エッセイ:vol.81 鷲尾賢也君を悼む
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最終更新日:2014/12/17
定番エッセイ, ライブラリー, 塚原 正章の連載コラム
まえがき
友人の鷲尾賢也が急死したとの報に接して驚愕し、ひと月を経た今なお、というよりもますます、ワインについて悠長に書く気がしなくなってくる。そこで、またしても予定を変えて、私的な追辞を草することにしたので、お許しあれ。
鷲尾をあまりご存じない方のために、まずは略歴を紹介しよう。 鷲尾賢也(1944年7月13日―2014年2月10日)。東京都墨田区生まれで同区菊川の住人。都立両国高校、慶応義塾大学経済学部(田中明ゼミ・近 代日本思想史)に学ぶ。大学時代に八王子・大学セミナーハウスで催された丸山真男・共同セミナーに参加。大学卒業後キャノンを経て講談社入社。週刊現代編 集部、現代新書編集長、学芸局長、取締役などを歴任。現代新書でヒット作を連発したあと、「選書メチエ」や「現代思想の冒険者たち」シリーズを企画創刊。 講談社を早期退社後、神保町古書街に個人オフィスを構え、出版・編集関係の活動と評論に従事。名編集者として出版界でもてはやされただけでなく、みずから 健筆をふるい、著書・評論に『編集とはどのような仕事なのか――企画発想から人間交際まで』(トランスビュー)、『老いの歌――新しく生きる時間へ』(岩 波新書)など。なお、1972年に馬場あき子に会ったのをきっかけに作歌を始め、歌人・小高賢(こだか けん)として活動し、歌集多数。『本所両国』で第 5回若山牧水賞を受賞。
丸山セミナーの刻印
鷲尾とは通称「八王子・丸山ゼミ」で知りあい、塾の同学部で同じく思想史を学ぶという縁から、親しく付きあうこと になった。学生時代から下町風の気取ら ず明るい人柄で、付き合いと面倒見がよく、交際範囲もめっぽう広かったが、持ち前の真面目で骨太な志向は終生変わらず、首相官邸デモの常連でもあったと か。 鷲尾は学生時代に田中明先生(現・慶応義塾大学名誉教授)の学風に染まったせいか、福沢諭吉を論じた緻密だが生硬な論文を読まされて、閉口した覚えがあ る。当方は学風異なるマルクス主義者・白井厚のゼミに所属していたが(途中で自主的に退ゼミ)、図々しくも個人的に田中先生宅に押しかけて議論したあげく ご馳走になったりしたことがある。 しかし、鷲尾の人生に深い刻印を押したのは、大学を異にする丸山真男さんである。八王子の大学セミナーハウスで泊まり込み三日間にわたる集中セミナーで はじめて丸山さんに接した鷲尾は、学問的に丸山さんを尊敬するに至っただけでなく、人間・丸山真男に深く傾倒し、心のなかでたえず丸山さんと対話しようと していたようだった。その点は私も同様で、同セミナー以前から(慶大・内山ゼミの集まりで)すでに丸山さんの謦咳に接し、驚くべき構想力と豊かな知的世界 に圧倒されていたので、八王子セミナーに応募したのだった。感銘にみちた三日間はあっけなくすぎ去ったが、誰いうとなくセミナーの集まりを続けようという ことに決した。丸山さんもその集まりによく出席して、ときに講義までしてくださった。この集まり(現・アルスの会)が今日まで続いていることは、丸山真男 「手帖の会」に報じられているとおりである。 ところで、鷲尾と私だけでなく、丸山さんを囲む誰もが心底楽しんだのは、丸山さんの「雑談」である。提起されたあらゆる話題や問題に応じて、丸山さんは 即興的に応じながら、深い識見をユーモア交じりに披瀝された。しかも、その興味深い話―「しゃべくり」は延々と続いて、独演会の態となるのがつねだった。 私はたまたま実家が丸山さんの近所だったのをいいことに、しばしば丸山宅を、それもときに予告なしに訪れ、セミナー員の近況を報告したものである。アルス の会で私自身が設定した役割は、丸山先生と会員諸姉諸兄との交流のためのパイプ役であった。