『ラシーヌ便り』no. 102
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最終更新日:2014/09/03
定番エッセイ, 合田 泰子のラシーヌ便り, ライブラリー
no.102
今年の冬は、きびしかったですね。東京の春一番は3月18日と、この20年で最も遅い訪れでした。21,22日も冷たい風が吹きました。本日25日は、と ても暖か。東京では、明日にも桜が開花しそうな模様です。「春一番が吹いて、いったん気温が下がって、再び気温があがった後、ワインが息を吹き返したよう に、素晴らしい味わいを経験できる一瞬がある」と、昨年の経験から、繰り返しお話ししています。 クロード・クルトワによれば、「13歳のころから、村の 人やおじいさんのワイン造りを手伝っていたけれど、当時、ビン詰めは必ず満月が過ぎて7~10日経ってからおこなってきた。 明確な理由はわからないが、いままでの経験上、この時期のワインは最高の状態になっていて、澱がタンクに張り付いているためか、ワインはキレイに澄んでい る。今年は3月24日から3月26日の間におこなう予定だ」とのこと。 今年の奇跡の夜は3月24、25日あたりでしょうか。昨年のような、驚きの実感はありませんが、昨夜(24日)のピノ・ネロ2010/レ・ドゥエテッレ は素晴らしくのびやかで、美しい味わいでした。さて、今夜(25日)はどうでしょうか。
Festivin/ クロード&クロディーヌ・クルトワの来日
Festivin開催、クロード・クルトワ夫妻の来日と、行事が続きました。ご参加くださった皆様、ありがとうございました。 クロードは到着した瞬間から感激のあまり涙ぐんでいましたが、来日中に長年クロードのワインを大切に育ててくださった方と話をすることができ、興奮が冷めることのない毎日だったようです。いくつか特に強く心に残った言葉がありますので、是非ご紹介したいと思います。 《クロード・クルトワ語録より》 * 京都のRacines X Racines ナイトで2002年Racines を味わって。「このワインで、私はパリのクライアントの大半を失ってし まった。本当に難しいヴィンテッジだった。タニックで、果実味が隠れ、不快な酸が目立ち、長い間楽しむことが難しかった。今日のこのワインは、素晴らしい ハーモニーを得て、何と繊細な美しさに満ちているのだろう。朝到着したばかりのワインを、その日のディナーで売るようなサービスをしていては、このような ワインを理解することはできない。」 この日は、ドゥ・コションさんでイベントを開いていただきましたが、1か月熟成させた見事なステーキを堪能して次の ように話してくれました。 「この日のために、肉を1ヶ月かけて熟成し、用意をしてくれた。日本には、相手のことを思って、時間をかけて用意をするという 文化があるのだなー、本当に2002年Racinesとこのステーキを食べてそう思うよ。私は、最近はもうほとんど肉を食べなくなった。でも、今このス テーキを食べて、ジャン・ピエール・ロビノーと一緒に、合田さんが初めて私を訪ねてきてくれた時のことを思いだした。パリから、ジャン・ピエールが肉の塊 を新聞紙にくるんで持ってきた。1ヶ月以上寝かせた肉の表面をナイフでそぎ取って、焼いて食べたんだ。あの時以来の一番おいしいステーキだった。」
Festivin
第一部では、日本の造り手の方々が近くのブースに揃っていました。そこで、日本の造り手と話をして、自分の意見を言い終わったあと、次 のように語りました。「受け入れることが難しいようなことも、正直に言ってくれる確かなプロフェッショナルの意見を聞くことはとても大事だ。私は、プロ ヴァンス時代にいいワインを造っていたと思っているが、火災の後ソローニュの地にやってきて、91年からワインを造り始めた。以前は自然栽培されていな かったから、しばらくは自分の納得ができるものができなかった。人の思いや仕事内容がブドウの樹に理解されるためには、それなりの時間がかかる。95年ご ろようやく樹の根が地中深くに潜るようになった。つまり「根ができた」。赤ワインがなんとかいいものができたと思い、「ラシーヌ」と名付けることにした。 合田さんと取引を始めたころ、ある日、レストランへの販売をしている大変優れたテイスターが、村にやってきた。