とはいえない。なぜならば、製造過程で各種の添加物が施され、処理剤に接しているはずだから、現代の量産型ワインは構成要素も味わいも純粋どころではない。

 逆に厳密な意味でのヴァン・ナチュレルは、栽培プロセスで有機農法やバイオダイナミックスで自然の恵みを浴び、醸造プロセスでもSO2をふくむ化学薬品をほとんどまったく添加されていない点では、純粋な思慮の産物でもある。まさに、〈自然=純粋〉という現代人の固定観念にぴったりくる、きわめて都会的な存在でもある。けれども、畑とセラー内でダイレクトな微生物コントロールが施されておらず、厳格な極冷式の清澄濾過をへないため、不純な成分が多いはずである。妥協せずに良心的に造られたヴァン・ナチュレルなワインほど、いわば野生児に近くてエネルギーにとみ、やたら暴走しがち。だが、名手の手にかかれば、そのようなワインであるにもかかわらず抑制が効き、ブドウ果に由来する成分が消えずして味わいは純に澄んでいながら、産地の個性であるテロワールを映し出すという離れ業を演じることができる。  

 以上、純粋をモノと精神と味わいにわけて論じたつもりだが、話が入り乱れて収拾がつかなくなってしまった。だから、純粋はややこしいのである。


 
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