アルスの会の会長を快く引き受けてくれた鷲尾は、また安岡章太 郎さんの「丸山さんを囲む会」の幹事役も務めていたので、丸山さんとの親しい交流はごく近年まで続いていた。 丸山さんは私たち一同にとって、筑紫哲也いうところの「連子窓の師匠」であり、私たち「連子窓の弟子」それぞれの原点でもあった。ちなみに丸山先生の没 後、私が関わって輸入したワインをお届けしたところ、ゆか里夫人は遺影の前にお供えしてくださった。「肝臓が悪いので酒は飲めないけれども、ワインだけは 別」と仰っていた丸山さんの言葉を思い出して、ふと涙ぐんでしまった。
編集への執心
大学卒業後、鷲尾はキャノンに入社したが、編集という職業への執念が止みがたく、たまたま週刊現代編集部が人材募集していたのに応じて、首尾よく合格。 その直後に鷲尾から職業替えの意志を打ち明けられ、「編集者志望の君に週刊誌の仕事は、なじまないんじゃないの」と水を差したが、本人の意志は固くて週刊 誌編集者へと転身した。当時、週刊誌の記事の作り方(トップ屋、データ屋によるチーム取材のまとめ方)や、業界の「記事にならない内幕と常識」などを教え られたが、鷲尾のエネルギッシュなワークスタイルに感心したものである。 その後、初志を貫いて雑誌から新書部門へと部署変えになってからの鷲尾の活動ぶりは、外から見ていても目覚ましいものがあった。が、その背景には、「岩 波文化、なにするものぞ」という対抗心が脈々と波うっていた。だから、うっかり岩波新書を持ち上げると、すぐさま強烈な反論を浴びせられた。鷲尾流の新書 編集術は、具体的で参考になった。要は、実力はあるが一般書を出したことのない研究者を発掘して、執筆を働きかける。彼らは往々にして研究の蓄積はある が、本の書き方を知らない。そこで編集者は文体から文章構成法、見出しの作り方(各ページにひとつ)などのこつを伝授して、薄い新書版に仕立て上げると いった具合。 たぶん、この手法は週刊誌時代の記事製作法に学んだのではなかろうか。つまり、編集者は研究室の主任教授もどきに、根気よく懇切丁寧にアドヴァイスと指 導を加えたはずである。とすれば、影の著者、あるいは少なくとも共同執筆者は、編集者だったといってよい。本人もこのことは半ば自慢げに認めていた。とい うより、いかに大学教師や研究者が書き方を知らないかに呆れ、憤慨していた。けれども逆に、その未熟な研究者たちの幼稚な作文こそ、幅広い知性に富んだ、 練達した編集技術の持ち主にとっては、腕の振るいどころだったのだ。 現代新書でヒットを連発したにもかかわらず、それに流されない鷲尾は私的には硬骨漢ぶりを貫き、次々に思想家や作家の全集を買い求めては自宅を汗牛充棟 の書庫に仕立て上げていった(この書痴ぶりは、私も同じ)。だが私と違って偉いのは、それらの手強い著作物や研究書を丹念に読もうと努め、これまた優秀な 編集者仲間たち(たとえば平凡社の竜沢武君。私が留年したときの同級生)と、しきりに勉強会を開いていたこと。怠け者の私は「読書会」に一回出席しただけ で怖気をふるい、以後のお誘いは辞退させていただいた。鷲尾は学究肌であったから、たぶん本格的な学者になりたかったのではあるまいか。ただ、私たちのご く身近に丸山真男さんのような飛び切りのインテレクチュアルがそびえ立っていたから、おのずと落差に気づかざるをえず、学者をあきらめて編集者になったの かもしれない。だから、大学教師や研究者の啓蒙的な新書を世に出しながら、研究者・鷲尾賢也の可能性を問おうとしたと解せなくもない。 学校を卒業してから学問がはじまり、学問をしなくても学問を愛することはできる。私もまたそのようなところがあり、たがいに万年書生のようなものだった から、鷲尾とは気が合ったわけだ。鷲尾の結婚式ではスピーチを頼まれたが、そこは編集者気質丸出しの鷲尾のことだから、「丸山ゼミのことを話せ」と注文さ れた。が、へそ曲がりの私は、ゼミについて述べるだけでなく、学徒・鷲尾君と題して、賢也という名が顔回を褒めた孔子の言葉に由来し、「、一箪(いった ん)の食(し)、一瓢の飲、陋巷にあり。