試飲会の場で、私の白ワインを一口飲んで、 「一切の価値なし」と言って去ろうとした。しかし、私は、追いかけて「私の赤ワインを飲んでほしい」と言った。それに応じた彼は、「いったい誰が、どこで このワインを造ったんだ。この地域で、これほど深い味わいのワインができるなんて、ありえない」と言った。その後彼は、私の家にやってきて、すべてのワイ ンを飲んだ。「白ワインは、まだまだ改めないといけない点がある。赤ワインは、あなたの信じるやり方でこれからもやっていけばいいだろう」。その後、彼は 大勢のレストラン関係者を連れてきて、試飲会を開いた場で、ブラインド・テイスティングをし、私のワインに最も高い金額をつけてくれた。当時の私のワイン は、初めて高額で取引されたヴァン・ド・ペイだった。1本50フランで流通されていた。
彼が私の白ワインを飲むや否やに放った「一切の価値なし」のひとことは、衝撃的の一言に尽きた。
まるで平手打ちを頬に受けたような衝撃が体中を駆け巡っ た。どうしたら良い白ワインが造れるのか_?考える毎日、眠れない毎日が続いた。でも、あの頃の彼の正直な一言が無ければ、いまの私はなかったかもしれな いと本当に感謝している。だから私も正直に物事をいうし、他の生産者のワインだからといって遠慮はしないしお世辞も言わない。 この人物に出会って、私はクロディーヌに言ったんだ。優れたワインを造らなければならない。本当に素晴らしいものを造らなければ、周辺のワインと同じよ うなものを造っていたなら、私たち家族はいつまでも苦労から抜け出すことができない。私は、クオリティ・ワインを造ることに決心した。そして、96年にナ カラ、クォーツ、プリュム・ダンジュ、97年にエヴィデンス、アルケミア、99年にキュヴェ・デ・ゼトゥルノーと造っていったんだ。 「ソーヴィニョンは、大変デリケートで、フラジャイルな品種だ。ソーヴィニョンは発酵中に酸を失い続ける。毎日、発酵温度と液体の密度を計測することはと ても大切なことだ。息子のエティエンヌも毎日かかさずおこなっている。私はワインを造り始めてからずっと計測をおこなっていてすべての記録を残してい る。」
滞在中、クロードと話していて、認識を新たにしたことは、クロードは単に、苦労をしてきたのでなく、ずっと闘ってきたということです。
歴史の中で、ソロー ニュの地で栽培されていた史実を確認し、植える申請をして栽培したシラーを抜かなければならなくなったり、その上55000ユーロにのぼる大きな代償を 負った。あまりにロワール地域で造られる他のワインと、異質の味わいであるために、ヴァン・ド・ターブルとして造り続けることとなった。より多くの税を徴 収することを指導する、AOC委員会とは闘いの連続でした。しかし、ヴァン・ド・ターブルであっても、自分の信じる常に最上のクオリティに向けて努力を重 ねてきました。そのため、昨今のヴァン・ナチュールの大きな発展の中で、ヴァン・ド・ソワフ(心地よく飲みやすいワイン)がもてはやされることや、前提に 揮発酸をよしとする造り手とは、交流を持つことがありません。 若い世代の造り手たちは、決して生半可な気持ちでヴァン・ナチュールを造っているのではな いと思いますが、クロードには安易な姿勢としか思えないようです。 「気まぐれでヴァン・ド・ペイを申請してワインを造っている輩が本当に許せない。だから私はワイン展示会などに出るのがイヤなんだ。そんなことを言うくだ らない奴らに会うのは嫌気がさす」と、最近ではほとんどサロンにも出かけなくなりました。いま、当たり前のように販売されている原産地呼称なしのヴァン・ ナチュールは、クロードやごく一部の人達の戦いの上にあるものなんだと、彼の長い闘いの日々を思いました。 「日本にラシーヌという会社があって、私のワインを紹介してくれていると、毎日ラシーヌのボトルにラベルを張りながら日本のことを思う。一日も忘れたこと はなかった。その日本に、クロディーヌと訪問できた。何と幸せなことだろう。本当にありがとう」と、光栄にも感謝していただきました。 クロード夫妻にとって、人生で初めて一週間にわたり家を離れ、飛行機に乗って海外に出た来日でした。彼らの感謝の言葉を忘れず、これからもいっそう深い信頼関係を築いていきたいと思います。
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