人はその憂いに堪えず。賢哉回也(賢なるかな回也」という一節を引用して、勉強家にして永遠の学徒である賢い鷲尾 を持ち上げたのである。 その後の鷲尾は、いよいよ知の世界に存分に浸り、念願だった高級な知性派好みの選書を編むに至った。これは、ほとんど出発時の高邁だった岩波新書の趣が ある。ちなみに鷲尾は、自分は「講談社のなかの岩波文化だ」と自称していたらしい。その言や、善し。つまり、ご本尊よりも岩波らしいという自負の言葉とし て、受け止めたいと思う。
編集術について
それでは、鷲尾流の編集術と、編集を考えるための武器あるいは知的装置としてとらえる外山滋比古さんや松岡正剛さんの流儀とは、どのような違いがあるだろ うか。外山さんは現在のように評判になるずっと前のこと、電通有志が営む「日本の言葉と文学を考える会」で氏を囲み、長時間お話を伺ったことがあるし、そ もそも氏の著作からは大いに啓発されたものである。外山さんは、考えるための発想法として編集を再定義したものだといえるし、それを支えているのが福原麟 太郎門下として学んだ英文学に関する深い教養である。 他方、松岡正剛君の著作や書評から察するかぎり、氏の読書範囲が時空をこえて恐ろしく広いだけでなく、不可思議なものや自然界までをふくめて宇宙を広く とらえる視野があって、氏の知的世界の広大さとその内部における相互連関や関係性をまざまざと実感させる。しかも、読み込みの深さと独自性の点で、氏は当 代の誇る大読書人といって差し支えない。氏の宇宙構造を作っている骨格が、氏の造語になる「編集工学」であろうが、これは単なる本造りとはわけが違って、 知の世界の内的関連をとらえ、消化して自分の場を造り上げるための技法なのである。 これら両氏の知的技法(応用)としての編集と、さきにその一端を披露した鷲尾流の編集作業(実業)とは、いささか異質であろう。私の知るかぎり、鷲尾流 は出版(社)の現場における効果的な実践技術あるいは作法にとどまるという印象が強くて、思想を展開するための方法という問題意識が乏しいとみる。いかに も、鷲尾個人は出版界でもずばぬけて知識教養が深く、歌人としても社会意識が深いこと間違いないが、ことヨーロッパの知的世界と文芸に関するかぎり、私は 彼にもの足りなさを感じていた。ために、よく仲間内で「君は欧米文学などの素養が乏しいね」と鷲尾をからかったものである。この点は鷲尾も自覚し、率直に 認めていた。鷲尾はいわば、「下町のインテリゲンチャ」であり、それを自認し、実践していたのだ。逆に彼は、私が日本文化の表層しか捉えておらず、民族文 化に理解していないと非難。「ヤクザ映画を見なければだめだ」と決めつけ、無理やり緋牡丹博徒シリーズを見に行かされた。そのお返しに私は鷲尾を、フラン ソワ・トリュフォー監督が書物のない世界を描いた傑作「華氏451度」(原作レイ・ブラッドベリー)に連れていった。ちなみにこの映画では、消防隊は本を 焼却して書物文化を滅失させ、それに対抗する読書愛好家は書物を一冊まるごと暗記し、言葉で人に伝えるという逆立ちした世界が描かれている。だから、書物 の世界に生きる鷲尾としては、あまり楽しめなかったのも無理はない。 さきに鷲尾の名前にちなんで、孔子の顔回を想う言葉を引用したが、じつは孔子の言葉はそれだけにとどまらない。孔子から「学を好み、怒りを遷さず」と賞 揚された顔回と同じように好学の士であった鷲尾は、孔子の言葉どおりに、現代の基準からすればあまりにも早く「不幸、短命にして死せり」となってしまっ た。いまごろ鷲尾は、本のない世界で読書人のわが身を持て余しているのかもしれない。それよりむしろ、彼の敬愛した丸山さんや安岡さんと、尽きるところな く話し興じていることを願うのみである。
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